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クイーン・オブ・スポーツ  作者: 北原樹
1/8

クイーン・オブ・スポーツ 第1幕

この空の向こうには世界が広がっている――果てしなく広い、文字通りの世界中の国々が。この空は果たしなく広く、どこまでも高い。

どこまで行けるか。それは全てあたし達次第。

そう、あたしは世界の頂点だけを夢見ていた……。








長野県諏訪盆地にある観光客で潤う茅野市の空は狭い。そして夢も希望もない。少なくともあたし――桐原希にとっては。

子供のときから勉強もスポーツも出来た。

小学校に入ると正月の高校サッカーに出たこともあるサラリーマンの親父の影響でサッカーを始めた。親父は何かと女の子がサッカーなんて、と嫌味を言うが、知ったことじゃない。あたしのしているのは「女子サッカー」なんかじゃない。そこそこサッカーが盛んな茅野のチームには男女の区別なんかなかった。正確に言えば、女子チームもあったが、あえてあたしは入らなかった。地元のクラブは弱かったからだ。常に年上の男子チームに入り、エースストライカーとしてプレーした。

6年生のときなんか、あたしより小柄で鈍足な男子を従えて、最強のチームだった。全日本少年サッカー大会はヘボディフェンスのせいで長野県予選で負けてしまったけど。

中学に入ると小学生時代同じチームに入っていた女子が次々と女子クラブチームに入った。無理もない。中学生になると男子との身体能力差は広がるし、並の女子では対抗できなくなる。中学生までは女子と男子は同じチームでプレーできる。だからあたしはレベルの高い男子主体の中学サッカー部を選んだ。茅野の女子サッカークラブは県内最強だったけど、あたしからすると物足りなかった。そのクラブには各年代別のチームがあり、社会人チームもあるけど、あたしは上の言うことをホイホイ聞く性格じゃない。そもそも女子では社会人チームですら、中学男子サッカー部よりレベルが落ちる。         

ただあたしはラッキーだった。中学に入った時点で165cmの身長と同学年の男子には当たり負けしないパワー、そしてスピードと技術はピカイチだった。男子サッカー部に入り、2年生でレギュラーを取った。チームは弱かったけど、あたしは点を取りまくった。蓼科や八ヶ岳など自然は豊かだし、そんな中で育ったあたしはスポーツなら何でもできた。だけど有名な女子サッカー選手は遅くとも高校までには、有力チームに入り、優れた指導者の下、合理的なトレーニングを行っている。あたしの中学の顧問はサッカー経験はあるけど、指導者ライセンスは何も持っていなかった。だから、男子と1対1で負けてたまるか、という気概で頑張ってきた。でも行き詰まりを感じていた。なでしこジャパンの近代的なパスサッカーには程遠い、あたし任せのサッカー。このままではだめだと思っていた。


12月、山奥で標高の高い茅野の冬は雪が積もるので体育館で技術主体の練習を行う。あたしのチームは長野で優勝できるレベルではなく、かと言って、男子部員全員を実力でごぼう抜きしたあたしは目標を見失っていた。サッカーでは天井効果という言葉がある。要するに周囲のレベルを天井に例え、天井に達したらそれ以上成長できないという意味だ。茅野ではこれ以上成長できない、と思い始めていた。


そんなある日、家族会議とやらがあった。ウチはサラリーマンの親父とパートの母、そして2歳年下の小学6年生の妹の光。そして愛猫の「にあ」の4人と1匹家族だ。日曜の真っ昼間にコーヒーを4人分注いだ母の表情が硬い。対照的に親父はうきうきしていた。そして口を開く。「来年の4月から東京の本社への栄転が決まったんだ」

「えーっ、引っ越すの?」

ショックを受けた光がすぐ反応する。あたしは何を言われているのかすぐには解らなかった。

「これはとてもいい話なのよ」

母が間に入る。

「お父さんの給料は上がるし、都会でいろんな人に出会えるし、進路も選べるようになるの」

「友達と別れないといけないじゃない」

「中学進学は新しい友達を作るいいきっかけよ。それに勉強するにもいい環境だと思うの」

「父さんはな、新しいチャレンジをしたいんだ。お前たちにも新しいチャレンジだと思ってほしいんだ」

「東京の子ってすぐに田舎ってバカにするって言うし……」

あたしはじっと聞いていたが、まったく異存はなかった。なぜなら東京にはレベルの高いサッカーがあったからだ。サッカーでのし上がってやる。そのためにはいい環境でプレーしなければ、と考えていたからだ。

「希はどうなんだ?」

親父が聞いてくる。

「あたしは東京に行きたい」

「お前こそ田舎育ちが性に合っている気がするけど」

「強いサッカークラブに入っていい選手になりたい。光もそうじゃないか?」

光はあたしに憧れてサッカーをやっている。あたしほどじゃないけど、そこそこ有望な選手として関係者には注目されているらしい。

「私も強いチームには入りたいけど……」

「だったら早いうちに上京したほうがいい。あんたも知ってるでしょ。長野の女子サッカーの環境を。クラブチームもレベルは低くて、高校女子サッカー部はほとんどない。強いチーム行こうと思ったら長野の方まで通わなきゃいけない。そんなの無理だろ」

「お姉ちゃんはマイペースだからいいけど、私は馴染む自信がない」

「あんたは空気読むの得意だから、あっさり都会っ子になると思うけどな」

この一言で光はしぶしぶ承知した。家族会議前は浮かれていた親父もほっとしていた。にあはソファーの下でボーッとしていた。


そして中2の冬休みに上京して、なでしこリーグ「東京ベラトリックス」の15歳以下のチーム、「東京べラトリックス・ガールズ」のセレクションを受けた。このクラブはなでしこリーグに参加する大人のトップチームとその育成機関である18歳以下の「プリンセス」、15歳以下の「ガールズ」がある。なでしこリーグの下部組織ならいい環境でいい指導も受けられる。そこで大きく成長すれば、いずれなでしこジャパンやプロ契約、海外への移籍もできるかもしれない。

当然だけどあたしは軽くセレクションに合格した。もともと上のレベルを目指して茅野でプレーしていたし、あたしほどでかくてスピードがある点取り屋なんて、今の日本女子サ

ッカーにはいなかったからだ。あたしはやっと世界へ一歩近づいた気分で転校する春を待ちわびていた……。











第1幕



都内の空は狭い。山手線から伸びる小田急沿線の社宅に引っ越して、学校が新年度を迎えるまで、東京べラトリックスの練習場に通う毎日だけど、やたらマンションやビルが立ち並び、辟易としていた。蛇のように長い電車に乗りながら圧倒される気分を隠そうとしていた。。今日も練習場一番乗りだ。

「おはようございます」

ガールズの松原監督を見かけて一礼する。クラブのOGらしいが、現役時代はよく知らない。というよりなでしこリーグを生で観たことは今まで一度もなかった。いつもジャージで化粧もしてない。髪を首元で短く揃えている。

「今日はケンカするなよ」

「ケンカなんかしてませんよ。ただ言い合ってるだけです」

「うまく意見の妥協点を見つけるのもサッカー選手の評価基準よ。自分の意見を押し付けるだけでは上手くいかないわよ」

そうなのだ。あたしはチーム合流早々に新しいチームメートとぶつかった。練習がヌルいだの気合が入ってないだの、チームに活を入れたつもりが、いつの間にか孤立していた。チーム加入早々にストライカーナンバーの9番を要求して顰蹙を買ったせいもあるかも知れないし、あたしがこれからポジションを奪う予定のライバルFWを「へたくそ」とけなしたのもまずかったかも知れない。あたしは18番を与えられた。いわば「第2の点取り屋」の番号だ。社宅からジャージ姿だったので、荷物置き場にバッグを置いて練習場に向かう。トップチームやプリンセスは人工芝だが、ガールズは土だ。

念入りにストレッチをした後、体幹トレーニングを行う。体のバランスを支える筋肉の強化を図るトレーニングで、あたしのようにパワーを活かしたいタイプには欠かせない。

本を読んで独学でやり方は知ったけど、このクラブだと松原監督やほかにもサッカートレーニング理論には精通したスタッフがいるので、正しいやり方やコツを教えてくれる。



軽く汗をかいて、髪をかき上げた。長野に住んでいたときは男子部員の中で目立つために、肩まで伸ばした髪を両横で白いゴムで束ねていたけど、今はショートにしている。どうも長野でごく当たり前のヘアスタイルは東京ではダサいらしいし、髪が鬱陶しく感じることがあったからだ。

そうこうしているうちに、三々五々チームメートが集まってきた。新中1から中3まで、各学年約10人ずつ。合計32人。中学生の間はチームメートでいられるが。中3の場合、高校生チームのプリンセスに上がれるか、この1年で決まる。だからみんなライバルでもある。上がれない場合はプリンセスよりは環境やレベルの落ちる高校女子サッカー部でプレーを続けるしかない。

「ちわーっす」

主将の七里瑤子が声をかけてくる。肩までの髪を頭の後ろでお団子にしている。隙のない女、というのがコンセプトか。

「ちわーっす」

返事をするが、こいつとは冷戦状態だ。瑤子は責任感から声をかけてきたのだが、本当は口も聞きたくないはずだ。他の奴らとは挨拶する気にもなれない。仲良く談笑しながらストレッチなんぞをしている。

そんな時、「こんにちは」とのんびりした声があたし達に届く。天敵の高柳詩織だ。鎌倉のお嬢様学校に通い、お嬢様然とした態度を崩さず、あたしとは違った意味で浮いている。サッカーはお嬢様のお稽古とは違うのに。そして空気を読めないのか、私にも親しげに話しかけてくる。

「桐原さんは今日も一番乗り? 早いのね」

「そりゃ、遠くから通うあんたに比べればね」

色素の薄い天パで、あろうことか背中にかかるロングヘアを触りながら話す。色も白い。サッカー選手にはとても見えない。栞は鎌倉から江ノ電と小田急を2つ乗り継いでベラトリックスの練習場に通う。

「春休みだし関係ないわよ。それだけ桐原さんが熱心だということ」

「あたしはあんたほど才能がないらしいし」

そう、こいつはサッカーにおけるエースナンバー10番を背負っているのだ。ベラトリックスの10番は他のチームとは重みが違う。

「そんなことないわよ。その証拠にまだプリンセスではプレーさせてもらえてないし」

プリンセスは18歳以下という意味だから実力さえあれば、中学生でも登録できる。少し見た限り、詩織はプリンセスでも通用する力がある。それもレギュラーで。いや、もしかしたらトップチームで通用するかもしれない。なのにこいつには野心というものがないのか?

初めて会ったときの衝撃は忘れられない。西洋人形みたいな顔つきでサッカーなんか出来るのかよ、と思っていたら左足から柔らかいパスを足元にピタリと通す。マークにつく選手をドリブルで簡単にかわしてシュートを決める。茅野の中学サッカー部では味方は適当なボールしか出さなかった。 

いや、出せなかった。適当に前に蹴って、後はあたし達前線がなんとかしてくれ、というサッカーだった。あたし頼みのワンマン(ワンパーソン?)チームだった。まああたしのことだから、なんとかなったのだけどね。なのに詩織は正確に足元に来る。サッカーにはファンタジスタという言葉がある。イタリア語で、幻想的とかいった意味で、誰も予想のつかない創造性あふれる選手を指す。しかも詩織の奴はスピードもパワーも意外にある。パワーならあたしのほうが上だけど、スピードは互角かもしれない。40m走のタイムは同じだ。ただファンタジスタには頭がちょっと変、常識からずれている、というニュアンスもある。こいつの場合、空気が読めない辺りがまさにそうだ。

「詩織、練習遅れるから早く体温めて」

林田奈美が口を挟んでくる。気弱なディフェンダーで、ミスするたびに周囲から怒鳴られ、萎縮する。しかも指示らしい指示も出せず。怒鳴り返すこともできない。なのに温厚な詩織にだけは大声で指示を出す。

ああ、憂鬱な練習が始まる。



べラトリックス・ガールズの練習はボールテクニック主体だ。障害物としてコーンを使ったドリブル練習から始まり、次に攻撃側が外で6人でパスを回して中の守備側が4人でボールを追い掛け回す。 

奪ったらミスした攻撃側と交代だ。下手な奴、闘争心のない奴はずっと中でボールを追っかける役となる。

そして左右のクロスからのシュート練習、最後に11人対11人のミニゲームだ。新年度のレギュラー候補組対リザーブ組、というわけではなく、ジャージ組には攻撃陣のレギュラー候補、赤いビブスを付けた方は守備陣のレギュラー候補がそろっている。1年生の何人かはピッチの外で見てるしかない。

サッカーでは守備は組織力だと言われている。だがべラトリックス・ガールズはなでしこリーグの下部組織であり、チームが組織力を高めて勝つことよりも、個人能力を高めてトップへ人材を送ることを目標にしている。だからたいてい攻撃陣の力が守備陣を上回る。ビブス組のセンターバックがじっくりパスをつなぎ、あたしがパスコースを切りつつ、距離を詰めていく。 

奈美が何気なく右サイドバックの村田碧にパスを出すが、そこへはジャージ組の左ミッドフィールダー、詩織が寄せていく。あっ、碧が短くパスをつなごうとしてジャージ組にパスしてしまった。すかさずビブス組の守備的ミッドフィールダー瑶子が怒鳴る。ジャージ組はシンプルに左の詩織にパスを出した。瑶子が必死にカバーに入ろうとする。しかし詩織と対峙した碧は誘いに乗って安易に飛び込み、いとも簡単に抜かれてしまった。瑶子と奈美があわてて追いかけ、詩織をファウルで倒す。フリーキック。試合ならイエローが出るところだ。瑶子は

「碧、みーどーり!そういう無責任なパスを出すとチーム全員が迷惑するだろ! 考えてプレーしろ」

と怒鳴る。おずおずと見守っている奈美にも、

「あんたが怒鳴らなきゃ、いけないところでしょうが!それでもセンターバック?」

瑶子はいつも怒っている。得たフリーキックは詩織が左足で蹴る。中学3年生女子の平均身長は158cm。あたしは172cmでジャンプ力もパワーもある。マークについたのは167cmの奈美だった。詩織が助走に入ると同時にフェイクを入れて遠目のサイドで奈美と距離をとる。そこに正確なボールが飛んでくる。キーパーの下田香苗も出られない。あたしは奈美の上からヘディングを叩き込んだ。

試合は4対0でジャージ組の圧勝だった。あたしは2点取った。瑶子は怒り狂っている。詩織は碧を慰めているが、碧は詩織と対峙するポジションのせいで酷い目にあったのだ。空気を読めないにも程がある。あたしはアピールできて満足だった。ただべラトリックスにはヌルさがある。瑶子が引き締めていてもカバーしきれないヌルさ。それは間違いなく中心選手の詩織の闘志の無さが原因だった。不甲斐ないプレーをしたら怒る。それが長野の男子サッカー部の空気だった。女子チームはなんてヌルいんだろう?



小田急線沿いの公立中学に通うことになったあたしと2つ下の妹の光はもろもろの手続きを済ませて、あとは始業式(入学式)を待つだけだ。長野を出るとき散々泣いた光も社宅に入ると猫の「にあ」が部屋になれるのと同時に馴染んでいった。部屋はあっという間に臭くなったが。

「お姉ちゃん、中学でもトラブルを起こさないでよ」

と言い残して光は母さんとともに入学式に出かけていった。失礼な!実の姉をトラブルメーカーみたいに。でも光は私より人当たりがよくて、人に溶け込むのが得意だ。べラトリックスに入るほどのサッカーの実力はないけど、そこそこのクラブチームを見つけてサッカーを続けることにしている。

あたしは暇な時間は録画した試合を観るか、サッカー本を読むことが多い。録画した試合というのは海外サッカーだったり、女子のワールドカップだったり。何度観ても観飽きない。そうこうしているうちに昼になり、妹は早速出来た友達とマックで駄弁る事、母さんも保護者同士でファミレスで話して帰ることをメールしてきた。うちの家族はあたし以外、人当たりがいい。明日の始業式が憂鬱だ。その前にも憂鬱なべラトリックス・ガールズの練習がある。



「ええっ!長野と同じジャージで登校するの~? ありえないよー」

紺の標準服を着てリボンを結んで、登校準備を終えた妹が耳元でわめく。光は髪を両サイドに束ねてリボンでくくっていた。あたしはと言えば長野ではスカートの下にジャージを履いて登校してた。

「一緒に登校するの、恥ずかしいよ~」

「もう都会人気取りかよ!これがあたしのスタイルなんだからいいだろ」

初登校の朝からひと悶着が起こる。

「変に都会人ぶったって浮くだけだぞ」

「東京には東京のやり方があるの。お姉ちゃんは周りを気にしなさ過ぎなんだよ~」

「校則では禁止されてないからいいじゃん。ぎゃあぎゃあいう奴なんてほっときゃいいの」

まだぶーぶー言う妹を無視して社宅の玄関を出る。狭い歩道を進む。あたしは一度通った道を忘れないタイプだ。東京の校舎は画一的で、校庭も狭い。思えば茅野はグラウンドだけはたっぷりあった。姉妹揃って職員室に行き、クラスを知らされ、そのまま待つように言われる。先生からもその格好でいいのか?と念を押される。都会人は細かいとこにうるせえな。

やがて予鈴が鳴り、担任の先生からついてくるよう言われる。

3年10組は校舎の一番端だった。茅野ではこんなにクラス無かったぞ。先に担任が入り、いろいろ言ったあと、教室内に入るよう言われた。転校の際には舐められたらおしまいだ、というのをどこかで知識に入れていたので、緊張していないことを態度で示すべく、ゆっくり教室内を見渡しながら入る。自己紹介するよう促されて、考えていた口上を口にする。

「長野県茅野市から来た桐原希です。サッカーをやっていて、それでのし上がって、いずれはなでしこジャパンに選ばれて世界中で試合したいです。どうかよろしく」

しかし生徒はスカートの下のジャージ姿に気を取られたようだ。そしてまばらな拍手。舐められはしなかったようだが、溶け込めそうに無い。

好奇心にさらされつつ一時間目を終わったあと、短髪の男子生徒が近づいてきた。

「オレ、吉岡って言うんだけど」誰もお前の名前なんか興味ねえよ。

「サッカー部でさ。女子サッカーってレベル低いし、簡単に全国大会出られていいよな」

簡単じゃねえよ。そんじょそこらの中学サッカー部とベラトリックスではわけが違うんだからな。

「それで吉岡とやらは都選抜とか地区選抜に選ばれてんの?あたし、ベラトリックスだけど」

吉岡はむっとした表情を浮かべた。

深海魚みたいな顔の坊主頭が近づいてきた。

「ウチのサッカー部はまあ平凡の成績しか残してないからな。野球部は強いぞ。日本人なら野球でしょ?」

この手の中傷にあたしは容赦が無い。

「地球人なら、人間ならサッカーでしょ。あたしは人間であることを止めない」

深海魚顔をじっくり見ながら言い返す。

お?なんか女子が遠巻きになってこっちを観察しているぞ。

毎朝鏡の前でくしをかけてヘアスタイルをチェックしてるっぽい二枚目が来たぞ? コイツもサッカー部らしい。

コホンと咳払いして言い放つ。

「女子サッカーは野蛮じゃないか?もっと淑やかなほうが好きだな」

ほう、詩織みたいなのがタイプか?でもこいつナルだな。

「いまどき淑やか?時代錯誤してんじゃないの?強い女の時代だよ。それにあんたキモい」

なんかこいつ本人はともかく女子の雰囲気まで変わった。どうやらクラスを敵に回したらしい。似非二枚目は顔を赤くして、「フン」といって立ち去っていった。山城とかいうらしい。



べラトリックス・ガールズはよく言えば自信に溢れていて、自我が強い。小学生時代はお山の大将ぞろいなのだから当然だ。そして中学に上がる前に50倍以上もの倍率のセレクションを勝ち上がった選りすぐりのエリート集団だ。その中で自信を失っていく子もいる。大声の出ない奈美なんてまさにその典型だ。そんな中でもあたしは個人能力だけなら上の方だと思う。 

べラトリックスのサッカーはドリブルとショートパスを織り交ぜて狭い局面を打開していくスタイルだ。あたしは長野のへたくそな男子チームの中でやっていたので、個人練習で技術は磨いていたけど、どうしても細かいサッカーに慣れてない。体の強さと高さでは圧倒できるけど、べラトリックスのスタイルに馴染んでない。

本当なら今すぐプリンセスに上がって人工芝で練習したいけど。まずはガールズで結果を出してからだ。あたしが入るまでの点取り屋で新チームでストライカーナンバーの9番をつけている黒木梨奈なんて目じゃない。ちょっと足元が上手くてシュートテクニックがあたしとそこそこ勝負できる程度の選手だ。高さもパワーもスピードもあたしのほうがずっと上だ。

この日はメンバーを落としたベラトリックス・プリンセスとの練習試合だった。プリンセスともなれば実力者はトップチームで使われる。女子に高校生と大人の差は無いに等しい。特にベラトリックスは技術や個人戦術をプリンセスのうちに高めるから、大人との差はパワーとスタミナと経験だけといっていい。そして当然、プリンセスとガールズの差も小さい。才能ではガールズのほうが上じゃないかと思ってる。

試合はプリンセスが6割がたボールを支配する。守備的ミッドフィールダーがボールを持てるので、落ち着いて連続攻撃を仕掛ける。ウチの瑶子はキャプテンシーはあるんだけど、ボールテクニックが無いので怒鳴りながら指示を飛ばしている。そして細かいパスワークで中盤を支配し、フォワード9番にパスがどんどん出てくる。30分ハーフの前半だけで2失点。ウチは詩織が左から2人抜いてシュートチャンスを迎えたが、梨奈にラストパスを出して、シュートミスで1点も取れなかった。あたしにボールが来てもすぐに囲まれ、シュートまで持って行けなかった。

ハーフタイム、松原監督があたしになぜ味方をもっと使わない? と怒る。梨奈なんかに出せと?冗談じゃない。プリンセスの目に留まるかどうかの試合なんだ。アピールできなくてどうする。右の攻撃的ミッドフィールダー、山之辺加奈にいったんはたいてクロスを受ければ、あなたの高さなら勝てるんだから、と言ってる。詩織はもっと積極的にシュート撃て、と怒られている。詩織ならプリンセスで今すぐ通用する力がある。テクニックはプリンセスの控え組の誰よりもあるし、スピードもパワーも判断力もある。何で上に上がらないんだろう?

後半開始、ウチは詩織にボールを集める。プリンセスも警戒しているけど、詩織はいとも簡単にマークを外し、右サイドの加奈にサイドチェンジを決める。加奈の大雑把なクロスがあたしに来るが、プリンセスのディフェンダーも競って自由にヘディングさせてくれない。1度はカウンターで瑶子のパスを受けた詩織が中央突破で3人を抜き去り、あたしにスルーパスを出す。前が空いていたので、コントロールシュートを左上隅に決めた。

その後もガールズの連携がよくなり、攻撃の形も作ったが、最後はあたしが徹底マークを受け、詩織のパスを活かせなかった。梨奈は惜しいシュートを放ったけど決められなかった。結局ガールズは1対2でプリンセスの控え組に負けた。上を倒せないようではアピールできたとは言い難かった。

あたしは試合が終わってすぐに詩織に詰め寄った。

「なんでシュートチャンスに撃たない? 勝てた勝負だろ?」

「でも希のほうが空いていたじゃない?」

「パスは一回つなぐごとにミスの確率も上がるの! あんたの技術なら決めれただろう? 」

「でも、相手を振り回したほうが楽しくない?」

楽しいだと? ここはお嬢様の習い事じゃない。サッカーでのし上がるための育成チームなんだ。上にアピールしなくてどうする?

「それに希は梨奈を生かしてなかったじゃない。全部シュートに行って。味方のアシストもしないと駄目よ」

「あんたみたいに全部パスというわけには行かないんだよ、フォワードは」

フォワードは数字を求められる。プリンセスに上がるためにあたしはゴールを量産しなくちゃいけない。まだベラトリックス式の細かいパスワークに慣れてないあたしは多少強引にでも点を取っていくしかない。

瑶子も詰め寄ってきた。

「アンタ。全然守備駄目じゃない。頑張っているのは解るけど。無駄に走りすぎ。コースを切っていれば、アンタが奪わなくてもいいんだから。むしろ追いかけすぎて、空いた相手を梨奈一人でカバーしなきゃ行けないから足手まとい」

「アンタこそプリンセスみたいにボールテクニックがあれば、こんなに支配されることは無かったのにね」

また一触即発だ。瑶子は華麗なテクニシャンではなく、がつがつ相手を潰すプレーを身上にしている。

「希、アンタ一人上手いと思っている? ただデカイだけで詩織や梨奈のほうがずっと上手いんだからね。ここは長野とは違うのよ」

「あたしは点取った。フォワードは点取ってナンボだし。結果を出したからね」

「アレは9割がた詩織のゴールじゃない」

「詩織はシュート撃たない。だから未だにプリンセスに上がれてないんじゃないの?」

瑶子の顔色が変わった。でも詩織はおっとりとした表情を浮かべている。

頃合いを見ていたのか、松原監督がさあ、着替えた、着替えた、と間に入る。

松原監督はあまり細かい指示は出さない。ベラとリックスの下部組織で10年間指導しているから、いい指導者だと思うけど、ベラトリックスは選手の自主性や個性といった人間性を重視しているとやらで、選手に言いたい放題させている。もっとも馴れ馴れしい態度は許さないが。


瑶子も一瞬こっちを見て、クラブハウスに向かう。

「そうだ、詩織。アンタとはサシでいっぺん勝負したかったんだ。1対1の相手をしてくれる? 15分でいい」

「いいわよ。それくらい」

手で運べるミニゴールをおいてペナルティーエリアのサイズで勝負を挑む。ルールは相手を抜いて至近距離からシュートすること。たくさんゴールを奪ったほうが勝ちだ。

あたしのマイボールからのスタートだ。肩をがっちり入れてブロックドリブルを仕掛ける。でも詩織も激しく肩をぶつけてチャージ! あたしのほうが体格いいのに、なんてボディバランスだ。あたしのほうが姿勢を崩したとこを奪われる。そして得意の切り返し2発であたしは振り切られ、早速失点。再び仕掛けるが左右に振ってもついてくる。そしてボールをつつかれて奪われ、あたしの逆を突いて横を抜かれて猛ダッシュでかわされ失点目。

華麗なテクニシャン・タイプは身体能力自体は人並みのことが多いけど、詩織は間違いなくパワーもスピードもある。これはもしかしてプリンセスどころかベラトリックスのトップチームでやれるのではないか?と思い立ったころには1対7の大差がついていた。

「ああ~負けた負けた」

「希も手ごわかったわよ」

「気休めはいい。あんたが凄いのは解ったから。なんで上に上がらないの? 」

「松原監督が、あなたは下でやったほうがいいとおっしゃるから」

「あんたには野心が感じられないんだよね。楽しけりゃそれでいいというか。お稽古事としてサッカーやってない?」

詩織は真面目な表情になった。

「お稽古事? 確かにそうかもしれない」

髪を束ねていたゴムを取りながら言う。色素の薄い天然パーマがパッと広がる。

「私はただサッカーが楽しくて、味方がゴールをあげるのが嬉しくて、そういうサッカーの出来るベラトリックスを選んだの。なでしこリーグでのプレーとか一切考えずにね。でもここのみんなは上に上がることを真剣に考えている。松原監督にはもう少しエゴイスティックにプレーするよう言われているわ。でも私はついパスを出してしまうの」

「勝つために最善のプレーが大事でしょ? 味方の受けがいいプレーとかじゃなくて。あたしは勝つも負けるも自分の責任だと思っている。だから極力シュートは自分で撃つ」

「それが正しいのかもしれないわね……。」



中学生女子チームにとって最大の目標は夏に行われる全日本女子ユース(U❘15)選手権だ。この大会はベラトリックス・ガールズのようなクラブチームも、中学女子サッカー部も参加する。長野のような田舎には中学女子サッカー部なんてほとんど無いけど、都会とかサッカー王国の静岡あたりだと、私立中学が学校の宣伝を兼ねて強化してたりするので要注意だ。

その東京都予選は4月はじめから行われるが、ベラトリックス・ガールズはシードされ、5月からの決勝トーナメントから参加すればよかった。そこで4月の間は近隣のクラブチームや高校生と練習試合を行う。

ベラトリックスはトップチームとプリンセス、ガールズはまったく同じサッカー、同じフォーメーションでプレーしている。なでしこリーグの下部組織とはトップチームに人材を送り込むために存在しているので、いきなり上のチームに放り込まれても適応しやすいためだ。そしてベラトリックスはディフェンダー4人、守備的ミッドフィールダー2人、攻撃的ミッドフィルダー2人、フォワード2人の4❘2❘2❘2システムを採用している。フォワードは2人。梨奈とあたしがコンビを組む。しかし相性が最悪だった。どっちもラストパスを受けて自分でゴールしたいタイプ。ゴール前の点を取りやすいスペースを奪い合い、潰しあうことも多かった。梨奈は得点感覚だけで勝負するタイプ。点を取る仕事以外は出来ない。

でもあたしは自分で点を取ってアピールすることしか考えていなかった。器用なあまり。ほかのポジションに移って、天性の才能を潰した選手はいくらでもいる、とあたしは親父から聞いていた。松原監督も特に何も言わなかった。ここは才能を淘汰する場所。梨奈を蹴落として上に行く。いくらあたしにスピードがあるからといって、サイドに開いてチャンスメーカーに徹してはせっかくの点取り屋としての才能が潰れる。

     


光のチームは東京都の予選グループで敗退していた。まあ中1の光に出る幕は無く、ボールパーソンとして運営の手伝いをしていただけだが。ベラトリックスの練習は週4日と土日が試合だ。光のクラブは練習が週2日だから、時々ベラトリックス・ガールズの練習を見学していた。今日も一緒に帰る。

「なんでお姉ちゃん、いつも喧嘩してるの?」

「喧嘩じゃねえよ。梨奈の馬鹿がポジション譲らないから」

「でもお姉ちゃんもパス出さないじゃない。いつも強引にシュートばかりして」

「梨奈が撃っても決まらないからな。あいつはこそ泥みたいにこぼれ球だけシュートしてればいいんだ」

「ええ~、あの9番のお姉ちゃん、無茶苦茶上手いよ」

「テクニックだけならな。でも、高さもパワーもスピードもキック力も並で、ペナルティーエリアの中じゃないと何も出来ないんだ。勉強も出来ないし」

あたしは勉強は得意なほうだった。特に将来海外に出たいから英語は予習復習を欠かさない。口喧嘩も得意だ。

「お姉ちゃん、10番の人としか息あっていない感じ」

「悔しいけど、詩織のほうがあたしより上手い。欲しいタイミングでパスをくれる」

「でもお姉ちゃんも10番の人にパス出さないでしょ」

「中盤では出してるよ。ゴール前だと詩織はシュート撃たないから」

「そんなんで予選大丈夫?全国いける? 」

「個人能力では圧倒的にウチが上だから楽勝楽勝」


ベラトリックス・ガールズは練習試合では全部圧勝していた。育成年代のサッカーには勝利に近道がある。徹底的に組織力を高めるとか、ひたすら走りこんでスタミナをつけるとか、長身選手にハイボールをどんどん当ててくるとか。セットプレーの練習を積むとか。

しかしそういうサッカーはえてして選手の将来につながらない。この年代では基本を身につけることが大事なのだ。だからこそベラトリックス・ガールズも172cmのあたしにハイボールを合わせてこず、細かく技巧的なサッカーで中央からの崩しにこだわる。

基本であるボールテクニックやショートパスの精度を上げるのが、まさに基本だからこそ一番難しく、勝利には遠回りの道なのだ。

組織力だってウチは高くない。奈美との連携の悪さや瑶子と守備的ミッドフィルダーを組む技巧派の水沢彩音は守備意識が低くピンチの素にしばしばなる。茶髪ポニーテールでおしゃれな芸術家気取りだ。しかもあたしにパスを出すと、すぐ前線に飛び出し、中盤ががら空きになる。それでもきっと全国に行ける、と思っていた。



全日本ユース東京都予選決勝トーナメントは8チームで行われる。観客なんて選手たちの家族だけ。土のグラウンドかベラトリックス・プリンセスの練習場である人工芝が使われる。あたし達ガールズは楽々と決勝に勝ち上がった。関東予選に進むのは3枠だからこの時点で、関東行きは決まっている。決勝の相手は深奏女子中。私立の中学で高等部は全国大会常連だが、中学は全国に出たことが無い。ちなみに高校女子サッカー部は全国大会が夏と冬にひとつずつあるが、中学女子サッカー部のための全国大会はないので、クラブ勢に混じって全国を争うしかない。

試合前に整列する。審判によって横一列に並んで、右側のチームから相手全員と握手させる国際サッカー連盟方式が増えてきたが、この日の審判は、2列に向き合って挨拶させるタイプだ。

深奏は過剰なくらい気合が入っている。ウチもキャプテンの瑶子はさすがに気合負けしていないが、奈美なんかは飲まれている。あたしは気合負けなんてしなかったけど、握手の際、ぐっと強く握られた。準決勝を観て、あたしが要警戒選手なのはバレバレだろう。

試合前の円陣では深奏が場内に響く大声を出している。控え部員も応援に来て、一斉に声を出すから、すごい声量だ。なに、いくら気合が入っていても技術の差の出易い人工芝だ。中学サッカー部なんて恐れるに足りず。しかしいつもは詩織のパスを受けてのびのび攻めあがる左サイドバックの2年生の立石香穂がびびっている。ウチも円陣で軽く声を出してピッチに散る。

試合開始。深奏がウチのコート深くに蹴り込む。技術の無いチームによくある「キックアンドラッシュ」だ。あたしが茅野の中学でやっていたサッカーだ。長いボールを蹴り込み、フォワードが競り合ってこぼれ球を拾い二次攻撃につなげる。ウチのボールになったらどこからでもプレスをかけてきて奪いに来る。スタミナに絶対の自信を持つチームが採る策だ。ウチは気圧されて自陣に張り付く。なあに、耐える時間帯さえやり過ごせば、ウチが自在にボールを回して相手を走らせて疲れたところを波状攻撃すればいい。

深奏のペースが落ちてきたところで、中盤で瑶子が奪い彩音に出す。彩音は左に展開し、詩織が足元で受ける。左後方をチラッと見るが、香穂はオーバーラップが遅れている。仕方ない、とばかりに詩織が単独突破を仕掛ける。一人目が激しくぶつかるが、詩織も耐えたところで二人目と絡んで倒れる。ファウル!しかし詩織が起き上がれない。本部前の担架係りが様子を見る。やがて本人がバツマークを出す。プレー続行不可能のサインだ。たいした怪我ではないと思うけど、捻挫か?整った顔立ちの詩織が顔をゆがめて担架に乗り、ピッチ外に出る。松原監督があわてて交代選手をアップさせる。まだ15分経ってない。

変わって入ったのは2年生の武田早紀。試合で一緒にプレーするのは始めてだ。右利きで左サイドに入っても左足でクロスを上げられないから、中に突っ込むけど突破するだけの技術は無い。

仕方ないのであたしが前線から引いてボールを受けて起点になる。いつもなら点を取るためになるべくゴール前に張り付くけど、そうも言っていられない。深奏もファウルぎりぎりの激しいコンタクトをするが、パワーでは負けない。

梨奈はゴール前に張り付いているけど仕方ない。今日ばかりはあたしがポスト役になって、味方が前を向いてプレーできるようにしてパスを引き出して、梨奈にも点を取らせてやる。

この状況では中盤は彩音を中心にボールが回っていた。彩音からあたしへのパスがホットラインだ。24分、彩音があたしに預けて前方へダッシュ!早紀とワンツーで中を突破し、梨奈へスルーパスが通り、前が空いた梨奈が出かかった深奏のキーパーの右肩の上を抜くシュート!ベラトリックスが先制した!

これで焦ったのか深奏はますますガツガツ当たってくる。この日の審判は女性でコンタクトプレーをよく見逃し、全国大会を考えて怪我を恐れるベラトリックスに対し、深奏に有利に働いていた。女子サッカーは基本的に女性審判が笛を吹くが、男性審判と比べて運動量が少なくボールのそばでジャッジできないため、ファウルを見逃すことが多い。

その被害を一番受けたのがあたしだ。前半終了間際、ポストに入った際、またしても後ろから激しく当たられ、無理やりターンして前を向いて仕掛けると右から2人目が激しく絡み、あたしとそいつはもんどり打って転倒した、

最初はなんでもないかと思った。そして一瞬遅れて激痛が走る。右足首だ!痛い!すぐにプレー続行不可能なことはわかった。担架に乗るのは悔しいので足を引きずりながら自力でピッチ外に出る。ベラトリックス・ガールスの試合なんかにチームドクターなんて帯同しない。富山コーチが近づいて右足首を動かしたりして痛いところをチェックする。

「捻挫ね。重症じゃないけど、2週間くらいはプレーできないわ」と残念そうに言う。仕方なくベンチ脇に座って戦況を確認する。すぐに前半終了。

この大会は30分ハーフだ。ハーフタイムのうちにあたしに代わって交代出場する土屋美森に松原監督が指示を出し、コンタクトを恐れず、ボールをつなぐことを繰り返し言う。

しかし深奏はそうたやすい相手じゃなかった。美森はあたしが入るまでレギュラーだったけど、パワーが全然ない。深奏のあたりの前に潰されまくっている。加奈は右サイドに張ってドリブル突破することにこだわるあまり、ボランチとの距離が開いてボールを受けられず、また右サイドバックの碧の前にふたをしてしまう形で、持ち味をつぶしあっている。攻撃の中心となる彩音は左の早紀を積極的に使うが、その早紀はミスが多い。そして左サイドバックの香穂も生かせず、いやな形でボールを奪われる。隣で怪我した膝をアイシングしながら観ている詩織も表情が暗い。

そしてついにそのときはやってきた。深奏の放り込みに対し、ずるずる下がっていた奈美が苦しい体勢で頭でクリアしたボールを拾われ、強烈なミドルを決められてしまった。キーパー下田香苗もどうしようもなかった。何か大声で吼えている。瑶子は「落ち着け。落ち着けって。まだ同点だから」と味方を鎮めようとする。コイツのこういうところがキャプテンに向いているのだろう。でもベラトリックスというエリートクラブの選手たちにとって、中学サッカー部に失点したショックは大きい。

ますます梨奈は深奏ゴール前に張り付き彩音はパスを出せるところが限られ、また守備をサボり始める。相棒の瑶子は大目に見ている。自分ひとりで潰せるという自信の表れ?   

しかし決勝点は深奏に入った。ウチが総攻撃に入った後半27分、カウンターで深奏4人、ベラトリックス3人の状況を作られ、右のパスをCB神崎有紀がマークを振り切られ、決められてしまった。1対2。結局そのままタイムアップ。

ウチは立ち上がれない選手もいる。たぶん中学サッカー部に負けたのは初めての選手もいる。瑶子は泣きじゃくっている。嫌々深奏ベンチに挨拶し、本部や審判団に挨拶し、引き上げてくる。

瑶子は「あのヘボレフェリーじゃなければ勝てたのに……」と口にした瞬間、彩音が「あんたが起点になってボールを散らせないせいじゃない。私ばっかりマークされて! 」と怒鳴る。瑶子も黙っているような性格じゃない。

「決勝点のシーン、数的不利になったのはあんたが戻ってこなかったせいでしょ。守備サボってばっかりで」

「詩織がいないんだからしょうがないじゃない。私が攻め上がらないと攻撃にならないんだから」

「ごめんなさい。私が怪我したせいで……」

松原監督は黙ってみている。言い争わせて、チームが空中分解すればそれまで、と思っているのだろう。

梨奈も

「ボールが来ないんじゃ全然シュートできないよ。中学相手に崩せないなんてどういうこと?」

彩音が露骨に不快そうな表情を浮かべて

「サイドバックが上がれなくて攻めが薄いからでしょ。早紀も加奈もテンパっちゃって」

加奈も言い返す。

「梨奈こそ大昔の点取り屋みたいにゴール前で待つだけで動きに工夫つけられないの?」

「あたしだって加奈や早紀がもう少し中でプレーしてくれればコンビネーションでくずせたんだけどね。ボランチのところでゲームをコントロールできなくてどうするの?」

口論は果てしなく続いた……。既に進出を決めている関東予選の多難を感じさせた。


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