弐 出来(しゅったい)
さて、仇討免状というのは、案外、簡単に降りるものではない。
常に腰へ刀を帯びると言えども、太平の世で人を斬ればただの犯罪とみなされる。
侍とは、庶民の見本となるような生き様を見せるからこそ、
さまざまな特権を許されているに過ぎないのだ。
もっとも、切り捨て御免といって、侍は殺人罪に問われないこともある。
だが実際には、その場合でも潔く切腹するのが筋であった。
罪に問われぬ代わり、いざ問題を起こしたなら、
自ら命を絶たねばならぬのが侍なのだ。
恥ずべき行いをする者は、たとえ身分が高かろうとも真の侍ではない。
無闇に激昂して刃傷沙汰を起こすは、恥である。
彼らはなにより家を大切にし、誇り高く生き、
決して恥を掻いてはならないと、固く教えられる。
切腹とは自ら命を絶つことで恥を雪ぎ、
家名を汚さぬために行うのである。
ただし、何事にも例外はつきものだ。
侍には命に代えても、必ず相手を斬らねばならぬ時がある。
たとえば、仇討ちがそうだ。
しかし庶民の見本となるべき彼らが、なぜあえて復讐とも取れる行為に走るのか?
それは仇討ちが、人の道として人を殺めることだからだ。
咎なくして身内が殺されたとき、
遺された者が家名を賭けて仇討ちすることは、
侍としての義務である。
無闇に人を斬ることが恥ならば、
戦うべきときに戦わないのは大恥である。
侍は決して、命を惜しんではならない。
いつでも死ぬ覚悟を持って生き、
いざそのときが来れば、臆せず戦うからこそ、
侍が侍として生きる意味がある。
もちろん、仇討ちがあくまで人の道である以上、
厳しい制限があるのは、当然と言えよう。
まずは自らの主君へ願い出て、
免状、つまり許可証をいただいた上で、実行へ移すのが筋である。
主君もまた、無闇に殺し合いを認めることはない。
精妙に調査した上で、
これが人の道として適ったものかどうか判断する。
また討手となる遺児に見事本懐を遂げるだけの
実力があるかどうかも判断基準となる。
すでに述べた通り、たとい免状があったとしても、
法的に認められる決闘は一度きりであり、
万一、敗れるようなことがあれば、
親の仇であっても無罪放免となってしまう厳しい掟があった。
だがだからこそ、追われる側も勝負を受けるのである。
もっとも、実際にはこうこうこういう理由でこういう処罰を与えておくから、
どうか堪えて欲しいといった返事が来ることがほとんどだ。
主君の命に絶対服従の意志を示すこともまた、
侍の美徳である。
お殿様がそうおっしゃるならと願いを取り下げ、
御公儀の裁きに従う旨を伝えるのである。
このほうが、むしろ理性的に物事を丸く収めることができ、
遺族もまた仇討ちを強く望んだという形になり、
面子を保つことが出来るわけだ。
だが、新田玄蕃斎と松尾文台の一件では、そうならなかった。
仔細は、以下の通りである。
新田家は代々将軍家に仕える寄騎であり、
江戸に道場を開く剣道家としても名を知られた存在だった。
一方、松尾は明慈以降、47にまとめられた諸藩のうち、
近江藩に仕える足軽に過ぎない。
同じ侍でも、戦場で騎乗することを認められた寄騎と違い、
足軽は単なる雑兵と見なされる。
しかも、新田家は将軍家へ仕える寄騎であるから、
無論、旗本ということになる。
1万石を超える所領を持つ将軍の直臣が大名なのだから、
旗本はそれに次ぐ地位が認められていた。
だが足軽は、侍とは名ばかりの暮らしをしている場合が、
ほとんどであった……
それでも松尾は、藩主から特別に剣術の腕を認められ、
武者修行の旅へ出ることを許された。
これは将来、藩の剣術指南役への道が開けたことを意味し、
足軽の身には異例ともいえる大抜擢であった。
こうして、江戸へやってきた松尾が、
腕試しに玄蕃斎の道場を訪れたのは、ごく自然なことと言えたろう。
玄蕃斎もまた、松尾を快く迎え入れた。
トラ流とも呼ばれる、松尾の虎流剣はその名が示す通り、
はるか戦国の世に広まっていた古流剣術を復活させたものである。
一方、玄蕃斎の新田流剣道は、
竹刀を使って打ち合う代表的な道場剣法であった。
竹刀などは鍛え抜いた鋼で作られた真剣に比べれば、ただの玩具に過ぎない。
だが無論、必ずしも古流が強いというわけではなかった。
玩具だからこそ、本気で打ち合っても怪我をせずに済む。
つまり、それだけ長時間、鍛錬へ撃ち込むことができた。
ゆえに、道場剣は古流に比べ、ずっと合理的であり、
スポーツとして完成されているという側面も持っていた。
玄蕃斎は当初、弟子達にちょっとした刺激を与えたいと考えたようだ。
自分達の流派は、すでに古流を上回っている。
だが、古流がその源泉であることは疑いようがない。
それを肌で感じるのは、きっと勉強になるはずだと。
半ば余興として、自らの高弟と松尾を立ち合わせてみたのである。
松尾の構えは、独特であった。
まるで鋼の刀でも握っているように、どっしりと腰を落とした
不格好な構えを取ったのだ。
道場剣法では、素早く動けるよう腰を高く構える。
実際に試合で使われるのが竹刀である以上、
こちらのほうが理に適っているのは言うまでもない。
門下生達も、道場内にやや松尾を嘲笑する空気があったことを
認めている。
もっとも、それはすぐに掻き消されることとなった。
新田流剣道の高弟達3人が、
立て続けに打ち倒されたからである。
ここへ来て、玄蕃斎もまた後へ引けなくなった。
ついに、自ら松尾と立ち合うべく竹刀を取る羽目になったのだ。
だがもし、玄蕃斎まで敗れるようなことがあれば、
新田流は、大きく評判を落とすことにもなりかねない。
道場内は、ただならぬ緊張に満ちていたという。
もっとも、試合そのものは尋常に執り行われた。
結果――わずかに早く、玄蕃斎の竹刀が松尾の胴を打っていたのだ。
門下生達も、ほっと胸を撫で下ろしたという。
道場主にしても同じ気分だったのか、
かすかに浮かべた笑みは、晴れやかとまでは言えないものだった。
「さすがは松尾殿。
この勝負、引き分けといったところですかな?」
それでも、道場主がそう言い出したのを
門下生は松尾の顔を立てるための配慮と受け取っていた。
しかし、松尾のほうでは違ったらしい。
「玄蕃斎殿ほどの剣客が、そのような見栄を張るとは見苦しゅうござる。
我がトラ流は、真剣で立ち合うことを想定したもの。
もしこれが戦場での立ち合いであれば、どうなっていたか?
よもや、玄蕃斎殿にわからなかったはずはありますまい」
もちろん、門下生達は一斉に松尾の態度を批難した。
先に刃が当たった以上、
真剣での立ち合いであっても、松尾がそのまま振り抜けたはずはない。
下らぬ負け惜しみを言い立てているのは、そのほうであろう。
それに比べ、我らの師は剣の腕のみならず、
やはり侍としての礼を心得ていらっしゃる。
皆も、見習うべきであろう。
しかし、当の玄蕃斎には笑みさえなく、
黙してただ、松尾の瞳を覗き込んでいたという。
事件が出来したのは、その夜のことであった。
宵五つには、道場を出たはずの玄蕃斎が屋敷に戻らぬ。
どこぞで酒を飲んでいるにしても、
清貧を旨とする玄蕃斎は決して深酔いすることはなく、
日をまたいで帰ることはまずなかった。
しかも、その日は次子、誠志郎の姿も見えなかったのである。
とはいえ、大の男が二人、
なにも心配するほどのこともなかろう。
一緒にいるのであれば、むしろ安心。
2人の腕を知る家人達は、高をくくっていたのだという。
それでも虫の知らせでもあったものか?
婦人だけはそわそわと落ち着かぬ様子で、2人はまだか、連絡はないかと、
繰り返し尋ねてきたのを、多くの者が記憶している。
やがて夜八つ、丑三つ時となって、
ようやく帰宅する者があった。
誠志郎は、ぷんと微かに香の匂いを漂わせ、
顔には酒気を帯びていた。
だが、彼は1人であった。
おまけに、友人宅で酒を酌み交わすうち、つい長居してしまっただけで、
父のことなど知らぬと言うのである。
ここへ至り、婦人の忍耐も限界となったらしい。
厳しく息子を叱責し、直ちに父親を捜してくるよう命じたのである。
こうなっては家人も尻を落ち着けているわけにはいかず、
誠志郎ともども捜索へ当たることになった。
果たして、くだんの人物はあっさりとみつかった。
ちょうど道場と屋敷の中間辺り、
人目に付かぬ暗がりで、仰向けに倒れる姿があったのだ。
玄蕃斎は自らも抜刀した上で、
膝の外側と首筋を切られ、絶命していた。
無論、下手人は松尾であった。
正々堂々の勝負に納得せず、仕返しに闇討ちをするとは、
到底、侍の振る舞いとは認められない。
時代が時代なら、打ち首獄門となっても不思議はない大罪であろう。
切腹さえ許されず、
斬首の上、晒し首にされるのは、侍にとって最大の恥である。
平政の現代、さすがに晒し首は禁じられるようになっていたが、
それでも厳しい沙汰が降りるものと誰もが信じて疑わなかった。
だが侍の行状を諸事監督する目付役の前へ引き出された松尾は、
よりによって、お互い納得ずくの立ち合いだったと申し開いたのである。
試合の後、続けて真剣で立ち合うことを、
互いの目で確かめたと言うのだ。
その証拠に、玄蕃斎は発見された際、
西洋風にベルトで袴を留めておきながら、
一本結びに帯を巻いた上で、そこに刀と脇差しの二本を差していたのである。
道場主とはいえ、玄蕃斎も普段はベルトに金具を付けて、
一本差しに留めていた。
こういった出で立ちのほうが、当世風なのである。
だが帯へ刀を差したほうが、
いざというとき抜きやすく、実戦的な型であるのは間違いない。
松尾はそれを確かめた上で声を掛け、
あらためて勝負を挑んだと言うのだ。
確かに松尾の言う通り、
玄蕃斎の出で立ちはただ帰宅するものとしては奇妙であった。
さらに昔の玄蕃斎を知る者の中からも、
あの人ならそういうこともあるかもしれないと証言する者まで現れた。
無論、それだけでは決定的な証拠と言えない。
また、出世街道へ乗っていたはずの松尾文台が、
このように軽々しい行動へ出たのも不思議な話である。
しかし、松尾自身が語ったのはここまでで、
なぜかそれ以上のことはなにも話そうとしないのだ。
こうした事情から、
詮議は難航することとなった。
無論、真剣を使っての私闘は御法度である。
しかし玄蕃斎がこの件について、
周囲へ事前の説明をしていなかったのは、それが理由とも取れた。
加えて、松尾は武者修行の認状を持っている。
お互い納得ずくの立ち合いであれば、
通り一遍の沙汰を下すわけにはいかなかったのだ。
そうこうするうち、巷間では
松尾はもともと玄蕃斎に遺恨があり、これは計画的犯行だったのではないかと
まことしやかに囁かれるようになった。
噂の出所は、インターネットである。
実は、若かりし頃の玄蕃斎もまた、
武者修行の認状を持って諸国を旅していたこと。
さらにその際、近江藩の疋田権左なる足軽侍と立ち合い、
誤って殺害してしまったこと。
疋田の息子は、即座に仇討願いを届け出たが許されず、
それに抗議する形で切腹して果てたこと。
疋田の細君は、旧姓が松尾であったことなど。
こういった情報の断片をネット上のあちこちから、
収集する者達があったのだ。
さらに、疋田の仇討が許されなかったのは、
身分の差があったせいではないか?
息子が切腹して抗議するほどなのだから、
やはり仔細があったのだ。
ひょっとして、御公儀のお裁きのほうに問題があったのではないか?
だが待て? そうすると松尾は立ち合いではなく、
やはり最初から闇討ちを狙っていたことにならないか?
予期せず、事件は世間の耳目を集めることと
なってしまったのだ。
こうなると黙っていられないのは、
新田家の者達であろう。
本来、被害者のはずが、
憶測だけで汚名を着せられそうになっているのだ。
果たして幕府に対し、仇討ち願いが届けられた。
墨跡は新田流一門を代表し、
次男、誠志郎の手によってしたためられたものであった。
『道場での立ち合いで勝ったのは、我が父、新田玄蕃斎である。
たとえ真剣に持ち替えたからといって、
松尾某に一太刀も浴びせることなく敗れるとは、
考え難いことでございます。
加えて、一太刀目は膝の側面を斬られており、
松尾某の正面から立ち合ったという証言も、いささか怪しく感じます。
こう申しますのも、相対して切り結ぶのと違い、
横様に切り払うのは、それほど力が入らぬものだからでございます。
それゆえ、柔らかい脇腹を狙うのが普通であり、
まともな傷を付けられるのは、
せいぜい股の高さまででございましょう。
これは剣の道を歩んだことのある方であれば、
どなたであっても、屹度、同意を得られるものと思います。
わざわざ膝を狙うのは、不自然でございます。
つまり松尾は父の側方より、突如襲いかかり、
一太刀目を仕損じたために生じた傷と考えたほうが、
自然な説明ではありますまいか?
よって、当家は松尾が闇討ちを仕掛けたものと
確信しております。
父が帯刀していたのは立ち合いの後、
松尾がただならぬ憎しみの情を抱いていることを、
その瞳から見て取ったゆえ、用心したためではないかと推察します。
清貧を旨とし、常在戦陣の心得を説いてきた父であれば、
充分に有り得ることでございましょう。
無論本来であれば、すべて御公儀にお任せするのが筋である事、
充分心得ておりますが、
剣客として堂々と立ち合った父を逆恨みしたばかりか、
虚偽の申し開きをして御公儀を煙に巻こうとは不届き千万。
また、世間で噂されるようなことは謂われなきことにございます。
松尾本人が何も語らぬ以上、
父との間に仔細があったかどうかなど、わかろうはずもありません。
仮に噂通り仔細があったのだとしても、
免状もなく討手となれば、
それはただの復讐、ただの人殺しに相違ないではありませんか。
断じて、仇討ちと呼べるものではございません。
にも関わらず生前、父が築き上げた名誉さえ穢されているのは、
当家にとって堪え難きことでございます。
よって、ここに仇討ちの御認可を頂きたく、
平に、平にお願いするものでございます。
また仇討ちが嫡子の役目ということも充分心得ておりますが、
生憎と我が兄は生来病弱の身の上。
加えて御上に与えられた御役目を果たさねばならぬ立場なれば、
次子である私、誠志郎が名代を頂戴したく、
重ねて御願い申し上げるものでございます。』
実は、事件当夜のアリバイが不確かであった誠志郎についても、
詮議の手は及んでいた。
当初、友人宅にいたと証言していた誠志郎だが、
実際のところは、馴染みの遊女と落ち合うべく、
なんと吉原遊郭へ足を運んでいたのである。
父親が凶刃に倒れたその日に、
息子が遊郭遊びへ興じていたとは、
新田家にとって恥の上塗りとも言える失態であった。
婦人は、時代が時代なら切腹を申し渡されても不思議はないと、
激しく息子を責め立てた。
誠志郎が平身低頭するにも関わらず、
それは幾日にも亘って続いたのだ。
家人達も、本当に腹を切らせてしまうのではないかと恐れ、
さりとて、庇い立てするわけにもいかず、
やがて母子から距離を置くようになってしまった。
とはいえ、それまでずっと誠志郎の遊郭通いを
黙認してきたのも事実であった。
玄蕃斎ともども姿が見えぬとなったときさえ、
婦人は二人して吉原へ繰り出したのではないかと、疑っていた節がある。
だが、誠志郎にも同情すべき点は多い。
書状にある通り、玄蕃斎の長子は身体が強いと言えず、
屋敷から滅多に姿を現さぬばかりか、
剣よりも絵筆を握ってる時間のほうが長いような御仁であった。
反面、誠志郎はもともと家人からも門下生からも人気があり、
その腕前はいずれ父親に並ぶと云われるほどだったのだ。
だからこそ、婿養子にも出されず屋敷に留め置かれ、
かといって、長子には廃嫡されるほどの落ち度もない。
こうなると、誠志郎は冷や飯を食わされる他になく、
飼い殺しも同然の立場といえた。
加えて嫡男を差し置いて嫁取りさせるわけにもいかず、
若い身体を持て余しているところがあった。
しかも、そんな次男坊を憐れんでか、
遊郭遊びを教えたのは、一家の主たる玄蕃斎自身であったのだ。
こういった事件が出来せねば、
咎められるほどのことではなかったろう。
また新田家を代表し仇討ちへ臨むのなら、
この誠志郎を置いて他にいないのも事実であった。
斯くして、誠志郎は討手として、
名乗りを上げることになった。
これに沸いたのは、一族の者より、
むしろ新田流の高弟達である。
いくら剣の腕が優れていても、
本来、次男である誠志郎が道場を継ぐことは認められない。
たとえ剣を振るえなくても、長子だけがその権利を持つ。
それが封建社会というものなのだ。
もっとも、継がされる側にとっても迷惑な話だったかもしれない。
だが、手柄を挙げた者に必ず褒美を与えなくてはいけないのも、
侍の世では不文律とされていた。
無論、天下太平の世で、そうそうそのような機会に恵まれるものではない。
ただ1つ、仇討ちを除いては。
命を賭して、果たし合いへ臨み、
親の仇を討つことは、侍にとって最大の誉れとされた。
もし誠志郎が首尾よく本懐を遂げられれば、
汚名を返上できるばかりでなく、
嫡子の交代さえ認められる可能性は、十二分に高かった。
本人にとっても、
人生を逆転できる最初にして最後の機会と言えたろう。
それでも、いやそれゆえにか、
誠志郎は努めて慎重であろうとしているようだった。
竹刀を使った剣道と真剣を使った剣術の違いについて、
研究することも怠らなかった。
この時代、ほとんどの侍がそうであるように、
誠志郎もまた真剣を使って鍛錬した経験はほとんどない。
いざ試してみたところ、
その重さで想像以上に上体が流れてしまうこともわかった。
それゆえ、まずは自らを鍛え直し、鋼の重さに耐えうる身体を作るべく、
連日、日が暮れるまで鍛錬に励んだのである。
無論、遊郭通いのような悪癖も影を潜めた。
そんな誠志郎に門下生達はますます肩入れし、
厳しい訓練にも進んで協力するようになっていった。
このように周囲の期待を一身に受けながらも、
誠志郎自身はあくまで次男として兄を支える立場を崩さなかった。
これがまた一門の者達を唸らせた。
やがて道場の誰もが、真剣での立ち合いなら、
誠志郎様こそ新田流一の使い手と認めるほどになっていったのである。
だが、免状はなかなか降りなかった。
世間から注目を浴びる中、
御上にしても、慎重にならないわけにはいかなかったのだろう。
新田家は繰り返し嘆願書を送る羽目になったが、
ついに風向きが変わるときがきた。
長く続く詮議に飽いたのか?
あろうことか、目付役の屋敷に蟄居を命じられていた松尾が
突如姿を消し、出奔してしまったのである。
これは、明らかな士道不覚悟に当たる。
侍が牢へ入れられることがないのは、
こういったとき、絶対に逃げないことが前提となっている。
士道を犯せば、もはや侍とは認められない。
本人はもちろん、お家お取り潰しも当然。
それどころか、幕府からのお咎めは
所属する藩全体へ及ぶ。
下手をすれば、藩主が隠居をする、家老格の者がお腹を召す。
そういった事態にも発展しかねない大問題だった。
直ちに、近江藩は正式に松尾を罷免した。
無論、武者修行の免状もお取り消しとなった。
同時に、藩邸へ近江藩きっての手練れ達が集められ、
上意討ちが命じられたのである。
出奔したのは、近江藩の藩士ではない。
この上は、我が方で凶賊・松尾を討つべし!
近江藩にしても、こうせねば、
汚名を雪ぐことはできぬというわけだ。
すぐさま、新田家及び新田流の一門は、
江戸城、双子橋前へ出向いた。
全員が直ちに切腹をも辞さぬ覚悟を示すべく、
死に装束に身を包んでおり、
仇討ち願いを差し上げ、城門の前へ平伏したのである。
上に対し無礼とも取れる行いであったが、
新田家一門はもはや不退転の意志を示す他なかった。
もし、近江藩士達の手によって松尾が葬り去られれば、
憶測を繋いだ噂だけが残り、
永遠に名誉を回復する手段を失ってしまうのだ。
巷間でもまた、
出奔したのはやましいことがあったからに違いない
という見方が強くなっていた。
また新田家一門が死装束で訴え出たことも、
SNSを伝って広まってしまった。
パフォーマンスを非難する声もあるにはあったが、それはわずかなもので、
おおむね同情的に捉えられているらしい。
むしろ新田流とトラ流には、道場剣道 対 戦場剣術という側面もあり、
ネット上ではこの果たし合いがどう決着するかで、
早くも議論が伯仲し始めていたのだ。
今や、誰もが免状の降りることを願っていた。
御上もまた、民衆の気分へ乗じることにしたらしい。
いずれの討手が本懐を遂げたとしても、
松尾の他にはお咎めなしとし、
双方の顔を立てる形を取ったのである。
こうして、ついに悲願は叶った。