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祭も五日目の昼を迎えた。
今日も定食屋は大忙しで、猫の手も借りたい状態に置かれている。
時期よく転がり込んできた猫の手こと、ソラタの「はーれむちーと」とやらは今日も絶好調らしく、ソラタ目当ての女性客を初めとした観光客がひっきりなしにやってくる。その分だけ、厨房にも大量の注文が入っており、いくつものメニューを同時進行させる状態になっていた。
「シルフィ、何をしてる。十六番の注文はソラマメのオニオンスープとパグリ鶏の香草焼きだ。キッピ豆のスープは今は入ってないだろう」
口数の少ない店長からの指示に自分の手元を見ると、私の手は茹でたキッピ豆をトマトソースで煮込んでいた。典型的な注文確認ミスだ。
「作り直します」
「顔色が悪い。今日は休むか?」
「……いえ、大丈夫です。やれます」
一睡もできずに隈の出来た自分の顔をパン、と手で挟み、気力を振り絞ってから、手を洗い直す。
昨夜、話を聞いた後、私は返事を出来ないままにアサインに店まで送ってもらうことになった。アサインは、体調に気を付けるように念を押し、店長によろしく伝えて帰っていった。
アサインに送ってもらった時、店のみんなは夜食を取っていたところだったらしく、居合わせたソラタが、私の表情と、私を送ったアサインを見て、何か問いかけるようにこちらを見ていたのには気づいた。が、女将さんに寝るように勧められたのをいいことに会話を避け、朝の準備時間も一言も言葉を交わさずに今に至る。
ソラタに対しての嫌悪がぶり返したわけじゃない。ただ、何をどう言っていいか分からなくなったのだ。
ただの浮気だったらどれだけ辛くて、そしてどれだけ楽だっただろう。
それなら、彼に事実を確認する前に出していた自分なりの答えそのままに――許せない気持ちのまま、彼のことを忘れる努力に力を傾ければよかった。
でも彼を追い詰めたのは他ならぬ私だった。元々彼は個人的な問題について全て一人で抱え込んでなんとかしようとするタイプなのに、それに気づいてあげられなかった。それどころか板挟みに追い込んでしまった。
そのことへの後悔、彼の本質や性格が変わっていなかったことへの安堵、そして、夜、目を瞑れば浮かんでくる、四年間一緒にいた様々な思い出と彼への愛おしさ。
目を背けようとしていた様々なものが強く湧き上がってしまった。
もちろん、今回彼の気持ちが多少なりともエリィに移っていたのは事実だし、彼がこうして言いだしてきたのも、ソラタに牽制された影響があるだろうことくらいは私にも分かっている。だから彼の行為が、浮気や裏切りにあたることも分かっていて、それに対しての怒りや虚しさはまだ心にこびりついている。
それだけじゃない。
お互いの気持ちの他、彼の指摘した将来的な厳しさという現実問題が新しく、高い壁のように立ち塞がった。理想だけじゃ生きていけないことが分かるくらいには、彼の言ったことは具体的で、それを飲み込んでほしいと訴える彼のずるさにも気づいている。
今回のアサインの行動の裏には、私が思っていたよりも複雑で、面倒な事情があって、そしてそれに切り離せない様々な矛盾を孕む感情が絡みついてくる。
そのせいで、自分が採るべき道が、ソラタに相談して時間をもらった後以上に、靄がかって見えなくなってしまった。
「……切り替えなきゃ」
「なに切り替えるのぉ?」
洗い場から厨房の仕出し口に移動し、赤い瓜野菜に包丁を構えた時だった。目の前から甘ったるい声がして、背中が凍り付く。
「あたし今、お客さんなの。お料理してくれるよね?」
エリィが厨房の前のカウンター席に座って、ことりと首を傾け、私に笑って見せた。
口下手なはずの店長自ら提案したカウンター席に座る少女から目を離せない。
調理の熱気や音が一番届く席で、運が悪ければ、油が飛ぶことだってあるかもしれないこの席は、お洒落に着飾った年頃の女の子には嫌厭される場所で、そこに見るからに服装にも化粧にも手間暇を費やしている愛らしい女の子が座っているものだから、どうしたって目立つ。
普段は常連さんたちが座っていて、店長や私に他愛のない話を振りながらのんびりと料理を待ち、出来上がったばかりの料理に舌鼓を打ってくれる。
「今日も旨い」「お、こいつぁシルフィちゃんくらいの女の子サイズだな、俺には物足りねぇや」「うーん。薄いねぇ。もっと濃くできないかい?」
褒めてくれることもあれば、忌憚ない意見も聞かせてくれる。お客さんの反応を直に見て改良を加えられる。日々精進できるという点で、店長の目論見は当たっていた。
滅多にこの店に足を踏み入れないはずのエリィが、どうして今、この最も料理人に近い席にいるの?
「なんで、あなたがここに……?」
「えぇー。ここにラタっていう新しいかっこいい店員さんが入ったから。ふふ、かっこいいね、彼」
エリィは、頬を紅潮させ、うっとりとした目で接客するソラタに目をやった。ただし、手でさりげなく隠された口角は計算高く上がっている。
どうやらソラタの「はーれむちーと」とやらは彼女の目も曇らせているらしい。あの、男性の外見の査定に情熱を捧げ、厳しい審美眼でこき下ろしていく彼女にもこう言わせるとは。なんていう威力なんだろう。本当に神の力なのかもしれない。
彼女は接客中のソラタに向けていた栗色の瞳をこちらに向けてくすりと笑った。
「あんたは知らないかもしれないけど、あたし、何度か来てたから」
「え……でも、注文なんか入ってなかった……」
「するわけないじゃん。食べに来たわけじゃないんだし」
エリィは、定食屋に来たとは思えない言葉を、悪びれもせずにけろりと言い放つ。
「あたしが何度来てもラタったら鈍いったら。『食事に来た方でないとお客様としては迎えられません』なんて笑顔で帰されちゃうからさぁ、しょうがないから食べてあげるの」
それは遠回しに遠ざけられているだけだと思うが、それに言及しないのは、見事な鈍感力と言うべきか、それともあえてか。どっちだろう。
惹きつけると言ってたくせに、ソラタが真逆のことをしている理由も、この四日間付き合えば大体察しが付く。女の子を誑かすことに罪悪感を覚えた……とかではなく、単に物を食べることもせずに物見遊山で定食屋に来て賑やかすだけの女の子を許せなかったんだろう。
女の子よりも三度の飯。食べる側よりも作る側。料理第一、料理バカのソラタらしい。
けれど、ソラタの対応はかえって効果的だったみたいだ。
彼女は、花も手折ることのできなさそうな可憐な顔立ちに見合わず、狙った獲物は逃がさない狩猟者気質で、自分になびかない男なんていないと豪語していたと風の噂で聞いたことがある。
現に彼女は、それを無謀だとは思わせないだけの美貌と体型と技術を持ち合わせている。
実家の化粧品をふんだんに使い、自分の愛らしさを遺憾なく発揮する方法に研究に研究を重ねる努力は、私が新しいメニューや調理法を作る時と似ているのだろうと想像がつくし、その苦労もある程度察せられるので、本人の気質を別とすれば、尊敬に値すると思っている。もちろん、アサインのことがある前までの話だけども。
それはさておき、これに対するソラタはというと、全く女性慣れをしていない。初対面時から諸々の対応を見るに、ソラタの女性耐久度は紙っぺらほどだ。
ソラタがこの子の魅力に抵抗し続けられているのは、偏に料理バカ防御壁のおかげだ。
「ラタに運んでもらうのもいいなぁって思ったんだけど、毎日毎日周りにいっぱい面倒なのがいてあんまり相手してくれそうにないし、そういえばあんたがここにいたなぁって思って。こっちの方が楽しいもん」
「……ご注文は」
手入れされ、桃色に輝く爪先を弄りながら、意味ありげに私を見る彼女から即座に目を離し、まな板の木目に目を落とし、機械的に尋ねる。
「うーん。甘くて、口当たりが爽やかな冷たいスープ。あ、豆とか青臭い野菜とか絶対やめてよね、あれ、苦くてまずいもん」
漠然とした注文と、作れる?という挑戦的な声音に無言で頷く。
厨房は私の戦場だ。受けて立とう。
頭の中に、今ある食材と調味料、考えられるメニューをざっと並べて適当なものを選択し、すぐさま準備に移る。
料理は好きだ。ソラタの実力のほどは知らないが、この想いは負ける気がしない。
例え相手がその料理を味わって食べるつもりがなくても、それを食べるのが憎い相手でも、嫌いな相手でも、曲がりなりにもお客様に出す以上最高のものを作る。その意識を無くすことは料理への冒涜だ、と店長に叩き込まれている体は、前にいる砂糖菓子の様な容姿の少女を視界にいれながらも脳に送らないままに動いてくれる。
その後も、やれ私の服装がださいだ、やれ暑いところでずっと立ちっぱなしで可哀想だと私にちょっかいをかけていたようだが、全ての音声を聞き流していたところ、彼女は少しだけ身を前に倒して、調理の音に負けない大きな声で尋ねてきた。
「そういえばさぁ、最近アサインに会ったぁ?最近ね、彼、あたしと出かけてるんだ。知ってた?」
来た。予想はしていたので反応を返さず、手元に集中する。
「いろんなところ連れてってくれて、たくさん買ってもらっちゃった。でもキスは下手。あれで満足できてるの?」
これだって予想はしていたのに、どうしたって怒りがふつふつと湧いてくる。
矢継ぎ早の注文は他からも来る。手を動かさない時間は無駄。
言い聞かせながら強張る体を必死に動かすが、包丁を握る手が震え、いつものような速さで切れない。大きさも均一でないし、形は不揃いだ。こんなものをお客様に出すことはできない。
無様に切られた野菜を失敗品としてスープの素を採る材料に回し、新しい物を取り出してから一度深呼吸をする。
エリィは、完全無視を決め込んで表情を変えなかった私の反応を引き出せたのが余程嬉しかったらしい。表情を見なくても分かるほどうきうきとした楽しそうな声音で続ける。上機嫌であることは明らかだ。
「やっぱり町長の息子だと融通効いていいね。どこかの忙しい彼女さんが相手にしてくれないって寂しがってたし、キスが下手とかはあたしがこれから鍛えればいいし、あたしがもらっちゃおうかなー」
いつも聞いていてじれるほどまったりした速さで話すのに、今日は驚くほど饒舌。いつもののんびり口調は作りものなのね。
よし、十二番の注文はパセリを散らしてこれで完成。十五番の煮込みはあと数分かな。あ、十七番のオーブン焼きを仕掛けておかないと。
「大体さぁ、ないよね。働きづめで満足に休みも取れない彼女って。彼女の一番の仕事は、仕事で疲れた男性を癒してあげることでしょ?疲れたねーって少し労ってあげて、可愛くわがままも言って、甘える。男の人って甘えられるのが好きな生き物なのに、あんたみたいになんでもできますってすまし顔されちゃ、どんなに熱愛してても誰だって冷めちゃうよねぇ」
目の前の二十番もあと一過程、氷を砕いて、ちぎったパンを入れて、かき混ぜて終わり。あと少し。
砕く手に力が入って、いつも以上に執拗に氷を叩き続けているとしても、いつもより細かくパンをちぎっていても、品質上は問題ない。もっと滑らかな出来上がりになるわけだし、ちょうどいいじゃない。
「アサイン、言ってたよ?あんたと全然会えないし、最近疲れたって。あたしと一緒に回る方が楽しいって。キスだってノリノリだったよ?」
最後は嘘だ。会えないのは本当。じゃあ疲れたっていうのは?エリィに話したの?エリィと一緒にいて楽しいって言ったの?
真実と嘘が上手にちりばめられていて、境目がどちらか分からない。彼の言葉を信じたいのに、境目が嘘だと言い切りたいのに、どうしたってもやもやと疑惑が浮かび上がる。
だめだ。聞いちゃだめだ。あと、少し、我慢しろ。
「今からそんなんで結婚してやっていけるのかなー。ギスギスした家庭になりそう。私だったら考えられないわぁ。ね、あんたもそう思わない?そんなんだったら――」
「お待たせいたしました。どうぞお召し上がりください」
終わった。苦行もここまでだ。
カウンターの上に出来上がったデザートスープを置き、目を合わせないままに次の行程に移ろうとしたその時――
「ちょっとぉ!ありえないんですけど!」
彼女の怒声が聞こえた。
振り返ると、彼女は、円らな目を尖らせ、周りに見せつけるように自分の着ているワンピースの袖を広げている。
「あたしの大事な服に染みつけたとか最低!料理人失格でしょ!」
見せつけられるそこには、私が果物で作った冷製のスープと同じ、赤い色の染みが付いていた。大きくべったりとついているわけではないが、明らかに染みと分かる程度の大きさのそれは、桃色のワンピースからは浮いている。
「なんなのこの店!ありえない!謝ってよ!」
立ち上がった彼女が、店中に聞こえる大声で私を糾弾した。