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 店長や女将さんの手伝いを終えて祭の四日目も終わりを迎えた深夜、私は、裏口のゴミ箱に廃棄物を捨ててから、裏路地を少しだけ進んだ。

 店が見えない位置までやってきた幾ばくもしないうちに、民家の暗がりから人影が出て来る。


「シルフィ」


 月明かりに照らされて表情が見えにくいが、少なくとも、相手に楽しそうな雰囲気はない。ソラタの目論見通り、彼はある程度私の事情を察しているのだろう。


「体調が悪いってあの旅人さんは言ってたけど、平気?」

「うん」


 何気なくソラタがついた嘘もこうして覚えていて、一言くれる彼は、いつもの優しい彼と何ら変わらない。

 日ごろ、過ぎるくらい思いやってくれるアサインがどうしてこんなことをしたのかなんて、いくら考えたって分からないんだから、本人に訊くしかない。もしかしたら彼の答え次第で私の出すべき回答だって変わるかもしれない。


 たった数時間、されど数時間。この時間のうちにようやく彼と向かい合う覚悟を決めることができた。この時間をくれたのはソラタだ。



「遅くに、ごめん。本当は、女の子をこんな時間に外に連れ出したくないんだけど……」

「ううん。私も落ち着いて話さないといけないと思っていたから」


 数時間前とは違い、声が引っかからずに出てきたことにほっとする。


 ソラタとの露店でのやり取りの直後、小さく合図があったのを私は見逃していなかった。

 四年前から、声を交わす暇がないときに「後で会おう」と言いたいときに決めた、二人だけの合図だ。ソラタに言われたことで茫然としていながらも、すぐにそれを送って来た彼に、私も了解の意味の返事をした。


「座る?」

「いい」


 アサインが石段を示しながら訊いてきたので、手短に断る。

 私の短くて素っ気ない声に、アサインは無言で肩を落とし、自分は石段に腰掛けた。こうしないと私との目線の高さが違いすぎてきちんと向かい合って話せないからだ。


 暗闇に月明かりが漏れる程度の光しかない夜だから、アサインの枯れ葉色の瞳の色までは分からない。月明かりを映す目が私の目と合ったのだけ確認して、小さく唾を飲み込む。


 ソラタの手助けはありがたいけれど、これはどう突き詰めても私とアサインの問題なのだから、きちんと二人だけで話さなければならない。


「……今隣に座るほど、私はあなたを許せてないの」

「シルフィ、君が何をどう捉えているのか教えてほしい」

「身に覚えがあるでしょう?」

「……エリィと出かけたこと?」

「それだけじゃない。昨日、あなたたちが一緒にいて……キスするところも見たわ。見間違えじゃ、ないでしょう?」

「それ、は……」


 アサインが気まずげに私から目を逸らす。


 あぁ、やっぱり。やっぱりそうだったんだ。見間違えなんかじゃなかったんだ。


 アサインから否定の言葉が返らないことで、分かっていたのに心の奥が冷えていき、対照的に目頭が熱くなっていく。


「……もう私のことはどうでもよくなっちゃったんだね……」

「違う!そんなことない!俺は今もシルフィが大好きだよ!」

「触らないで!エリィに触れた手で、私に触らないで!」


 最初にソラタを振り払ったよりも強く、恐る恐る伸ばしてきたアサインの手を振り払う。

 アサインは私の行動に傷ついたようにそこで手を止めて、唇を噛んでいる。


 なんでそんな顔をするの。泣きたいのはこっちの方だ。


「好きでいてくれるなら……どうしてこんなことしたの……?」

「……こんなこと言い訳にすらならないけど、俺、最初はこれが浮気になるって気づいてなかったんだ」


 聞き捨てならない話に顔をあげると、アサインは月明かりが照らす地面をぼんやりと見ながら、力なく話し始めた。


「つい半月前かな。エリィが、家の使いで他の町へ香料の卸売りをするための許可公正証書を取りに来てて、その時ちょうど、エリィの家が注文してた香草の業者が来てたから、どうせだったらそっちも終わらせとこうと思って、エリィを連れて行って交渉に立ち会ったんだ」


 役場には他の町から行商許可証を求めにやってくる業者も多いから、こういう、町の役所の人間と一緒に取引先と交渉することはよくあることだ。品質や到着時期、値段もろもろのトラブルを避けるためにも、卸売先や小売先とは直接やり取りすることにこしたことはない。別にこの程度が浮気になるとは思わない。


「その業者は卸売りの他にも色々商売をやってて、王都の方でも有名な、それなりに力の大きいところなんだけど――」


 アサインはそこで言葉を切り、月明かりの下で苦り切った表情を晒した。


「その担当者が、エリィのことをいたく気に入ったみたいでさ。エリィがいてくれたら、新しい商品を卸してくれるとか、新しい販路の融通を効かせるって言ってきたんだ」

「それって……」

「言外に、エリィに接待をやらせろって迫られた。でもあの子はそれを聞いて快く協力してくれるタイプの子じゃない。仮に引き受けてくれたとしても、仕事じゃないから、約束通り来てくれるかもわからないし、それを強要させたりすることだってできない。でも、相手の業者を敵に回すと、この町に入ってくる品数も種類も減るのは目に見えてた。販路だってそう。俺の仕事はこの町の商業と経理の管理だから、そんなことはできない」


 エリィは基本的に縛られることを嫌う自由人な気質だ。

 自由奔放で、どこまで追っても捕えられない蝶のような魅力が、彼女にはある。


 一方で、気まぐれに約束を破ることもままあり、約束の時間なども無視することが多い。だから彼女は、時間とやり方を縛られ、人の指示を受ける「仕事」を大層嫌っており、そういう意味でも、典型的な仕事人間である私とは根本的に相いれないのかもしれない。


 一般的に、この町のそれなりに働けるようになった女性は、家事をやるか、家業を手伝うかの二択を迫られるが、エリィの家は商家としては裕福で人手も多いから、お嬢様である彼女が家のお使いで役場に行くことはこれまで一度もなかったはずだ。その時よっぽど手が足りなかったのだろう。

 滅多にない仕事に駆り出された時に、たまたまそういう輩に目をつけられたのは、不運としか言いようがない。


「迷った末に、俺と出かけるって口実でエリィを連れ出して、時間になったら業者を同席させて、俺が傍でエリィが危ない目に遭わないように見張ってることにしたんだ。それで、色々なところを一緒に回ってた。もし本当か確かめたかったら、役場に来てくれれば確認書類があるよ。シルフィが働いてる店の店長もその男とは交渉歴があるから、訊いてみたらすぐ分かると思う」

「……いい。アサインはそういうところで嘘つく人じゃない」

「ありがとう」


 アサインが小さく微笑んだらしく、微かな吐息が聞こえた。


 ようやく少しだけ分かってきた。少なくとも、なぜエリィとアサインが一緒に行動するようになったのかの得心がいった。

 アサインは、元々、私に内緒で浮気したり、それについて偽装工作をするような、そんな不誠実な人じゃない。そうじゃなければ、お互い忙しい中、四年も円満な関係を続けられたりしない。

 そういう人だから、私はこの人を好きになったのだもの。



「エリィも、最初は騙されてたんだけど、回数を重ねたら当然気づいた。そりゃ、毎回毎回同じ顔に会うってなったら気づくよな」

「そのことで脅されたの?」

「いや、そこまでは。でも、どういうことか気づくにつれて俺への要求が増えていった。あそこに行きたい、あれが欲しい、あれが食べたいって感じで。……俺も騙して彼女を連れ回して、会いたくもないおっさんに会わせてただ働きさせてる負い目があったから、なるべく彼女の要望は聞き入れるようにしてた。物を買ってほしいってねだられたらある程度のものは買ったし、腕を組みたいと言われたら従った。――エリィはシルフィのことが嫌いなんだろうね。シルフィの店に行きたがって俺が下僕みたいに彼女の言うことを聞いているところを見せつけようとしてたから、それだけは断ったけど、でも、他は基本的に飲んでた」

「……キスも、ねだられたの?ねだられて、答えたの?」

「どっちも違う!」


 急に大きな声を上げられて、私が肩をびくつかせると、アサインはそれを反省するように違うんだ、と小さな声でもう一度呟いた。


「あれは、ふいうち。ねだられてもないし、答えるつもりもなかった。あれはやり過ぎだって怒った。昨日以来エリィとは顔を合わせてない」

「そう。……でも、例えまだ顔を合わせていなくたって、今聞いた事情があるならまた顔を合わせるってことよね?」

「……うん」


 そこでいったん会話が途切れた。

 昼間よりも気温の低い弱い風が通り抜け、私の長いスカートがはためき、色の薄いところが月の光を反射して白く光って見える。

 その沈黙を破って、アサインが低く呻いた。


「こういう事情があったのは事実だけど……でも、俺がシルフィを裏切ったのは、間違いない」

「……それは、そういう事情を私に言わないでいたから?」

「そう。仕事の細かい内容はともかく、特別な事情でエリィと一緒にいなきゃいけないことを予めシルフィに言っておくことはできた。そうすればきっと揉めることもないし、シルフィをそんなに傷つけることもなかった。……なのに、それを言わなかったのは、今考えれば、故意だった」

「どうしてだか、訊いていい?」

「こんなことをしていい理由にはならない――あえて言うなら、多分俺、ちょっと、疲れてたんだ」

「疲れてた?」


 アサインは、石段に座り込んで額に手を宛てて俯いていた顔を上げ、私を見た。


「シルフィ、ここ半年くらい前からやたらと結婚を口に出すようになった自覚、ある?」

「……うん。それを言いだしてから、アサインの様子がおかしいことにも気づいてた」

「そっか。……シルフィは、仕事、大事だよな?」

「え?うん。そりゃあ、大事だよ」


 唐突な質問に驚きつつも頷く。


「俺の仕事、町長補佐だけど、多分次の町長も俺になることは、知ってる?」


 これにも頷く。別に町長は世襲ではないのだけれど、アサインには人望があるし、彼の手腕も十分なので、反対者や別の候補者は今のところいない。


「町長ってさ、閑職に見えるかもしれないけど、それなりに仕事量は多いんだ。料理人もそう。今、シルフィは朝から晩まで一日中働きづめで、今ですらほとんど会う時間も取れないくらいだよね」


 そう。特にここ一年、私が本格的にお客さんの前に出始めて、アサインが正式に補佐役になってからは顕著だった。


「……もし、こんな俺たちが結婚して、子供とか生まれたら、その子はどうなると思う?誰が育てる?」

「それは――」


 普通子供は、家業か家事をやる母親がつききりで育てる。それをなさない家など知らない。でも、もし私が料理人を本気で目指すのなら、きっとその時間は取れない。


「実は、俺がシルフィのことをそれでどうって思ったことないけど……シルフィが孤児であることを理由に、親がものすごく反対してるんだ。俺たちの交際」

「……あの町長ご夫妻が?行商団から引き取られるとき、あんなに温かく町に受け入れてくれたのに……?」


 思わぬ情報に目を見開くと、アサインは、月明かりの陰になっている整った顔を歪めた。


「あの人たち、外面はいいからね。身内になるっていうのとはまた違うんじゃない?親のそういうところ、俺は大嫌いだし、従うつもりもないけど」

「じゃあ――」

「シルフィは孤児。俺の親は結婚に猛反対してる。ってなったらさ、協力者はいないんだよ。この状況で俺たちが結婚して、もし、お互いに仕事を辞めなかったら、誰が子供を育てる?」


 私が無言のまま固まる前で、アサインは私を見て、悲し気に笑う。


「俺、シルフィがどれだけ仕事に情熱をかけているか、一番、誰よりも知ってるつもり。そんなシルフィに仕事を辞めろとは言えない。でも、俺の仕事も代理がおけるものじゃない」

「……うん」

「俺は、どうしてもシルフィを手放せない。シルフィのことが大事で、本当に好きだから、どうにかできないかずっと考えてた。なのにさ、どうにも手段が見つからなくて、行き詰まって……。最近、結婚ってものに目を向けることすら嫌になってたんだ」


 私が深く考えないままに口にしたことは、それほどまでにアサインを追い詰めていたの。


「そんな時に全然そういうことを考えない相手と一緒に過ごさなきゃいけない状態になった。向こうも俺のことを好きって感情はなくて、せいぜい遊びだと思ってる。俺も疲れた。シルフィとはなかなか会えない。――目の前で、エリィの自由なところを見てたらさ、将来のことをこの歳で悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなったんだ。どうせエリィと一緒に時間を過ごさなきゃいけないなら、何にも縛られずに流されてしまえって、一瞬思ってしまったのは確かなんだ。だから、俺が浮気をしたのは、否定できない事実」


 動けないままの私を前に、アサインは立ち上がって深く深く頭を下げた。


「浮気のことは、何度だって謝る。本当にごめん。償えることなら、なんでもする。これでも俺は今でもシルフィのことだけを愛してる。だから、厚かましいかもしれないけど、別れたくはない。今言ったことが全部、なんの言い訳にもならないのは分かってる。それでも、俺はシルフィに知ってほしかったから言った」


 俺はずるくてみっともないね、と彼は自嘲気味に笑った。


「これを聞いた上で、俺とこれからどうしたいか教えて。もし……今回のことを俺の気移りだと思っていて、俺に愛想を尽かしそうなら、考え直してくれないかな、シルフィ」


 頭を上げたアサインの懇願する目が私の体を縛ったかのように、私はその場で何を言うことも出来ずにただただ立ち尽くすしかなかった。



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