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アサインと露店ごしに正面から向かい合う。他のお客さんがいるときに、彼が私的な会話をしてくることがない。が、今は、たまたまいなかったからか、はたまたいなくなるまで待っていたのか、アサインは、他人行儀になることなく話しかけてきた。
「忙しくてなかなか来られなかったんだ。ごめんね」
その言葉は、これまでであれば素直に受け取ることができた。この町はそれなりにたくさんの人が暮らす大きな町で、四年に一度のこのお祭りは町でも最も規模が一番大きいものだ。大勢の観光客がやってくるし、店も日ごろ用意しない多種多様な商品を出す。その分、トラブルだって多い。
祭以外のものも含め、町のあらゆる問題を管理・統括をしているのが町長で、町長補佐のアサインはその仕事の半分近くを受け持っている。だから彼が忙しいのは嘘ではない。
しかし、今はどうしても引っかかる。
忙しい?エリィとは何度も出かけられるのに?
心の中で呟いたその一言は、喉の奥に引っかかって出てこない。
言ってしまえたら楽なのに、言って詰って怒りたいのに、それを言ったら私たちの円満な関係にひびが入って、例え修復できても二度と同じ楽しさや安らぎは戻って来ないだろうことが分かるから、二の足を踏んでしまう。
こんなに躊躇ってしまうくらい、私はこの人との関係を崩したくない。この人を失いたくない。
喉がからからに乾いて、暑さと焦りで汗だけが額の横を流れていく。髪を一つに束ねている仕事の時でよかった。首元に貼りついたおくれ毛すら不快だ。
「シルフィ?」
私が長いこと返事をしなかったからか、アサインが首を傾げ、髪に手を伸ばしてきた。
エリィに触れたその手で触れられるのはどうしても嫌で、身をすくませて後ずさり、その手を逃れる。
逃れてからはっと気づく。
しまった。これは明らかに不自然だ。
視線を少し上げると、案の定、アサインは驚いたような、少しショックを受けたような顔で固まっていた。
なんなの、その顔。誰のせいでこんな気持ちになっていると思ってるの。
言いたいのにどうしても噛みしめる唇で止めてしまうみたい。
あぁ、どっちにも割り切れない自分がたまらなく嫌だ!こんな状態になんの生産性もないって、頭では分かってるのに!
自己嫌悪で喉の奥に嫌な味が広がるのに、結局沈黙を続けるしかできない私に、妙に固い声が降ってきた。
「……シルフィ、指輪、どうしたの?」
「指輪……」
アサインの視線の先は、私の顔の下、首元に向けられていた。
暑い気候に対応した、首元の広く開いたこの地域特有の服だと、いつもそこにあるすもも色の石が光っていたから、それがないのは目立ったようだった。
「これは――……」
「俺が外したらって言ったんです」
軽く押し出されるようにして、アサインの目の前から追い出され、代わりにアサインの目の前に立ったのは、黒髪の疫病神だった。
突如として話に入ってきたソラタに、アサインの目が細く眇められた。
「シルフィ、この人、誰?」
誰って?私もよく知らない。
素性不明の不審者。無銭飲食男。神の祝福妄想男。
一瞬頭をよぎった呼称の中で一番無難なものを選ぶ。
「今うちで働いてくれている臨時従業員の旅人さん」
「ソラタっていいます」
「……どうも。それで、どうして旅人さんが俺の恋人にそんなことを言ったんです?」
「チェーンが長くて調理の時にスープにつきそうになってたんで、俺が外してくださいって怒ったんです。シルフィ、ずっと肌身離さずそれをつけているもんだから、衛生的にもよくないでしょ?」
ソラタにそんなことを言われた覚えはない。大体、料理中は絶対に食材につかないように、襟の詰まった服を着て、その中にしまい込んでいる。多少どころでなく暑いのは我慢だ。
「それ、俺があげたやつなんで、外すとかそういうことは軽々しく提案しないでいただきたいんですけど」
「そうなんですかー。へぇ、知らなかったー」
ソラタの、打ってもいまいち響かない鐘のような答えに、アサインははっきりと言い直した。
「こう言えば分かりますか?俺から恋人へのプレゼントを外せって仰ったことになるんですよ」
「へぇ!そうだったんですか、じゃあ野暮なこと言っちゃったんだな、俺」
「分かっていただければ――」
「でも、すみません。知ってても同じことを言ったと思います。俺、元々料理関係の仕事就いてたんで、そういうことばっかり気になっちゃうんですよ」
悪びれもせずに言い切るソラタに対し、若干不愉快そうに眉を顰めたアサインは、自分の表情に気付いたらしく、一度目を瞑ってふぅと息を吐きだし、私の方に顔を向けて柔らかい声を出した。
「シルフィ、指輪なんだしそろそろ指につけたら?」
「あーだめだめ。指って食品に一番触れる場所なんですよ。そんなところに着けるなんて、首からかけておく以上に厳禁です。だからこそシルフィだって今まで避けてたんだろうし。な、シルフィ?」
再びアサインを遮ったソラタが、やたら私の名前を呼び捨てつつ、同意を求めて来る。こちらに向けられた顔が頷けと言っているので、素直に首を縦に動かした。
「……どうするかはシルフィが考えるでしょう。部外者に口出しされたくありません」
「お二人のことはさておき、料理の衛生面に関しては一応今の俺はここの従業員ですし、部外者じゃないんですよねー。ってことで、申し訳ないですけど、シルフィが指輪をつけてないのは俺のせいってことで、彼女を責めないでもらえませんか?」
私に責任がないよう庇ってくれているようにも、はたまた私がアサインへの想いよりもソラタの言うことを優先させたようにも聞こえる曖昧な言い方だけど、どちらにしてもアサインは面白くないらしい。
営業用笑顔のソラタとは対照的に、初対面時から少し硬かったアサインの表情はますます硬くなっていく。
「釈然としませんね」
「人生そんなもんです」
「シルフィ、こんな接客でいいの?」
「はは。俺がこんなんだから、一番忙しいときは大変でしたよ。シルフィのおかげで助かりました。シルフィ、料理も旨いし、仕事も出来るし、一途だし、いい奥さんになりそうですね」
「俺はシルフィに訊いているんですが」
「シルフィ、さっきなかなか声が出なかったでしょう?体調崩して喉痛めちゃったんですよ。だから俺が代わりに答えようかなって思って。元々忙しいところに俺っていう新参者が入っちゃいましたから、俺の指導も担当してくれた分、普段に増して余計に忙しかったんですよね」
「シルフィ、そうなの?大丈夫?」
「でも、そんな体調だったのに昨日は恋人にお弁当を届けに行くって言った気がする。愛されてますねー、恋人さん。な、シルフィ、行ったんだよな?」
アサインがいちいち私に話を振り、それを全てソラタが拾っていくという、会話というよりは一歩通行の言葉の投げ合いと評するにふさわしいやり取りが止まった。
「う、うん……」
「え。シルフィ、来たの……?」
こくりと頷く私を見てアサインが目を見開いて言葉を失う。
それを見たソラタがにや、と底意地悪く追い打ちをかけた。
「素敵な恋人ですね。羨ましいなぁ。俺もこういう一途な彼女が欲しいです。俺、昔恋人と些細な喧嘩で別れてすごく後悔したことがあったんですよ。一度手放しちゃうともう戻って来ないもんですから、今のうちに大事にして、俺みたいな後悔をしないでくださいね」
終始笑顔で腰の低い態度を崩さなかったはずのソラタに、アサインの表情は完全に固まっていた。
アサインが去った後、ソラタ目当ての主に女性の客が次々とやってきたので、店の商品は早めに売り切れた。
まだまだ熱気に包まれた通りの雰囲気に祭の空気を感じながら、私とソラタは露店の片づけに移る。この後は軽食を取った後、もっと遅くまでやる店内の手伝いに移ることになっているから、のんびりもしていられない。
「まー仕込みはあんなもんだろ」
「……なんというか、穏やかだけど有無を言わせず押し切った感じだったわね。もっと暑苦しく責めたてるのかと思った」
「これぞ、我が故郷の必殺技・事なかれ主義と平身低頭攻撃!……って。俺ってそんなに暑苦しく見えるの?」
「外見はともかく、精神がね」
「どういう意味だそれ」
「それはおいておいて、あんなに謝ってよかったの?」
あえて聞き流して話を逸らすと、ソラタは苦笑して、顔の前で手を横にぱたぱたと振った。
「あんなの謝ったうちに入らないって。ちょっと理不尽でも、論点がずれてても、謝って上手く波風立てずに収められればそれでよしとするのが俺の母国の国民性なんだ。接客の経験が長い分、俺はバッチリそれに染まってるからなー。表面的な謝罪への抵抗感が薄いんだよ」
「ふぅん。そんなところがあるんだ……。変なの」
こちらでは自分に非がなければ謝らないのが普通だ。これは女性男性に共通しているが、特に男性の中では、へこへこ謝るなんてかっこ悪いという厄介な共通認識があって、少し悪いなと思う程度なら謝罪の言葉は出さない。
話しながらも、ソラタはテキパキと片づけを済ませていく。
調理用の台を拭き、屋根を畳み終え、ソラタは、雑巾片手に、よし。と呟いてから言った。
「あんまり褒められたもんじゃないかもしれないけどさ、少なくとも俺はそれでいいと思ってる。もっと大事なことがあるんだったら、自分が泥くらい被ってなんぼ。謝って相手の気持ちが済むなら謝る。その場をやり過ごして大事なもの守れるんだったら頭を下げる。そうやって優先順位をつけるんだ」
ソラタは、たまにおかしな言葉を使うし、その意味が分からないことも多い。ソラタが異国人であると感じる時は多いけれど、今ほどそう感じたことはなかった。
かっこ悪い。みっともない。はた目から見たらそうだ。でも、彼の謝罪交じりの会話のおかげで何もかも穏便にやり過ごせたのは私が一番よく分かっている。
「そこまでして守ってくれた大事なものって……」
「店の前で店員と客が揉めてたら印象最悪だろ?そんな店で誰も食いたくねぇし、食ってもまずいじゃん。せっかくの上手い料理がそんな馬鹿馬鹿しいことでダメにされる方が俺には許せないね」
「……あぁ、店ね。うん、そうよね。やっぱり」
「なに?なんか変?」
「いや、そこで冗談でも『君のため』って言うのがモテる人だよなぁって思って。で、ソラタは見事に外してるなぁって思ったの」
「うわぁぁ!それか!それが俺の今までの女の子関連の失敗の原因か!」
ソラタが隣で顔を覆って天を仰いだ。
ソラタって、料理に関しての自分の立ち位置がはっきりしてるのよね。それが一番で、それ以外の優先順位が低いって感じ。
端的に言うなら、料理バカだ。
そんなに好きなのにどうして辞めざるを得ない状況になったのか、多少は気になってくるが、このあたりの会話が通じたためしがないので結局聞かずに済ませる。
「ま、まぁ?これであいつは、シルフィが昨日の浮気現場を見たってことも察しただろうし、俺を敵って認識した。シルフィをとられるかもって危機感を植え付けた。俺にしては上出来、上出来」
「そういえばソラタ、モテたことなかったって言ってたけど、恋人いたことはあるのね」
「へ?」
「さっき言ってたじゃない。それとも、一昨日できて昨日別れたの?」
「シルフィの中で俺はどれだけ遊び人なんだよ。残念ながらいねぇよ。いたことねぇよ。真っ赤な嘘だよ」
「そうよね、これだけ女心に疎いもんね」
「うっわぁ、同意するの早すぎ。最初から質問する気ないじゃねぇか」
「でも、さっきのはかっこよかった」
「へ?」
作業を終えたソラタから雑巾を受け取って絞り終え、立ち上がったところで正面から彼に向かい合う。
「私があの時アサインと話をしたくないって思ったのも、昨日のことを問い詰めることも出来なくてどうしようもなくなってたのも、気づいてくれたんでしょ?」
「それは、まぁ」
鈍いはずのこの男は、心の整理がつかない私が窮地に陥ったことにきちんと気づいてくれて、助けてくれた。
さっきの手助けは私にとっては天の救いに等しくて、それをできるだけ、彼はそんなに鈍い男ではなかったし、かっこよく見えた。女の子たちが騒ぐ理由は、神の祝福とやらじゃなくてこういうところなんじゃないかとふと思ってしまったくらいだ。
それだけじゃない。私とアサインに一触即発の険悪な空気が流れないように上手く収めてくれた。なにより、大事な店の評判や印象を守ろうと考えてくれていた。
「彼のやったことは許せない。けれど、まだはっきり事実を突きつけて彼の反応を見るのは怖い。……あとちょっとだけでいいから、考えて悩む時間が欲しかったの。事を荒立てないで終わらせてくれて、本当に助かった。ありがとう」
思い切り頭を下げると、ソラタがわたわたと慌てている気配がした。
「あ、頭上げろよ!変な目で見られるだろ!俺はただ……そう!賭けのためにやっただけだから!」
「そう?」
「そうだよ!あー、あっちー。ほんと暑いわ。腹も減った。さっさと片付け終わらせねぇと倒れちまう。ほら、シルフィ、さっさと残りを片付けるぞ」
二度目でヒントも出してあげたばかりなのに、「君のため」と冗談を飛ばせないところがソラタらしい。
照れて赤くなった頬をタオルでさりげなく隠すソラタに、私は久しぶりに心から笑うことができた。