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※ 8月12日追記:店の休業日を変更いたしました。
昼が過ぎ、夜の営業時間になった。この時間は私も厨房ではなく接客に回る。
忙しい夜時間になぜあえて接客に回るかと言われれば、それは今が祭りの期間だからだ。
祭りの期間は、定食屋に入って食べる人も多いのだけど、出店で買った軽食を食べ歩く人も多い。
日差しが強いこの地域では、昼時間は日陰に入りたがる人が多いので、露店よりも店内の方が人気なのだけど、気温が下がった夜は、みんな外を出歩き、手軽に軽食を摘まみつつ、たくさんの店を回りたがる。
うちの定食屋も例に漏れず、露店を出している。
一番人気は、店長と一緒に下ごしらえを済ませてある子ヤギの肉をチーズと合わせてパン生地にくるんで焼き、焼きあがったものにしゃきしゃきの葉物野菜を挟んで特製ソースをかけた軽食だ。
ピリリと辛いソースとまろやかなチーズが絶妙な一品で、お酒によく合うので、冷やしたお酒と一緒に提供すると飛ぶように売れる。
今年は、昼時間は、私と店長が厨房、女将さんが店内接客。露店は、女将さんがピーク時間の来る前に数量と種類を限定で出して売り切る。夜時間は、店長が厨房、女将さんが店内接客、私が外の露店の売り子兼調理人として配置される予定だった。
露店担当は、お金や商品の盗難を防ぐために、店から離れてはいけないのだけど、呼び込みの売り子もしなければならない上、人が集まった時は、作り方も焼き時間も違う商品の調理時間を調節しつつ会計を済ませなければならないので、なかなか忙しい。
それが、今は、ソラタという予定外の人員をいれたことによって、露店に二人を割けるようになったので、呼び込みと会計をソラタに任せ、私は調理に集中できるようになった。
ちなみに、最初こそ貨幣の価値を勘違いしていたソラタだったが、一度教えると間違えることもなく、計算も速かったので、二日目にして会計を任されていた。
本人曰く「常識と思い込みって怖いよな」らしいが、「金が一番低い価値の低い貨幣である」という常識を欠くこと自体が理解できない。
昨日会ったばかりの人間を即会計担当にするのは危険だと言ったのに、気のいい二人に「人を見る目は任せなさい」と押し切られた時は気が気でなかったけど、ソラタ自身は、金勘定についてはいたって真面目で、懐にこっそり入れる、なんてこともなく、細かい小銭の寸分たがわず揃えてきた。ソラタが、最初に私が疑ったような熟練詐欺師でなくてよかった。
夜時間で開店して三時間経ち、数種類の人気商品が品切れになった頃、ようやく一息つけるようになった。
「それにしてもすんげぇ人だな」
人でいっぱいの通りを見たソラタが、シャツの襟もとを手で引っ張って風を通すようにしながら、感嘆の声を漏らす。
昼間の太陽で下がりきらない温度と人の熱気と露店のオーブンのせいでこの露店付近は大変暑い。この辺りの男に比べればずっと細身のソラタですら滝のような汗を流し、それをタオルで小まめに拭っていた。商品に汗が入るのは言語道断だものね。
「こういう人混み、こっちではなかなか見なかったからなー」
「四年に一度のお祭りだもの」
「オリンピックみたいなもんか」
「おり?」
「気にすんな。――それにしても、これが一週間も続くってなかなかの迫力。疲れない?」
「疲れるって言えばそうだけど、それだけの期間がないと、町の人が交代で休んで祭りを楽しめないからね。観光のお客さんだけじゃなくて、住人だって楽しみたいでしょ?元々稼ぎが多い小売店なんか、一日しか開けないってところもあるわ。飲食業でお客さん命のうちなんかはほとんど休みを取らないけど、それでも最終日だけは休みを取ってるくらい特別なお祭りなの。女将さんが店長と一緒に出掛けるの、楽しみにしてたわ。そういう意味で、この期間にほとんど開けているうちは今、町でもかなり稼げる部類に入るから、金無しのソラタにとってはよかったのかも」
冗談めかしつつ、残りのお肉の枚数を数えていると、不意にソラタが尋ねてきた。
「シルフィはどうすんの?」
「私?」
「最終日、休みなんだろ。どうすんだよ」
「私は――」
ちょっとしたお祭りでも、いつもならアサインが来て一緒に過ごそうと誘ってくれた。でも、今年はお誘いが来るか分からない。
来たら来たで、どうすればいいか分からないから、来てほしくない気もする。
彼と一緒に回った前回のお祭は楽しかった。祭りの時にしか出ない限定のお菓子や屋台の食べものを巡ったり、敷物を見たり、装飾品だってプレゼントしてもらった。
首からいつも下げていた、すもも色の石のついた指輪は、昨日、もらって以来初めて外した。
自分で外しておきながら、その行為に自分で泣いちゃうんだから世話はない。
「あの浮気野郎と一緒に祭を回るの?」
「浮気野郎って言わないで」
「じゃあ最低野郎って言えばいい?やってること最低だろ」
「分かって、る。でも、もしかしたら、何か理由があったのかもしれないし――」
「彼女が働いてる時に他の女の子とべたべたすることに理由なんかねぇよ。彼女が来ないのをいいことに旨い弁当作らせておいて、その間にいちゃつくとか、男の風上にも置けないやつだろ」
「分かってるってば!……分かってても、悪く言われると、腹立つ」
「はー。女心ってわかんねぇな」
お客さんとして来た女の子に囲まれて鼻の下を伸ばしてたやつに言われたくない。
昔から、気に入ったおもちゃは壊れても繕って直してずっと手元に置き続けていた。――十八歳の今でも、行商団時代にもらったぬいぐるみが健在だ。
一度嵌った食べ物なら、毎日食べ続けても飽きなかった。――一年続いても、二年続いても、三年続いても毎日美味しいと思っているし、食べないと落ち着かない。
料理の楽しさに目覚めて料理人の道を目指した時、重い肉切りナイフを扱いきれなくて何度血を流しても、腱を痛めても、それでもナイフを握った。――怪我をした手を持つ料理人なんか店に置けないと店長に怒られたときには、鍋運びに水汲み、ごみ処理や皿洗いといった重労働で筋肉をつけることに必死になって店長に呆れられた。
変人だったとは思う。自覚はある。
実際、十歳から一年間、最低限の勉強を習うために通っていた学校では、何度も後ろ指をさされて変なヤツだと笑われた。
これでも人並みに可愛い物や綺麗な物や男の子に憧れたりもする、普通の女の子としての一面もあった私は、精神が鉄壁だったわけでも、心臓に毛が生えていたわけでもない。そうやって笑いものになるたびに傷ついてきた。
アサインは、常に傍にいてその傷を癒してくれた。
そんな優しい彼が、こんなことをした理由が、私にはどうしても分からない。
「今回の企みが成功した後のことで、これは完全に俺のお節介だけど……男として助言するなら、そんなやつとは別れた方がいいとは思う。男は浮気したいって衝動がある生き物で、それを大事な彼女のために抑え込んでるんだよ。でもそれを一度解放しちゃったら、また必ず浮気するようになる。彼女が許してくれたりなんかしたら、余計にな」
「……正論ね」
でも、孤児の身でこの町に来て、独りぼっちで寂しいとき、この店に入って店長と女将さんという居場所を得るまで、得てからこれまでずっと、横で支え続けてくれたのはアサインだったのだ。
そんな彼を、こんなことで失っていいのか、手放すべきなのか。
それとも一度だけのことと目を瞑り、こういう苦い気持ちを飲み込んで付き合い続けていく方がいいのか。
「まぁ、俺個人の主観は別として、俺はさっき言った通りに動くから安心しろよ。負けるつもりもないし!」
難しい顔をして黙り込むと、ソラタが、それほど変わらない高さから腕を伸ばして、私の背中を軽―く叩いた。
ソラタと話すようになったのはほんの数時間前からなのに、なぜかこうやって気軽に話せるようになっている。昼頃まではこんな些細な行為ですら不快だったのに、今は不快にならない。
ソラタは、私が無駄な自尊心と無意味な恐怖心で作っていた心の壁をあっさり砕いてやすやすと内に踏み込んできた。
もしかしたら、私もソラタの「はーれむちーと」とやらに影響されているのかもしれない。そうだとしたらさすがは神の力だ。私の好きな人はアサイン一人だというのに。
アサイン、会いたい。でも、どんな顔をしてあなたに会えばいいの。
「ハン山羊肉のサンド、二つお願いします」
「すみません、もう売り切れてしまいました」
「それは残念。恋人と二人で食べようと思ったのに。じゃあ代わりのおすすめを教えて?食べたいものでもいいよ、シルフィ」
考えに耽っていたせいで一度目は聞き逃したが、それでも二度目は聞き逃せなかった。
聞くだけで癒されるほど聞き慣れた声に、呼吸が震える。
背の高いその人が、露店の光に照らされて私の顔に影を作る。
「シルフィ?どうした?」
私が下を向いたまま顔を上げずに固まっているからだろう、ソラタが心配そうに声をかけてくれる。が、それに返事も出来ないまま、スカートの裾を掴み、両手の震えを堪える。
逃げちゃだめ。いずれこの時がやってくるのだから。
繰り返し、繰り返し、自分の心に言い聞かせたのも、時間にしたら数秒くらいだったと思う。
顔を上げて、その枯れ葉色の瞳と向き合って、その名を呼びかけた。
「……アサイン」
「ごめん、お待たせ」
私の呼びかけに、アサインは嬉しそうに笑った。