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声を聞いてはっきりとした意識の中にそいつが入ってきたとき、私の中に沸き上がったのはやり場のない怒りだった。
こいつが来てからだ、なにもいいことがない。大事な店の居心地悪くなったのも、彼のあんな場面を見てしまったのも、全部こいつに会った日からじゃないの。
こいつは私の居場所を奪うだけでは飽き足らず、私の大事な人まで奪っていくつもりなの?
「触らないで!」
肩に伸ばされた手を振り払い、勢いよく背を向けると、勢い余って後ろの壁に正面衝突した。額と鼻の頭が痛い。
「大丈夫か!?」
「……平気。それで、なに?店長から伝言?そうじゃなければ放っておいて」
「なぁ、一体何があったんだよ」
「放っておいてって言ってるでしょ!」
「昼日中から壁に向かって突進する女を放ってはおけねぇだろ」
「あんたに心配されるようなことは何もないわ!心配されたくもない!」
振り返って睨みつけた黒髪の青年が立つ傍の地面に、転がった弁当箱が見えた。ぶつけた拍子に落としてしまったらしい。
「おい、落としたぞ」
「いい。捨てておいて」
「はぁ?これ弁当だろ?重いし……中身入ってるんじゃねぇの?」
ソラタは、困惑気味に、本来の相手に贈られず、作り主にも見捨てられた弁当を拾い上げる。
「そんなもの、もう、なんの意味もない」
「……なんの意味もないってなんだよ」
弁当だった包みを視界に入れることすら厭わしく、ぷいと顔を背けた時、初めて、ソラタが声を震わせた。
これまで私がどれだけ冷淡に接しても、無視しても、怒ることもなく困ったような顔で笑っていたソラタが、初めて明確に怒りの感情を見せた。
「これ、食べ物だろ。中身入ってんだろ」
「だったらなに?」
「食べ物を粗末にするとか、見損なった。お前らしくない」
「私らしいって何!?」
居場所がないと感じるのは、自分の技量に自信がないから。職を失ったわけでも、厨房から追い出されたわけでもない。彼がいることで私が追いやられた事実はない。ましてや恋人が他の女の子と一緒にいるのを見てしまったのなんて、偶然に過ぎない。
これが途方もない八つ当たりだということは、私だって頭の片隅では分かっている。
それでも一度爆発したら止まらなかった。
「私よりもずっと効率よく接客をこなして、たくさんの客を引き連れて、多分、料理もできる。店長も女将さんもあんたが来て手放しで喜んでるわ。よかったわね。でも、それで居場所を失った人間の気持ちが分かる?あなたが現れた時、ちょうど四年も一緒にいた大事な恋人が他の女の子と連れ立っているところを見た人間の気持ちが分かる?それでも彼のことを好きで仕方がなくて、信じたくなくて、無駄なあがきをする人間の苦しみが分かる?たった四日前にぽっと出てきたあなたに私の何が分かるっていうの。みんなにとってあなたが幸福の使者だったとしても、私にとっては疫病神なのよ!だからお願い、さっさとお金を稼いでどっかに行ってよ!いなくなってよ!」
途中から伝わっていたかも分からない。自分の顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっててみっともないと分かるくらい冷静になれたのは、私が叫び終わり、暫く沈黙が続いた後だった。
はっと我に返り、目の前の男を窺えば、ソラタは沈痛な面持ちで佇んでいた。
「……言い過ぎた。ごめ――」
「ごめん!」
しょうもない自尊心で潰される前に、やっと生まれてきた謝罪の気持ちを伝えようとしたのに、謝罪相手の方が勢いよく頭を下げてきた。
「俺、無神経だし、女の子の気持ちなんて全然分かんないから、シルフィにそれだけ嫌がられてるって気づいてなかった」
あれだけ露骨に無視したり冷たく接したりしても気づいていなかったのか。これは大物かもしれない。
「そりゃさ、あんまり好意的でないなって思ったこともあったけど、シルフィは何も言わないし、俺、何が悪いのか分からなかったんだ。でも、考えてみれば、そうだよな。俺が仕事させてもらうってことは、シルフィの仕事が減るってことだし、お金の価値とか物の名前とか、一般常識みたいなこと全部シルフィに教えてもらったってことは、その分シルフィの時間を奪ってたってことだもんな。俺、ちょっと調子乗りすぎてた。ごめん」
「いや……私も言い過ぎた。新しく入ってきた人に教えるのは当たり前のことだから……あんたに当たったことは認める。ほんと、ごめん」
「な、これ、俺が食ってもいい?」
「……は?」
唐突なお願いに、毒気を抜かれてしまった。
相手が素直に謝ってくれたことで冷静になり、なればなるほど謝り合い合戦になって気まずい空気が流れるのが普通だというのに、この男はあろうことか、ひっくり返った弁当を持ち上げたのだ。
「シルフィがいいって言ってくれるなら、食いたい」
「それ、私が全力疾走する途中で散々振り回した挙句、そこで地面にぶつかって二転三転してひっくり返った代物よ?中身、ぐっちゃぐちゃだと思うけど」
「そ……それでもいいから!」
今少し蒼ざめたのは見逃さなかったぞ。
「食いながらさ、ちょっと話でもしない?」
一瞬のたじろぎをなかったことにしたソラタは、気を取り直して弁当箱を持ち上げた。
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弁当箱の中身は予想通りの惨状だったが、ソラタはそこにフォークを入れてもぐもぐと咀嚼する。
「色々と混ざっててまずくないの?」
「確かに混ざってるところはあれだけど……でも、元は旨い。この肉とか圧力かけて煮込んでるだろ。柔らかいのに、肉汁は詰まってる。あ、これ、出汁はなに?鳥ガラ?だけじゃねぇよな、なんか香草も使ってそう。すんげぇ手が込んでる」
ソラタは、一つ一つに丁寧な感想と考察を残しながら中身を次々と口に運ぶ。お客さんに料理を提供するようになってそれなりに経つのに、どうしてだか緊張していたらしく、ソラタの感想を聞いて肩の力が抜けたのが分かった。
そういえば、アサインに初めてこうやって食べてもらったときも緊張したっけ。アサインは料理の専門家じゃないから、分析はしなかったけど、最初、まだ私が包丁を持ち初めた頃なんか、「美味しい」と言いながらも顔が若干引きつってた気がする。
どんなに見栄えが悪くても、味が悪くても、全部食べてくれて「明日はもっと美味しくなるんだろうな、楽しみだ」と言ってくれた笑顔が思いだされて、胸の奥が酷く軋んだ。
「なぁ。シルフィは料理人になってどのくらい?」
「十五歳の時に弟子入りしたから、三年」
「三年でこれかー。じゃあ今十八?才能ってこえぇな」
「才能?持ち上げても怒りは消えないわよ」
「お世辞じゃないよ。シルフィはもう客に料理出してるだろ?俺、もっと道具が発達してて、設備も整ってるところで、これと同じくらいのもの作れるようになるまで五年はかかった」
調理道具が発達というところには興味があるが、それは後日聞き出すことにしよう。
「五年?いつからやってるの?」
「ちゅうが――じゃねーや、学校出て店に弟子入りしたのが十六の時で、その時から七年」
「七年!?ソラタ、歳いくつ!?」
「二十三。見えない?」
「見えない」
「出たー。若く見えるっていうお約束!」
「何の話?」
「こっちの話。いや、立派なもんじゃん。俺、シルフィが料理できるやつだって初めて会ったときから気づいてたくらいだもん。相当やり込んでるだろ」
店の裏手の石段に腰掛けたソラタは、あっという間に空っぽにした弁当箱に手を合わせた。
「それ、初対面の時もやってた気がする。なに?」
「あぁ。これ?ごちそうさまっていう俺の母国の挨拶。食べ終わった後に、この食材になってくれたすべての命に感謝を捧げる動作」
「へぇ。素敵な慣習ね」
目の前で生きている動物が殺されて捌かれるところを見ているし、この手で絞め殺して調理することだってある。野菜だってそう。天候が安定しないときも、嵐の時も、炎天下でも、毎日畑に出て、見るだけでぞっとするほどたくさんつく虫を手でどけて、水をやって、土を管理して、一つ一つ丹精込めて作られていることを知っている。
どれも、私が料理人を志した時、店長が一番最初に見せた光景だ。
意図せず出てきた感想に、ソラタは、自分が褒められたように照れくさそうに「だろ?」と笑う。と、そのまま隣に座った私が膝の上に置いていた手に目を落とした。
「シルフィの手は、料理人の手だよな」
目を細めて見られるのがどうしてだかこそばゆくて手を膝の裏に隠し、そのことがばれないように地面を見たまま早口で続ける。
「あんたもそうでしょ。相当練習してる」
「あぁ、してたよ」
不思議な過去形に横を見ると、ソラタは、何かを懐かしむような顔でもう空になった弁当の中身に目を落とした。
「最初は皿洗いと皮むきから始まったんだけど、俺、手先がすっげぇ不器用だから、何度も指を切ったし、火傷もした。まかない料理作るところまでなかなか進めさせてもらえなかったんだ。さっさとやめろ、向いてない、田舎に帰れって何度先輩に言われたかな。できること全部やって頑張って、七年踏ん張って、それでようやく、初めて人前に自分の料理を出してもらえるってなったとこまでいったんだけどな……」
ソラタは、手が白くなるくらい強く、弁当箱を握り込んでいる。
ソラタに私のことを分かっていないと言ったものの、私だってソラタのことを何も知らない。どうしてここにいるのか、なぜすべてを過去形で語るのか、どうしてその歳で貨幣の価値も分かっていないのか。
考えれば考えるほど奇妙なやつなのに、ソラタは自然に店に溶け込んでいた。そのあたりは才能なのかもしれない。
その才能を勝手に妬んで人のせいにしていた自分が、冷静になればなるほど恥ずかしくなる。その罪悪感から逃れたくてつい言ってしまった。
「じゃあ、私にその実力を見せてよ」
「え?」
「もし。もし、まだ作りたいって気持ちがまだあるなら、私にその腕前を見せてみなさいよ」
「だ、だってシルフィ、俺が作るの、嫌なんだろ?」
「嫌よ。私の居場所を取られるのは嫌。でも、あんたはいずれ出ていく人だもの。私の居場所が盗られるわけじゃない。厨房の使用許可が出るかは店長に訊かないと分からないけど、私が自分のご飯を作る時に使ってる調理台を貸すことくらいはできるわ」
八つ当たりしたことの罪滅ぼしだってことくらい察しなさいよ。
視線に想いを籠めたせいか、とんでもなく人の心の機微に鈍いらしいこの男もその意図を察してこくこくと縦に首を振った。
まずかった、譲歩しすぎたか、と一瞬後悔したが、自分の手に目を落として、「作れる……」と漏らした声が聞こえたとき、純粋に、言ってよかったと思えた。
ソラタの語っていない事情が分からないにしても、もしやむを得ない事情で長く料理を作れない状況に置かれているのなら、同じ道を志す者としてその渇望はとってもよく分かるから。
「じゃ、次はシルフィの番だな」
「は?」
ソラタが弁当箱の蓋を閉め、大事そうにその蓋を撫でる。
「俺、食べ物を粗末にする行為って最低だと思ってる」
「無銭飲食したやつからありがたいお言葉をいただきました」
「そ、それは事故だっての!」
「はいはい」
鼻息を荒くして主張して来る二十三歳には思えない男をいなす。
自分でも単純だと思うが、こいつのことを最初のように忌み嫌えなくなっている自分がいる。正面からぶつかって本音をぶちまけたせいかもしれない。
「で、いつもは食べ物を大事にしてるシルフィが、これだけぐちゃぐちゃになってても俺に旨いって思わせるだけの弁当を捨てようとしたって相当の理由があるんだろ。聞かせろよ」
「ちょっと!気を効かせてあんたの事情を訊かなかった私の配慮とか、そういうの少しは学んでくれない?」
「はいはい、落ち着け。詮索したいんじゃねぇよ。俺のこと、利用しろって言ってんの」
「利用?」
二十三歳、異国人。正体不明、素性不明の私の疫病神は、初めて、悪い大人の顔で笑った。
「シルフィ、俺と賭けをしない?」