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「店長。どうしたんですか?」
「シルフィ、ちょっと接客任せていいか。明日の仕込みをせにゃならん」
不愛想な店長は接客には向かない。こういう接客は、いつもは、明るさではこの町一番と自負している店長の女将さんが請け負っている。しかし、その女将さんはちょうど今日の売り上げを計算し終えて、明日の発注の追加に行ってしまったらしい。
店長夫婦と私だけでやっている店だから、女将さんがいないときの接客は私の仕事だ。
「すみません、遅くなっちゃって。私、やります」
私が申し出ると、店長はどこかほっとしたように息をつき、厨房の奥に帰っていく。
そんなに緊張感のある相手だったのかしら、と、店長の後ろ姿を見送って、店長の大きなお腹の陰になっていた机の上を見て、店長の困惑の理由が分かった。
営業時間もとっくに終わり、こじんまりとして広くはない店の半分以上を占めるホールにぽつんと一人いる男は、ひたすら目の前に出された食事をかき込んでいる。
その量がすごいのなんの。三人掛けの机に所狭しと並べられた大皿は、空っぽになるや、何枚も積み重なっていく。
その食べっぷりに、お客さんをまじまじと見てしまうのは失礼と分かっていながらも思わず見入ってしまった。
黒髪に、切れ長の一重の男。男といっても、歳の頃は私とそれほど変わらないように見える。食べている量の割に、体は小柄で、痩身だ。座った目測でも身長は私とそれほど変わらない気がする。この町では珍しい容姿だけど、小さい頃に町の外を回ってきた私から見れば、異国の人なんだな、程度だ。明らかに異国の人と分かる顔立ちなのに、この国の普段着を着ているんだから、服だけ浮いていてなんだかおかしい。
それにしても、この体のどこにこれだけの量のご飯が入っているんだろう?
男は、私の目の前で最後のお皿を綺麗に空にしてから顔を上げ、にかっと笑いかけてきた。
「あー旨かった!ご馳走様!」
出した料理をこれだけ綺麗に食べきってくれた後の、ご馳走様。
料理人の端くれとしてこれ以上嬉しい言葉はない。それなのに、泣きすぎた顔は思うように動かない。
今日あれだけ嫌なことがなければ、これだけで今日は幸せに眠れただろうな。
「ありがとうございます」
涙でバリバリになった頬の肉を無理に動かし、接客用の笑顔を作る。
もう営業時間は終わった後だからいいよね、ちょっとくらい笑顔が引きつってても。
「ここ来てからさ、旨いんだけど、味が濃くてこってりしたものが多かったからさ、こういう、薄味も濃い味も楽しめる店って初めてだったんだ。肉は下味がしっかりついてるし、野菜も臭みが消えてるのに歯ごたえはしっかり残ってて旨い。ここに来て俺が食ってきた中で一番旨いよ、断言する」
「お褒めのお言葉をいただき、光栄です。お客様は異国の方なんですか?」
「異国っつーか異人っつーか……まぁ、そんなとこかな」
曖昧に笑った男は、机の上にお金を置いて立ち上がると、私に向けてひらりと手を振った。
「閉店間際に駆けこんで来ても嫌な顔せずに作ってくれてありがとう。まだしばらくはこのあたりにいるから、また来る」
「ちょっとお待ちくださいませお客様」
決めたところに悪いが、立ち上がったその肩をがしりと掴んで引き止める。掴んだ男の肩の肉は薄く、身長も私よりほんの少しだけ高いだけだったから簡単だ。
男の方は、店長の奥さんほどの貫録がまだないはずの私に簡単に引き戻されてよろめいた。
男としてその軟弱さはどうなんだ。
「何!」
「全然、足りておりません」
にっこりと笑って机の上を指さすと、憤然としていた男は表情を変え、申し訳なさそうに謝った。
「うわ、ごめん。あとどれくらい?」
「三バルです」
「さんばる?」
「銀色の小さい硬貨が三枚です」
「そっか。ちょっと待てよ……」
男がごそごそとポケットの中を漁り、出したのは、一枚の小さな金色の硬貨だ。
「これで足りるだろ?」
「これではリンゴ一つしか買えません」
私の言葉に、男の笑顔が凍り付いた。
「……この国って、リンゴは超高級品?」
「いいえ。子供のおやつです」
「……これって、金だよな?」
「金ですね」
「偽物?」
「いいえ。本物でしょう」
「き、金って、い、一番価値があるんだよな?」
この男は一体何を言ってるんだろう?万国共通、常識じゃないの。
「金は最も価値が低い貨幣でしょう?」
「嘘だ――――!!」
「本当です」
「本気で嘘だと思ってるわけ、じゃ、ねぇ、けど。いやいや嘘だろ!?なにそれ、なんで!?神様、意味不明なんですけど!その常識覆されたら俺、うまくいくわけねぇじゃん!くそ、あのケチじじい、何が金持ちだよ!小銭を大量に持たせただけじゃねぇか……!」
なぜか慌てふためいた男は、足を踏み鳴らしながら天を仰ぎ、喚き始めた。
神を恨むのはお門違いもいいところ。恨むなら生まれを恨んだ方がいいと思う。金の価値が一番低いなんて、どんな子供でも知っている。そんなことも知らないなんて、よっぽどの山奥で文明とかけ離れた自給自足の生活をしていたのかしら?それとも、長いこと山猿に育てられたりしたの?いえ、それにしては木製ナイフもフォークもきちんと使えていた。言葉も時折変なところがあるけれど、大体は人間の普通の言葉だ。キーとかウキキッとか鳴けば私も考えを改める。
となれば――?
私は最も高い可能性に気が付いた。
もしかしたら精神の病気なのかもしれない。この人、きっと近づいちゃいけない人だったんだ。どうしよう。
「おい、ちょっと。お姉さん。今俺のこと頭のおかしいやつだと思ったでしょ」
「伝わってしまいました?それはすみません」
「その危ないものを見る顔されて気づかないやつってよっぽどの馬鹿だぞ。隠す気ねぇだろ。ほんとに知らなかったんだ、金が一番価値があると思ってたんだよ。これまでこれで払っても何も言われなかったし!」
「同じだけ食べて何も言われなかったの?」
「うわ、敬語やめた」
「お金払えない人はお客さんじゃないもの。無銭飲食は飲食店の敵よ。ゴミ箱辺りに出る黒光りするあの虫と同じくらい嫌い。世の中から撲滅されればいい」
「その気持ちはすんげぇよく分かる!分かるからこそ、俺、なんてことをしてきてしまったんだと……!」
黒い固そうな短い髪をがしがしと掻く男は、顔にたくさんの冷や汗をかいている。しらを切り通そうとしていてこれなら、なかなか手慣れた詐欺師かも。
「大体、どうして誰も咎めなかったんだ?どの子もまた来てって言ってたし」
「どの子?」
「接客してくれたの、大体女の子でさ。おばさんの時もあったんだけど、男はいなかった気がする」
「ふぅん」
「てっきり俺の顔が珍しくてここではイケメンだからサービスしてくれてんのかと」
「いけめん?」
「かっこいい男ってこと」
この人、自分で自分のことかっこいいとか言ってる。自己愛性癖の持ち主でもあったのね。
私の視線から私が言いたいことを察したのか、男は顔を赤らめながら苦虫を噛んだように顔をしかめた。
「べ、別に俺はナルシストなんかじゃない!状況を理解したいんだ。頼む。お願いだから、俺の顔の客観的評価を聞かせてくれ」
「容姿、ねぇ……」
男の要望通り、近づいて正面から見つめ合う形になると、なぜか男はたじろいで私を遠ざけようとした。
「ち、近づきすぎじゃねぇか……?」
「私、あんまり目がよくないの」
「そ、そうか……」
男は、私の言葉に騙されて抵抗をやめ、照れたように頬を赤くする。詐欺師だったらその辺も手慣れてそうなのにあんまり女慣れはしてないみたい。この男は、詐欺師ではないのかしら?
顔自体は、まじまじと見ても変わらず、典型的な異国人の顔立ちだ。鼻が高くてはっきりとした顔立ちが特徴的なこの国の人間と比べれば、全体的にのっぺりとした平坦な顔。
けれども、きっとこの男が聞きたいのはそういうことじゃないということくらい、さすがに私にも分かる。
「容姿としては、普通じゃない?黒髪は、まぁいないことはないけど、それほど多くないし、切れ長の黒い瞳は異国感溢れていて、色っぽくあるようなないような感じだから、かっこいいと思われなくもない。あー身長が女の私と同じくらいしかないのはどう見てもダメな要素。でも顔立ちよりなによりまずいのは、体格。貧弱な男は仕事できないのが普通って見限られちゃうから、女の子に振り向いてほしいここら辺の男の人はみんなそれなりに鍛えているんだけど……私が今見る限り、あなたはひょろひょろのもやしみたいに見える。女の子の人気なんて到底集められない」
「心を突き刺して塩まで塗り込むような正直な意見をありがとう……」
言ってと言ったくせにショックは大きかったのか、男はがっくりと膝をついた。
「俺、にほ……俺のいた国では、ほんと平凡って言われてたし、身の程は弁えてる、弁えてるとも……!お、女の子にモテたとかねーし!」
「それがここでは女の子に騒がれて舞い上がってしまって、それに味をしめて詐欺を繰り返していた、と」
「無銭飲食なんかするつもりなかったんだ、本当だ!俺、料理に携わる仕事してたし、そういうの一番許せねぇって思ってて!」
「なら代金を払って」
「……か、金、ない……」
「じゃあ自警団に連絡をするしかないわ」
「待ってくれ!ちょっと時間をくれ!」
今日は嫌なことばかりだ。
嫌なものを見て、嫌味な視線を送られて、挙句の果てに、料理人として一番嬉しい言葉をくれたやつは無銭飲食っていう、最低の行為をする。なんてついてないの。
考えたら苛々した気持ちが募ってきた。縋ってくる腕を振りほどいて男を睨みつける。
「嫌よ。そういうの、お金を払わないまま逃げる旅人の常套句だもの。店長がどれだけの時間をかけて食材を仕入れて、仕込みをして、丹精込めて作ってると思ってるの?無銭飲食って、それを踏みにじる行為なのよ?」
「わかってる……でも、本当に払うから……」
力なく項垂れる姿は、演技にしては迫真級だ。演技でないとして、本当にお金の価値を分かっていなかったのなら少し可哀想かな、という気持ちすら湧き上がってきた。でももし演技だったら――
「おやおや、何をやっているんだい?」
「女将さん」
女将さんが、店の裏口から、前掛けで手を拭きながらやってきた。
女将さんは、私と、足を折りたたむ不思議な座り方のまま床の上で項垂れる男と、空っぽのお皿を見ながら、私に騒動の原因を尋ね、一通り話を聞き終えると男に呼びかけた。
「あんたはこの国の生まれじゃないんだね」
「違います。でも、俺、無銭飲食をするつもりなんてほんとになくて――!」
顔を上げて必死で訴える男に、女将さんは質問を重ねる。
「あんたは料理関係の仕事に就いてたって言ってたね。その店はどうしたんだい?辞めたのかい?追い出されたのかい?」
「……どちらでも、ありません」
男は、どうしてだかそれ以上言わずに黙り込んだ。一度上げた顔を床に向け、膝に指を立てている。
そんな男に、女将さんが優しく声をかけた。
「あんた、料理は好きかい?」
「好きです」
即答だった。
きっぱりとした返事に、女将さんは恰幅のいいお腹をゆすって、お日様のようにからりと明るい笑顔を見せた。
「よーし。じゃあその決意、見せてもらおうじゃないか」
「え?」
「あんた、暫くうちで働きな。見たとこ、旅でもしてるんだろう?今日食べた分の金以外に金を稼がないと旅は辛いだろうし、なによりそんだけ常識に欠けちゃあこれから困るだろうよ。とはいえ、厨房に立たせるわけにはいかないから、接客だけだけどね」
「い、いいんですか!」
「ただし、旦那も私もとっても忙しい。聞くべきことはシルフィに聞くこと」
「分かりました!」
話が勝手にまとまりそうになり、女将の腕を引っ張って呼び止める。
「というわけで、シルフィ、この子の世話を頼んだよ」
「女将さん!こんな、信用のおけないやつをいいの?」
「いいんだよ。明日の昼からは、シルフィも厨房にも入ることになっているだろう?祭は始まったばかりでどうせ人手が足りないから、ちょうどいいじゃないか」
「でも……」
「それにシルフィ、この子の顔なら、若い女の子がいっぱい来てくれるだろう?」
「えぇ?」
「かっこいい子はいてくれた方が何かと得なんだよ。シルフィは真面目だけどね、こういうところはずるく生きないと」
「かっこ、いい?女将さんの好みは、正統派。まさに筋骨隆々の、むさくるしいくらいの男だったはずでしょう?」
「それはそれでいいけど、この子もこの子でいいだろう?ほら、この目とかさ、ちょっと細身な感じも今時じゃないか。なんというかこう、惹きつけられる感じがある子だよ。そう思わないのかい、シルフィ?」
なんだかんだ偏屈な店長一筋の女将さんが、目元を緩ませ、若い娘のようにとろんとした表情をして見せる。
女将さん、演技が入っているのは分かるんだけど、その年齢でその表情は、なかなか破壊力があるよ。 その男だって、知らずに後ろに下がって頭を机にぶつけてるって。
それにしても、かっこいい?惹きつけられる?女将さん、疲れて幻でも見てるんじゃないの?
私の目がおかしいってわけじゃないはず。何度見たって同じ顔にしか見えないもの。
「さ、明日も遅いんだ。あんた、寝るところはあるのかい?」
「い、いえ、ありません。どこかに泊まろうかと思っていました」
「それじゃあこっちにおいで。空いてる部屋を貸してあげよう。シルフィ、明日も早いんだから、早めに寝なさいよ」
上機嫌な女将さんは男を連れて、定食屋の二階、女将さんや私が寝起きしている実家に戻ってしまう。
私が呆然としている間に、話はまとまってしまったようだった。