13
ソラタがいなくなったと分かったのは、時間になっても朝食の席に来なかったからだ。
店のお休みだから寝坊だと思って暫く放っておいた昼すぎ、焼きたてのパンの匂いを漂わせつつ、部屋を覗いたところ、一枚の紙が机の上に置いてあった。
震える手でそれを取れば、読めない文字がくしゃりと歪んだ。
紙に書いてある文字はこの国の文字じゃなくて読めなかったが、ソラタのこの置き手紙が別れの挨拶で、彼がここからいなくなったのは、その片付けられ、私物の消えた部屋から分かった。
階下で出かける前の女将さんに話を聞いたところ、ソラタは祭りの期間だけという約束でここに勤めていたらしい。
「それをソラタが言ったのはいつ……ですか?」
「ちょうど三日目の夜だったよ。ここはあんたの場所だからって言ってね。考えすぎだって、昨日の夜も引き止めたんだけど、ラタがどうしてもって言うもんだから。せめて今日あんたに挨拶するまでいればって言ったんだけど、事情が変わったんでって言っちまって聞かなかったんだよ。惜しい子だったね」
そう言われて、私は三日目の昼、彼に叩き付けた言葉を撤回していなかったことを思いだした。確かに、あの後、ここにいてほしいと言った。けれど、それは私の居場所を奪わない前提でのことで、もっと長くいろなんて一言も言わなかった。
予感はしていたのにどうしてちゃんと引き止めなかったんだろう。
一度言ったことは取り返しがつかないし、言葉にしなかったことは伝わらない。
察してなんて思うのは甘えだ。彼の気持ちを考えることなく甘えさせてもらったのは過ぎた贅沢だった。
ソラタと会った日を除けば、ソラタがいたのはたった四日間。
嘘だったんじゃないか、夢だったんじゃないかと思うくらい短い期間で、でもそれは現実だった。
夢ならあんな中途半端な容姿のやつじゃなくて、もっとかっこいい男であってほしい。
そう言ったら、ソラタはまた「シルフィ、オブラートって言葉を覚えよう?な?」とか言うんだろうな。考えると笑いすら漏れる。
ソラタに対してもった感情はたくさんあって、どれもこれも強い感情だった。
怒り、憎しみ、嫌悪、妬み、戸惑い、憧れ、呆れ、喜び、感謝、楽しさ、共感、そして好意。
短い期間だったからこそ覚えている光景を何度も繰り返しも思い返し、その時の気持ちになりながら、自分の中で整理をつける。
聞いてもらったこと、教えられたこと、料理をしている姿、それに対する姿勢。アサインのこと、エリィのこと。たくさん話して、たくさん聞いてもらった。泣き顔を晒した回数は女将さんや店長よりも多い。
ソラタと一緒にやったこと、見たこと、経験したことは、どれも、彼が見せ、食べさせてきた料理のように色とりどりだった。
半日、考えていれば色濃くなる記憶を大事な思い出として反芻した。
不思議と涙は出てこなかった。
夕方くらいになり、私に来客があった。
「シルフィ」
見慣れた濃い紫色の髪が店の裏口に見え、私は迷わずに外に出た。無言のままで少しだけ店から離れ、前回二人で話したところまで移動する。
夕方、温度の下がり始めた熱風が顔に当たり、今日初めて外に出たんだとようやく気付いた。
アサインとこうして顔を見合わせて話すのは四日ぶりになる。ちょうどソラタがいた期間と同じくらいだ。
「今日休みだって聞いて、お祭りに誘いたくて来たんだ。一緒に行かない?」
正面に立ち、落ち葉色の目を見つめてから、ゆっくりと首を振る。
アサインはその答えを予想していたように不自然なくらい低く抑えた声音で確認した。
「……忙しくて断る……とか、じゃないよな。それは、こないだの俺の質問への答えってことで、あってる?」
「……うん」
今度は声を出して頷く。小さい声になってしまったがそれでも声は喉に引っかからずに出てきた。
「あの業者のことが解決して、エリィも俺に構わなくなったって言ってもそれは同じ?」
「…うん」
「俺のこと、嫌いになった?……それとも……他に好きなやつ……できた?」
アサインの声は小さく、そして震えている。
私はそれを聞き届け、さっきよりもはっきりと首を横に振る。すると、アサインは今度こそ目を大きくし、声を失った。
「私がソラタのことを好きになったと思った?ソラタのことはね、好きだよ。初対面の時とは比べ物にならないくらい」
アサインの近くに歩み寄り、その手に手を添えて尋ねるとアサインの瞳が揺れた。
「でも今の彼への気持ちは恋愛感情じゃない。同じ感性を持った人へのただの好意。今の私が恋愛って意味で好きなのはアサイン。だから違う」
「……じゃあ、なんで?怒ってるから?」
「裏切りについては怒ってもいるし、悲しいよ。浮気は許せない」
「それについてはこれから何度でも償うっ!」
声音を落ち着けていたはずのアサインの声が切羽詰まったものになった。でも私の思考は澄み渡っていて、気持ちのブレはない。
ソラタがいなくなったことは純粋に寂しい。けれど、アサインとこの後一緒にいられなくなることとの辛さとは違う。彼が私と別れた後に違う女の子と一緒にいることを想像したら、胸がかきむしられるような心地がする。
でも、この結論を出す時にそれは分かっていたことで、その気持ちと苦しさを飲み込んでも私には譲れないものがある。
「浮気は許せない。でも、それについては改善の余地があればいい。長い時間をかければ、私たちに修復できる余地がないわけじゃないと思う」
「ならっ――」
「一昨日、エリィが店に来てあなたとのことをあることないこと色々言ったわ」
縋るように私の腕を掴む彼の手の感触を感じながら、目を瞑り、あの時のことを思い出す。あの時の怒りと苦さを思い出して何度も反芻する。
彼の体温と感触を間近に感じる今、湧き上がる悲しみに負けて泣いてしまわないように。
「その時、私にはどれが嘘でどれが本当か、分からなかったの。境界にあるだろうことについて、嘘だと言い切ることができなかった。いえ、本当かもしれないとすら思ってしまったわ」
アサインの手の力が弱まるのが分かって、私は瞼を開いた。
「私は自分の生きたい道を諦められない。あなたを信じられなくなった私と、浮気の味を知ったあなた。――今回の業者のことがなんとかなったとしても、またきっと何かが原因でこういうことは起こると思う。ご両親の反対もまだ残ったままだわ。その時また私があなたを疲れさせてしまうとも分かっている。その時、また修復するとしたら、どれだけの時間がかかるの?結婚できない私たちに、修復する意味はあるの?私は、あなたの心が戻ってくると信じて待つことはできない。お互いのことを信じられなくなった恋人って、お終いじゃないかな」
アサインが枯れ葉色の瞳を彷徨わせ、地面を睨みつけ、声を震わせた。
「シルフィ……辛い」
「辛いね。でも、私たちは一緒にいるべきじゃないんだと思う」
辛いと言いつつ、引き止める言葉も、何としてでもご両親を説得するとも言えないあなたも、同じことを思っているのでしょう。
「アサイン」
手を伸ばして四年間私を守ってくれた手を握ると、指が絡み、向こうの手から少し強い力が伝わった。その痛みと熱さが名残惜しく感じる。
最後がどうあれ、たった一人で町に来て辛かった時、傍にいて一緒にいて支えてくれたのは彼のこの手なのだ。そのことへの感謝は消えていない。
「二度と会わないとは言わないし言えないけど、今日で恋人の私はお終い。お互いの一番大事なものを大事にして幸せになろう」
アサインは、唇を引き結んで黙ると、私の手を握っていた手の力を徐々に抜いた。
徐に離れた手が、元の位置に戻り、力強く握り絞められた後、その力すらも抜けた。
無言の了承だった。
どれくらい時間が経っただろう。表の街道の方から最終日ならではの賑わいが聞こえて来るようになった頃になっても彼は顔を上げなかった。
「私、もう戻るね」
顔を見ないまま何も言わずに立ち去ってもよかったのだけど、最後にもう一度見ておきたいと思ったあたり、案外未練たらたらなのかもしれない。そうよね、私、もともと執着する方だもの。
「一つ教えて」
手を掴まないままで問いかけられたので、無言で次の言葉を待つと、アサインは枯れ葉色の瞳に月明かりを照らしながら尋ねた。
「俺と付き合ったこと、後悔してる?」
「してないよ。二度目はないけど、二度と思いだしたくもない存在でもない。感謝してる」
そっか、と乾いた声が聞こえ、話が終わったので踵を返す背中にアサインの声が投げられた。
「……業者のこと、あいつ……ラタが上手くやってくれた」
「え?」
アサインは、ソラタの名を呼ぶときだけ苦々しい顔をした。
「あいつ、昨日の深夜に役場に来てさ、いろんなとこ回ってきたから、ここにない食材の購入ルートだとか調理法だとか調理器具が作れるって豪語して、一部の情報を売ってきたんだ。そんで、早朝に相手方と交渉に入った」
露店を回るとき、厨房で練習中、やたら調理器具の使い方やらなにやらを熱心に聞いていたソラタの姿が目に浮かぶ。
「交渉って言っても酷いもんで、王都で開業するときの利権を一部持たせてやるって自信満々に言い放ってきたんだ。喧嘩売ってんのかって感じの言い方で、商談をまとめるっていう体裁すらとってなかったから、エリィを気に入ってたいつものやつは怒ってたけど、祭りを見に来てたその商会の会長があいつの情報と性格を気に入って、そこまで言うならやってみろって。それで向こうに――王都に連れてった」
「それで?」
「あいつがそこと手を結ぶ利権をやる代わりに、ここに変な介入するなって、約束をつけてくれたんだ。それで担当者が変わった」
「――教えてくれたのは、別れたから?」
「いや。シルフィに笑顔を戻したのがあいつだから」
アサインがより顔を顰め、心底忌々しそうにため息をついた。
「文句を言う立場じゃないから黙ってたけど、昨日、たまたま一緒にいるところを見かけたんだよ。俺、シルフィがああいう風に笑ってる顔が好きだったんだ」
『笑ってろ』と偉そうに兄貴面してきた黒髪の男が、昨日までは確かに私の隣にいた。
「――それを奪ったのが俺で、戻したのがあいつだなんて、笑えないけど」
俺なりの恩返し――そう、元恋人は消え入りそうな声で付け加えた。
次話最終話です。