10
店のカウンターで突然椅子を倒して立ちあがったお人形の様な少女の糾弾に店中が凍り付いた。
彼女の、ふっくらとした白い頬は興奮で赤く染まり、長くカールした睫に縁どられた瞳は鋭く尖っている。
しまった。接客中に一番やってはいけない失態だ。
確かに、普段より冷静さを欠いていたから、少々乱暴に皿を置いてしまった気がする。
すぐに濡れたタオルを用意して手渡すと、彼女はふんだくるようにしてそれを手にし、すぐに思い直して、私の手に押し付けた。
「拭いて」
有無を言わせぬ命令口調に従って、床に膝をつき、膝立ち状態で染みの状態を確認する。
なんとかしなきゃ。そのことで頭がいっぱいになっていた。
「信じられない。お気に入りの服なのに」
「すみません」
「ちゃんと謝って。頭下げて」
濡れタオルで染みを叩いてふと目を上げると彼女と目が合った。
少し俯き気味の顔は、厨房側で彼女の足元に跪いた私にしか見えなかったが、私にははっきり見えた。
口角が持ち上げられ、先ほど私を挑発していた時そのままの顔で、彼女は笑っていた。
愉悦に歪んだその笑顔に、まさかと思い、スープ皿に一瞬目を走らせる。
スープは、衝撃が加えられて四方に散った様子はなく、一方に注ぐ方向で赤い跡が残っている。中身もそれほど飛び散っていない。
私が失敗したのか、それとも違うのか、あれだけでは分からない。
いくらなんでも演技で服を汚すなんて、そこまでする理由がない。ないはずだ。きっと。
「手をついて、店中に聞こえるようにちゃんと謝ってよ!これ、お気に入りだったんだから!」
手をついての謝罪は自分の非を全面的に認めて降伏することと同じ。謝ることを忌避するこの国で手をついて頭を下げるのは、よほど酷いことをしたときだけで、少なくとも服を少し汚したくらいでするものではない。これが私の過失による事故だったとしても明らかな過剰要求だ。
「お嬢、私が代わりに謝るから許してやっておくれないかい?」
「そうだよ、エリィちゃん、そろそろ終わりにしてあげなよ。シルフィちゃんだって謝ったじゃないか」
「口出ししないで。大事なものを汚されたのはあたしでしょ?パパに言いつけてもいいんだからね」
女将さんと、見るに見かねた常連さんの一人が止めようとしてくれたのだが、彼女はにべもなくそれを跳ねのけた。
彼女の実家である化粧品店は、大きな商家で、この町で商売するなら、敵に回したくない相手でもある。
彼女の要求だけが私の耳奥でぐあんぐあんと音を立てて反響する。
ここまで執拗に付きまとわれるのはなぜ?
なぜ私は彼女にここまで嫌われているの?一体私がこの子に何をしたっていうの?
もしかしたらこれすらも演技なのかもしれないという可能性に気付いたときから、目の前の愛らしい容姿の少女に対して消せない憎しみが湧いてきた。
私とアサインの間を壊すような行為も、あえて私にそれを匂わせてきたことも、興味があるはずのソラタよりも優先して私に絡んできた理由も、こうして過剰要求される理由も見当がつかない。
どうして、なんで、私のなにもかもを壊そうとするの。奪おうとするの。
胃液が逆流しそうなほど、歯がぎりと音を立てそうなほど、血が沸騰しそうなほど、怒りが湧く。
この子がいなければ、アサインとの仲も穏やかなままだったし、この店も誇りも汚されなかった――もう我慢ならない。
拳を握りしめ、言い返そうと顔を上げたとき、熱くなった頬に微かな風が当たった。
意図せず風の吹いてくる方向に視線をやり、途中でソラタの吸い込まれそうに黒い瞳と目が合った時、彼の、軽い話し方に合わない達観した言葉が頭をよぎった。
『もっと大事なことがあるんだったら、自分が泥くらい被ってなんぼ。謝って相手の気持ちが済むなら謝る。その場をやり過ごして大事なもの守れるんだったら頭を下げる。そうやって優先順位をつけるんだ』
怒りで血が上った頭にわずかな思考力が戻ってくる。黒い瞳が、遠くから「落ち着け」と繰り返し、私の肩を押さえているような気がした。
そうだ、落ち着け、私。一時の怒りに任せて全てを壊すなんて愚策だ。
彼女がアサインに手を出したことは、きっかけに過ぎない。
店の評判もまだ救いがある。私がここで怒鳴り返したら思うつぼだ。失敗しても、理不尽でも、誠意ある対応をしたという実績がつけばいい。ここまで相手が一方的な要求をしている事案だ。一発大逆転も狙える。
私が一番に守りたいものは、自分の誇り?自尊心?――違う。もっと大事なものがある。
「ねぇ――」
「申し訳ありませんでした」
深呼吸を二回してから、跪いたまま床に手をつき、額が床につきそうなほど頭を下げる。
自分の中で荒れ狂う怒りも憎しみも悔しさも全てを飲み込んで、胃の中に落とし込む。辛子を大量に食べた時のように、目の奥にじわりと屈辱の涙が湧き上がって来そうになるのを必死でこらえる。
「お客様のお召し物を汚してしまい、申し訳ございません。私の不手際でした。どうぞ、お怒りをお収めください」
私の最大限の謝罪に店内はしんと静まり返った。
頭は上げない。上げたら、この怒りに染まった顔がばれてしまう。ソラタのようになんでもない顔でへらへら笑うなんてできないし、ましてや反省しきった演技なんてできるわけない。この国では、この謝罪の形を示すことだけで十分だ。
「な。な、なによぉ……」
気弱な声がした。
驚いて少しだけ視線を上げると、エリィが後ろに後ずさり、この世ならざるものを見る目で私を見下ろしているのが見えた。
自分で要求しておいて、謝った方よりも謝られた方が狼狽えるってどういうことよ。
「なんで、なんで……そこまで、できるのよぉ。意味わかんない……。気持ち悪い、だから……これだから、あたし、あんたが大っ嫌い!」
目に涙を浮かべ、言葉を叩き付けてエリィは走り去る。後には床に座り込んだ私と、呆然とするお店のお客さんたちが取り残された。
床にへたり込む私の肩を支えて立ち上がらせてくれたのは、女将さんだった。
頭を撫でながら、うちの店のためにありがとうねと囁いた女将さんは、私を一旦厨房に戻すと、お客さんに向かって苦笑しながら、パンと手を叩いて心なし大きな声で呼びかけた。
「こんな空気にして悪かったね!お詫びに今日はいつもの三割引きだよ!たんと食べとくれ!」
女将さんの日ごろの人柄と並外れた人望のおかげで、あれほど気まずかったあの場も丸く収まり、いつも通りの盛況で夜時間までの営業を終える。
一日の片付けの中で最も面倒な火元の掃除を終え、灰をまとめて灰袋に入れて置き、顔をタオルで拭くとタオルに黒い煤がついた。
「ふぅ……」
店長にも女将さんにも昼の段階で今日はもう下がっていいと言われたのだけど、迷惑でなければ働かせてほしいと私から懇願した。
一人になったら冷静なままでいる自信がなかった。腹の底に眠らせている怒りの火が再燃し、ややもすれば彼女の実家に殴り込みに行ってしまったかもしれない。そんなことをすればあの場で飲み込んだ屈辱が全部水の泡になってしまうと分かっていても、どうにも消火しきれない。
物を食べたら逆流してしまいそうで、昼も夜もあえて抜かしたから、体に力が入らなくて頭がふらふらする。
食欲がわかないのをいいことにこのまま寝てしまおうか。いやでもこんな無茶をしていたら明日一日とてもじゃないけどもたないしなぁ。
「シルフィ」
考えながら煤のついたタオルを絞り、干していると、厨房の手前からソラタがひょっこりと顔を出した。
「前に調理台を貸してくれるって言った約束、有効?」
「うん。厨房はだめだけど」
厨房は料理人の聖地。店長の許可がない限り勝手に使わせることはできない。
大体、厨房は今掃除したばかりだからやめてほしい。
「そんな大掛かりなもんじゃないから大丈夫」
「じゃあこっち」
二階は店長宅になっていて、その一番奥の端っこの部屋が私の部屋、臨時でその向かいがソラタの部屋として割り当てられている。その一つ手前の、それなりのスペースと水場が設けられている部屋にソラタを案内する。
ここが、店長たちの自宅用の調理台であり、私が練習や自分のご飯を作るときにも使用許可が出ている調理台だ。
ソラタは物珍し気に辺りを見回したが、物怖じする様子はなく、自然な手つきで器材を手に取った。
「使い方分かるの?使ったことある?」
「あるのとないのと両方あるけど、まるまる四日厨房見てたらなんとなく分かる。それより、シルフィは今日何も食ってないんだよな。先にこれ食ってて」
皿に乗せられて出てきたのは、赤いソースのかかった白い丸い物体だ。
食欲のわかないまま、ソラタが作ってくれたのだという義務感だけでそれを口に運ぶと、白い物体が舌の上で甘く溶け、その後に果物とは違う甘酸っぱい味が広がった。
白い物体がヤギの乳に砂糖を混ぜて作った冷たい菓子だと言うのは分かるのだけど、上の赤いのはなんなのだろう。甘さはあるが、果物ほどの強い甘味はなく、こってりした菓子の甘さを上品に整え、さっぱりとした風味に仕上げている。
一口で分からずもう一口食べ、舌の上で転がして、分かった。これはトマトだ。
「この赤いの、トマトを甘く煮込んだジャム?」
「大正解。二口で分かったかー。さすが」
「これ、どうしたの?」
「冷暗所と器材は先に店長の方に使う許可もらってさ、さっき時間があるときに作っておいたんだ」
話しながらもソラタの手は止まらない。保存してあった緑色の辛子を洗い、手慣れた仕草で種を取り出すと、見事な包丁さばきであっという間に粉々に砕いていく。包丁で細かくできなかった分は、すり鉢に入れて粉の状態まで持っていく。
次に、ゆずを出して、「搾り汁の残りでポン酢も作っておくとして――白皮は栄養あるけど今は要らねぇんだよなぁ。あ、揚げてチップスにでもするか」などと呟きながら、表面の青い部分だけを剥がしてからすりおろしていく。青い部分なんてなかなか使えないものを一体どうするつもりだろう?
擦りあがったそれを先ほどのすり鉢に戻し、搾り汁を加えて混ぜ合わせるまで、その行程、およそ20分。緑に限りになく近い黄緑色のねっとりしたペーストがそこにあった。
「ほんとはこれ、一週間くらい寝かせてから使う方が旨いんだけど、ちょい味見な」
辛子を使っている時点でお察しなのに、口元にスプーンを差し出され、当たり前のように「ん」とそれを口に入れてこられる自然さと、二人きりの空間で年頃の男が恋人もちの女にこれをやっていることを妙に意識してしまったせいで、警戒を忘れた。
苦みと辛さに舌のわきと奥がじんと痺れ、咳き込む。
「けほっ、なにこれ、辛い」
苦情を籠めて涙目で睨むと、に、とソラタが意地悪っぽく笑った。
「辛いだろ。柚子胡椒って言ってさ。俺の国ではわりと新しめの調味料。いい調味料なんだけど、意外と辛くて、ふいうちで食わされて泣くやつもざらにいる」
言われて気づけば、ぽろぽろと涙をこぼしていた。辛いが、こんなにぼろぼろ泣くほど辛くはない。なのに涙が止まらない。
辛さに刺激されて、目の奥に溜まっていた鬱憤が涙の形で零れていくみたいだ。
「ってわけで、泣いても恥ずかしくねぇから安心しろ。我慢すると鼻の奥に溜まるぞ」
辛いことを念押しし、もう一度それを口に入れられる。今度は覚悟していたから、辛子の辛さとゆずの酸味がすぅーっと口に広がり、鼻の奥に抜けていく感覚を楽しめる。
純粋な辛さだけで言ったらもっと辛い物がいっぱいある。もうそれほど辛いとは思わない。
けれども泣くのはやめられない。
「うっ……辛いわよ。泣くほど辛いわよ。先に言いなさいよ、バカ。辛いからだからね」
「そうそう。辛いからな、思いっきり泣けよ」
先に出された甘い菓子が、空のお腹に辛い物を一気に入れて荒れないようにするためだと気づいたのは、ひたすら泣きじゃくる私の頭にソラタの手が乗って、小さな子をあやすように撫でられたとき。
私の顔が見えない背後にわざわざ回り、なのに背中にそいつの体がくっつくくらい近くで、不器用な手つきで頭を撫でてくるんだから、その気持ちくらいは伝わった。
ほんと、こんなに回りくどいことしてるのに、分かりやすくて、隠すのが下手なのね。
私は、優しくてあったかい手の感触を感じながら、思う存分泣いた。