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時刻は深夜。夕食時の賑わいもとうに過ぎ、子供はとっくに寝ている頃合い。自分が働く定食屋の裏にごみを捨てに出たところで、私は、夜空を見上げて、目の奥に感じるじんとした痛みをなんとかやり過ごせないか考えていた。
が、考えれば考えるほど目の奥の痛みは増し、視界がぼやけてくる。
あぁ、どうしてかな。
料理人という立場から、無駄を出さないことをモットーにしているけれど、それでもどうしても出てしまった最低限の廃棄物を素早く小さな木箱に詰め、蓋を閉めると、そのままその上に座り込んで顔を覆う。
「うっ、うぅ……」
町の四年に一度のお祭りの一日目の今日、私が料理人弟子として働く定食屋は、平常営業と祭用の露店の双方を切り盛りすることになっていた。そのせいで、朝から目が回るような、が比喩にならないくらいの忙しさだった。
野菜やら肉やら魚やらと時に争い、時に心通わせ、使い方を間違えればあっさりと指を切り落としてしまうほど切れ味鋭い包丁と、室内にいるというのに頬が焼けそうになるくらい熱いオーブンと丸一日こってりとお付き合いして全ての注文を捌き終えた今。
一日の癒しである酒と夜食でしっぽりと会話にふけ込む常連さんたちの対応を店長に任せて片付けと明日の準備をし始めたところで、私の涙腺はついに限界を迎えたらしい。
「どうして……?」
瞼の裏に浮かぶのは、枯れ葉色の目を細めて笑う同じ年の男の子――アサインだ。
彼と出会ったのは、もう八年ほど前になる十歳の時。
私がこの町にやって来て、物売りの呼び子をしていたとき、初めて話しかけてくれた男の子だった。
大きな町に慣れない私に、彼は、色々なことを教えてくれた。
行商団から町の孤児院に引き取られた時、顔を出してくれて、なにくれとなく世話を焼いてくれた。
町に溶け込めない私を友達として迎えてくれた。
親もなく連れ合いの行商団の端っこで煮焚き係をしてきたせいで、普通なら読み書きができるはずの歳に簡単な文字すら書けなかった私を馬鹿にする周りの子供たちを諫めてくれた。
一から丁寧に読み書きを教えてくれた。
今働いている定食屋に弟子入りしたときだって、心から祝ってくれた。
町長の息子である彼は子供たちの中心的存在で、彼が受け入れてくれたことは、町の子供たちに、その親に、ひいては町に私が受け入れられたのと同じだった。
優しく、大事にしてくれた彼に、思春期に入った私はあっけなく恋に落ちた。
彼を見るたびに胸の奥がきゅうと痛み、彼が顔を見せに来てくれた日は一日幸せだった。彼の望むことはなんでも叶えたいと思ったし、彼に美味しいものを食べてもらいたいという一心で料理の修行にも励んだ。
恋も愛も、行商団のおばさんたちの物語の中でしか知らないものだったから、この気持ちが恋だと教えてもらったときは自分にこんな感情があったのか、と驚きと幸せでうきうきした。
そんな私のそのそわそわした空気は彼に伝わっていた。
様子を気にされ、なにかあったのかと問われ、苛められているのかと心配され、とうとう私は自分の想いを告白した。十四歳の春だった。
好き、の気持ちに、彼は、俺も好きだよとの言葉を返してくれた。
私たちの関係は、その時から前より少し親密になった。
一緒にいる時間が増え、手を繋いだり、ときに将来を語らったり、口づけだってしたのだ。
そこから四年、こうして幸せな時間を過ごしてきた。
付き合おうの言葉はなかったけれど、私と彼は、恋人、なのだと思う。
「なのにどうして……?どうしてエリィといたの?」
今日は町のお祭りの日だったが、彼は出かける誘いをくれなかった。
それは、祭りの日は決まって定食屋の仕事が忙しく、私と一緒に過ごせないことを分かっているからだと思っていた。だからこれまで祭の日に一緒に過ごせたことは稀で、特段不思議にも思わなかった。
地味だが、実力派として知られていた私の勤める定食屋は、もうすっかり町の看板店だ。年々売上を増し、それに比例して、忙しさも増していった。特に祭りの日は目が回る、じゃ足りないほどの客入りになってきていた。
今回だって、あの謙虚を人の形にしたような店長が捕らぬ狸の皮算用までして、予め売り上げを大きく見積もり、食材を多めに仕入れていた。それでも、昼食時の段階で夜の分を半分まで使ってしまう、そんな繁盛具合なのだ。
私は、一料理人として嬉しい悲鳴をあげつつ、浮足立って急遽、肉の仕入れに向かった。
店から町の反対方面にある肉屋まで、足早に向かうその途中だった。
見てしまったのだ。
アサインと、町で可愛いと評判のエリィが腕を組んで歩いていく楽しげな姿を。
見間違いかと疑い、目を何度も擦って確認しても、その姿は変わらない。腕を組み、密着して、たまたま買い物に付き合わされた、じゃあ説明のつかない親密さで歩いていく二人の後ろ姿を、私はただ茫然と見送った。
思い返せば、きっかけは、この数カ月前結婚という言葉を口にしたときだったかもしれない。
私も十八歳だ。そういうことを考えてもおかしくない。このあたりで十八歳と言えば、結婚を焦る歳ではないけれど、適齢期ではある。
だから、今すぐじゃなくてもいい。あと数年経ったらそういう未来になるのかな、と思ってなにげなく口にした。
それなのに、結婚の言葉を聞いた彼は、少し顔を強張らせて、「俺はまだそんな歳じゃないから」と言い、その日、初めて手を繋がなかった。
気付けばここ最近、彼の笑顔を見る時間が短くなっている。
もしかしたら、と考えるだけで、胸が潰されるような痛みが走った。
それだけでも私には十分すぎる衝撃だったのに、それだけで終わらなかったのだから、余計に辛い。
店に帰って、意識を奮い立たせなければぼんやりと宙に彷徨う視線を無理矢理引き戻し、仕込みに忙しくなろうとしていたその矢先のこと。
「シルフィ、いますか?」
彼の声だ。長年の聞いてきた柔和な声に、背中が無意識に反応する。
「シルフィ、客だ」
知ってる、言われなくても分かってる。
無口でぶっきらぼうだけど、それでいて人のいい店長は、私がなかなかオーブンの前から立ち上がらなかったからだろう、私の心の内を知らずに声をかけてくれる。
ここまで来たら身体だけでもそちらを向かざるを得ない。
私は、彼と目を合わさないように全体を捉えるように目を向けた。
「シルフィ?どうした?体調でも悪い?」
彼は、慣れた様子でカウンターのところから焼いた芋のような濃紫がかった髪を覗かせ、こちらに優しげな声をかけて来る。
ううん、と首だけ振ると、「そっか、疲れてるのかな。また来るから、体調に気を付けてね」といつものような優しい声をかけてくれて、そして一品持ち帰り用の包みパイを注文して帰っていった。
全く変わらない声音。全く変わらない態度。
やはり人違いだったのかもしれない。そうであってほしいと願った。
でも違ったのだ。
「こんにちはぁ」
外の出店ではなく店内にまで入ったことを知らせるドアベルと一緒に、砂糖が多すぎるケーキのような声が聞こえた。
可愛らしいが、甘ったるい、喉に貼りつく失敗作のような声に背筋に緊張が走る。
元々苦手なの女の子だったのに、ついさきほどのことを思い出すと余計に耳が拒絶反応を示している。
「わぁ、働いてるぅ。せっかくのお祭りなのに、大変ねー」
アサインとほんの時間差でやってきたエリィは、何をするでもなく厨房を眺め、私に視線を向ける。
私を嫌っているエリィは、この店に立ち寄ることはほとんどない。だから安心していたのに、エリィはわざわざ今日、この時間にここにやってきて、逸らしていた私の目と正面から見つめ合えるように立ち位置を変え、にこりと笑った。
「お仕事、頑張ってねぇ?」
実家の化粧品店の商品をふんだんに使っていると分かるぷるぷるの唇に指をあて、愛らしく見えると分かっている絶妙な角度で小首を傾げた後、エリィは何を注文するでもなくそのまま店を出ていく。
私の一日の気力を全部削ぎ取られた瞬間だった。
走馬灯のようにこれまでの生活が頭を駆け巡る。
四年間、彼だけを見てきて、彼以外の存在を意識することはなかった。彼は私の生活の中心だった。彼がいなくなるなんてありえない。考えられない。彼と一緒にいられなくなると考えただけで体の中心に黒いぽっかりとした大きな穴が空いている。
昔から一度決めたことは例え嵐になろうが雷が鳴ろうがやり抜きとおしたし、気に入ったものに対する想いはどんなに時間が経っても変わらない性格だった。
だからかな、彼の想いを疑うことができない。先ほどのことだって、何か事情があったんじゃないかと思ってしまう。
「シルフィ、ちょっと来てくれ」
外のゴミ箱に腰掛け、泣いていたのはどれくらいだったのか。店長の呼び声で中に戻ろうと顔を上げたときには、周りの通りには人の気配がなかった。
瞼も腫れているだろうけど、顔を洗う時間はないもんな。
あまり顔を合わせないようにしていこう。
立ち上がってお尻についた埃を払い、明るい店内に戻って、しょぼついた瞼のまま一瞬見えなくなる視界を明かりに慣らす。
目を慣らした後、そこに見えたのは、困り顔の店長と、ここらでは見かけない、黒い男だった。