九州飛行機物語 ---海軍十八試局地戦闘機「震電」秘話---
WW2戦争末期 米国ボーイング社の作った爆撃機「B-29」の投下した爆弾で日本各地の都市の
被害が増えていた。
陸海軍の戦闘機部隊は連日 迎撃に飛び上がっていたがB-29の防御は硬く、撃墜は困難で
あった。
日本海軍がB-29に対する切り札として開発し、九州飛行機が製造した戦闘機が海軍十八試
局地戦闘機「震電」である。
通常の戦闘機はプロペラが前にあるので主要機関銃は両翼に配置している。
150mから200m程度の距離で左右の機関銃の弾が交差して打撃を与えるように
設定され、設定距離より近くても遠くても弾は当たらないのである。
「震電」はプロペラと主翼が後方にあり、30mm機銃4本を胴体前方に設置、
弾丸は交差せず真直ぐ飛ぶので命中率が高くなりB-29を迎撃できると期待された。
エンジンをジェットに換装すると高速性能も上がる可能性も未来の構想に繋がり
夢は大きくなる。現在 日本の飛行機マニアに好きな飛行機のアンケートをとると
毎回 上位に来るのも夢がもてるからである。
WW2当事の日本の航空機製造メーカーは海軍戦闘機「零戦」を作った三菱、
陸軍戦闘機「隼」を作った中島が主である。
川崎・愛知などが次のレベルの航空機製造会社と見なされていた。
九州飛行機の社長 渡邊福雄は空への憧れを実現するため試行錯誤を重ねていた。
航空機用車輪など部品の製造から初め、複葉練習機の製作を陸海軍から委託される
レベルに到達した。
技術を認めた陸海軍は偵察機などの発注も行うようになった。
航空機製造メーカーとして注目を集めるのは敵の飛行機を落とし、味方の飛行機や
基地、艦船を護衛できる戦闘機を作ることである。
練習機や偵察機を多く作っていても補助レベルの航空機製造会社と見る目が大半である。
現実に「零式三座水偵」の9割は九州飛行機が製造したが機体を設計した「愛知」が作ったと
考える人が多く、九州飛行機の名前は探さないと出てこない。
渡邊社長は 早朝 徒歩で自宅出て途中にある竜神池を廻り九州兵器工場に向う
散歩コースを健康の為 日課としていた。
航空機の生産を上げるためには的確な判断が要求される。始業時間前にウォーミング
アップを済ませ、工場に入ると全力で動ける為である。
冬のある日「やはり戦闘機が作れないと一流の飛行機工場とは言えないな!、九州で
戦闘機を造りたいものだ」と 考えながら歩いていた。
池でバタバタと羽音がするのに気付く、近寄ると一羽の鶴が釣り糸に絡まってもがいていた。
渡邊社長は急いでかけより、糸を外して鶴を助けた。
鶴は渡邊社長の上を数回旋回すると羽を広げて北の方向に飛んで行った。
「航空機を作るものが鳥を助けるとは空の縁かな?」つぶやきながら工場に向かった。
多忙な社長業務をこなし、昼に海軍の航空機研究所である海軍航空技術廠(通称:空技廠)から
電報が届き、新機種研究担当の鶴野正敬大尉が来社すること告げた。
翌朝 にこやかな笑みを浮かべた海軍の鶴野大尉は渡邊社長の九州飛行機に
十八試作局地戦闘機、海軍が18番目に作る、陸上戦闘機の試作もとめたのである。
九州飛行機の技術を評価して念願の新戦闘機開発を求めたことに感謝し渡邊社長は全社を
あげて製作することを誓うのであった。
試作が成功すれば大量発注があり九州飛行機が一流の飛行機製作所と認識され、B-29の
脅威が減る。当然 会社には莫大な資金が流入し懐が暖かくなるのである。
鶴野大尉は新型機製作を急ぐため 九州飛行機の設計室の外れにある個室に泊り込んで作業をすることになった。そして軍の機密なので作業中は個室に誰も入らないことを求めた。
鶴野大尉が徹夜で書いたラフ設計図をもって個室から出てくると、九州飛行機の設計チームが
強度計算と詳細設計図に仕上げる作業になる。
製図が終わると製作工程担当が部品ごとの製作や必要数の材料の発注を行う流れ作業である。
ラフ設計図を持って設計室から出てくる鶴野大尉の姿はしだいに疲れが溜まっているように
見えた。
渡邊社長は「少し休んではいかがですか?」と声をかけた。
鶴野大尉は「戦局がゆるしてくれません」少し微笑み、個室のドアを閉めた。
鶴野大尉が倒れたら新型戦闘機開発は頓挫する。危険回避には彼に適切な休養が不可欠であった。
それを言えるのは渡邊社長だけで、同様に徹夜が続く設計チームは黙って作業を重ねるだけだ。
絶対に入ってはいけないと言われているが鶴野の様子が気になって仕方ないのである。
渡邊社長はドアの前で迷ったが約束を思い出し離れるしかなかった。
昭和20年(1945)6月 試作機が完成 「震電」と命名され、蓆田飛行場
(現在の福岡国際空港)で試験飛行が行われた。
鶴が首を伸ばして両翼を大きく広げた姿に似た新型戦闘機が優雅に旋回している。
以前に竜神池で助けた鶴が旋回する姿に酷似した新型戦闘機の姿を見上げながら渡邊社長は
涙を流していた。
試験飛行が無事成功したのは幸いにも助けたのが雄鶴であったからであろう。
渡邊社長に男の部屋を覗く趣味はなかった。
「零戦」を設計した堀越二郎を描いたアニメ「風立ちぬ」を見て
「震電」を設計した鶴野正敬を書いてみたくなりました。
「震電」は試験飛行後、終戦になり、進駐した米軍に接収され
スミソニアン博物館の倉庫で今も眠っているようです。