島津憲久による 瑠莉さんと僕
――君はきっと、覚えていないのだ。
当時、田舎から上京したばかりの僕は、
この地の人の多さにも、歩く速さにも、
話す早さにも戸惑うばかりで、
随分と鈍臭かったのではないかと思う。
大学入学間もない頃のことだ。
僕は教科書を購入するために出向いた生協で、
人と、金と、教科書で揉みくちゃにされて、
定期を落としたのだった。
「あの」
肩を叩かれて、眼鏡がズレたまま振り返ってみれば、
大きな二重の目と、長いストレートの黒髪が印象的な女の子が立っていた。
「落としましたよ」
彼女はそう言ってにこりと笑うと、僕に定期を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
そう言って受け取ろうとするにも、
僕の両手は大量の教科書で塞がったままで、
背中のデイパックに突っ込んでもらおうにも、人が多く身動きが取れなかった。
「瑠莉。何やってるの?」
「ん?ちょっと。先に行ってて。後から追いつく」
彼女は、少し先に進んでいた友人たちにそう言うと、
「こっち」と人をかき分け、
僕を荷物置き場になっているテーブルまで先導してくれた。
そして、僕がそのテーブルに教科書を置くのを待って、
「はい」と定期を渡してくれたのだ。
「ありがとうございます。助かりました」
僕が頭を下げると、彼女はくす、と笑って言った。
「気にしないで。
それだけ大きいと、視界が開けていて便利そうだけど、
自分の手足のコントロールには、不自由しちゃうのかしら」
僕は、ひょろりと背が高く、手足が長い。
「さて。私も買い出しに行かなくちゃ。じゃあ」
彼女はそう言って軽く手を上げると、
何も言えずにいる僕を残して、人混みの中に紛れて行った。
* * *
名前を聞きそびれた――るり、と呼ばれていたけれど。
そう後悔したが、そんな後悔は無用だった。
「桜井瑠莉」の名は、学生の間に、あっという間に知れ渡った。
僕の耳にも入るほどに。
彼女は、ある意味有名人であった。
いわゆる付属から上がってきたお嬢様で、人目を引く美人。
同じように目立つ男女に囲まれ、いつもその中心にいた。
彼女を女王様と揶揄する向きもあったが、
彼女自身が女王のように振舞っていたわけでは決してない。
女王は、気安く下々の者の定期を拾ったりしない。
ただ周囲をそんな風に従わせてしまう魅力が、
彼女には備わっているというだけのことだ。
僕は、ただ、そんな彼女を遠くから、時々眺めるだけで――
大教室で行われる一般教養の講義が、
偶然にも彼女と同じであることを除いて、僕たちの接点は全くなかった。
教養を身につけるため、と課せられる一般教養の科目は、
正直なところ、興味を甚くそそられるというものではない。
大教室という設定も、それに拍車をかける。
僕だって、そんなに真面目な学生ではなかったし、
ぼんやりしたり、こっそりお気に入りの小説を読んだりすることだってあった。
――だから。
何で、自分がそんなに腹を立てたのか、わからなかったのだ、その時は。
「君たち、煩いです。
真面目に講義を聞く気がないなら、もっと後ろの、もっと隅で、
他人を巻き込まない場所で生息して下さい」
気付いたら、たまたま僕の近くに陣取っていた、
桜井瑠莉を含む集団に、そう言い放っていた。
小声でおしゃべりをしていた彼女たちは、
さっとこちらを振り向いて、露骨に嫌そうな顔をした。
彼女も、目を見開いてこちらを見たのがわかったが、
僕は、その視線を受け止める勇気がなくて、
大教室の底にいる教授に、意識を集中した。
いや、しているふりをした。
反発を覚えるのは、それが自分には縁がないもの、
手に入らないものだからだ――
後からそう思い至って、僕は自己嫌悪に陥った。
彼女とはこれで終わり、だ。
もとより、何ひとつ始まってなどいなかったけれど。
ところが。
翌週のその講義。
遅れてやってきた彼女たちは、
やけに挑戦的な雰囲気で、僕の前の席に陣取った。
……席を、変えてみようか。
僕は、その次の週、いつも座る席とは反対側の場所に座った。
そしてまた、先週と同じことが繰り返された。
その後暫く、僕は席を転々と変え、
彼女たちがその後を追うという、
傍から見れば面白い追いかけっこが続いた。
「……何やってんだ、お前」
友人から言われて、
この「追いかけっこ」が噂になっているということを、僕は知った。
そういう注目を浴びるのは、得意ではない。
仕方がない。
来年、もう一度履修し直すか……
僕は、仕掛けられた追いかけっこから、逃げ出すことにしたのだ。
「逃げるつもりっ!」
だから現れるはずのない君が、突然僕の前に立ち塞がり、
そう言って詰め寄ってきた時には、
正直、どう答えていいものか迷ったんだよ。
そうだ、逃げたんだ、と言うべき?
だけど、そんな格好悪いことは言えなくて。
「その労力を講義に向けた方が、よっぽど建設的です。
君は僕に何を求めているんですか?」
そう言うしかなかったんだ。
放っておいてくれないかな。
僕は、君の取り巻きじゃないんだから。
手に入らないならば、目の触れない所に。
僕の心を、騒がせない所で。
すると君は、首を傾げて僕の目を覗き込んだんだ。
「私、何をしているのかしら?」
僕の心をかき乱しているんだよ――
「それを、僕に聞くんですか?」
苦笑する僕の顔を、じっと眺めていた君は、
突然、腑に落ちたとでもいうような表情を浮かべて、
僕の方へ一歩踏み出した。
「ううん。聞きたいのはそんなことじゃなかった。
あなた、名前は?」
「……は?」
「ああ、そうね。名前を聞くときは、自分が名乗らないと。
私は、桜井瑠莉」
もちろん、知っているとも。
「あなたの名前は?」
「……僕は、島津憲久」
二か月近い追いかけっこの末、僕たちはようやく自己紹介をしたのだ。
そして、桜井瑠莉は、満面の笑みを浮かべ、僕に手を差し出した。
「よろしく。で、あの講義にちゃんと出て」
「……」
僕は、差し出された手の意味が分からず、
彼女の前にぼんやり立ち尽くした。
そんな僕に焦れたように、もう一歩踏み出した彼女は、
こう言ったのだ。
「まずは、お友達から。ね?」
そして、僕の手を取った――
* * *
――ねえ、瑠莉さん。
「島津君は、いつになったら私に
『付き合って』って言ってくれるつもりなの?」
そう、僕を見上げた時にも。
「何にも言ってくれないからわからない。
私は、島津君が好きだから一緒にいるのに。
島津君は、私をどう思っているの?」
僕の前で俯いた時にも。
君はいつだって、僕に真直ぐな想いをぶつけてくるから、
僕は、僕が君のそんな想いに相応しいのか、いつだって不安だったんだよ。
君に相応しくあろうと、
大学院へ残らず、企業に就職しようとした僕を
「何で、そんなこと考えるのっ?
そんなのぜんっぜん、嬉しくないっ!
男なら自分のやりたいこと、ちゃんと貫きなさいよっ!」
そう言って、怒った時にも。
次々と君に持ち込まれるお見合い話に――
その相手の経歴に敵うわけもなく、君の手を放そうとした僕を
「バカ憲久っ!
戦えっ!私と一緒に戦えっ!
そこで引くなっ!
そんなの、優しさじゃないっ!」
そう責めて、泣いた時にも。
僕はいつだって、強く願っていた。
君の、僕に寄せてくれる想いに相応しくありたいと。
――ねえ、瑠莉さん。
君は今、幸せだろうか。
僕にそっくりの、少し風変りな息子と、
君にそっくりな、快活な娘。
あの時、その手を放していたら存在しなかった幸福な未来に、
今、僕は立っている。
* * *
両手いっぱいの荷物を抱えた僕の腕に、
するり、と君の腕が巻き付いて、暖かな身体が押し付けられた。
くすくすという笑い声と共に、
名刺入れが、僕の前で上下に振られる。
「あなた、こんな歳になっても変わらないのね。
荷物がいっぱいで、落としたわよ」
それから僕の前に立ち、少し爪先立って
僕の栗色の髪をすっと掻き上げ、
メガネの位置を修正した。
「こんなに優秀な頭脳なのに、その無駄に長い手足は
上手くコントロールできないままなのね」
首を傾げて、僕の目を覗き込む。
「緑と茶色が混じった、綺麗な色よね。
初めて会った時にも、そう思ったけど」
「……瑠莉さん、覚えていたんですか?」
あの定期を拾ってくれた時のことを?
荷物を抱えたまま、僕は立ち尽くした。
「そりゃ、覚えているわよ。
あなた、目立つ人だもの。
背が高くて、栗色の髪に、榛色の瞳」
僕の父方の祖母は、ドイツ人なのだ。
「それなのに、『島津憲久』って」
ぷぷぷ、と瑠莉さんは笑う。
「バリバリの日本名を名乗られた時には、
膝がかくんと折れそうだったわよ。
憲久さんこそ、覚えていたの?
私はてっきり忘れ去られているかと思ってた」
だってあなた、霞でも食べているような雰囲気だったし、
その後も、結構冷たくあしらわれたし――
そう言って君は身体を翻す。
僕は、両手の荷物を取り敢えずその場に置くと、
急いで君を追いかけ、抱きしめた。
「ちゃんと、手足のコントロールは出来ているよ、こんな風に。
落し物をするのは、物が勝手に落ちていくだけだ」
「定期も、名刺入れも『心外だ』って怒ってるんじゃない?」
ふっふっふ、と笑う君の頬に口づけると、
優しい、幸福の香りがした。
――ねえ、瑠莉さん。
僕は、君の想いに相応しくあるだろうか。
そうありたいと願い続けて、僕は前を向き歩き続けているんだ。