経験者は語る
「顔色良くないね。調子悪い?」
「……食べ過ぎたのかな、胃がもたれて」
「食べ過ぎ?何でまた」
「千速に電話した後にも色々あったのよ。で、気持ちを堕とさないために、食べたの」
ミネラルウォーターで、胃薬を飲みこむ。
ぷ、と千速が噴出した。
「食べたって……」
週明けの月曜日、秘書課のミーティング前である。
「後で、そうね、ランチの時にでも話す」
それから、ぱんぱんと頬を両手で叩いて気合を入れた。
「呑み込まれないようにしないと」
何に?というように千速が首をかしげた。
私は、自分に言い聞かせるように口にする。
「最初が肝心。踏み込ませない、その件に触れさせない。
無かったことに出来ないなら、あったことを思い出させない」
それから、千速のほうを振り向いて爪を立てる真似をして見せた。
「ちゃんと、爪は研いできたのよ」
* * *
「……何だか、えらく疲れた」
社員食堂の隅のほうの席にランチのトレーを置くと、
千速が首をコキコキさせながら呟いた。
「あの部屋の空気、チクチクしていた」
「そうだったかしら?」
朝のミーティングが終わって、常務室に戻ってから、
私は頑なに「いつもの」ペースを崩さなかった。
「いつもの」月曜と同じルーチンをこなし、
同じように「いつもの」ルーチンをこなす桜井に対した。
表面上「いつもの」常務室であったが、
確かに、漂う空気はピンと張りつめたものだった。
千速の肌をチクチク刺すほどには。
「で?何があったって?」
向かいの席に着いた私に、千速は片眉を上げて尋ねた。
「そうね、柄にもないことをすると後悔するって思い知った週末だったわ。
逃げようとするなんて。
私はどこまでも立ち向かうファイターだっていうのに」
胸の前で拳をぐっと握りしめた私に、千速は首をかしげ、
「よくわからないんだけど?」
と言いながら、エビフライに箸を伸ばした。
「つまりだな。
常務のことを考えるのが億劫になっちゃっていた時に、
三代目から電話が来たの。
美味いもの食わせてやるって言われて、
考えること放棄してのこのこ出かけていったわけ。
後回しの口実に飛びついたってとこね」
そして私は、土曜日、稔に呼び出された顛末を語った。
「で、最後に、これはデートだって言われて」
「うん。それはデートでしょう」
「いや、そこは違うって言ってほしかったんだけど」
私は目の前のうどんを箸で弄んだ。
「常務だけじゃなくて、三代目の方も何だか色々と面倒な展開になっているわけ」
千速は、付け合せのポテトサラダを口に運んだ後、
少し躊躇ってからこう言った。
「……まあ、金曜日にあったっていう常務の所信表明は、ある程度想定内だったけど」
「はい?」
「だって、同じだったんだもの」
「何と?」
「実里は、面白そうに笑ってたわよ、私のこと」
千速は記憶を辿るように、空に視線を飛ばした。
「瑞穂がやたら不機嫌で、荒れていた時。
原因は何なのかしらねーって私が言ったら、
『瑞穂が憐れだ』って実里は笑ってた」
それから少し身を乗り出し、口元を歪めて付け足した。
「『常務が憐れだ』と私もちょっと思った」
私は目の前のうどんを睨んだ。
食べないと気持ちを堕としてしまいそうだし、食べたらもたれそうだし、
迷った末選んだうどんだが、やっぱりヨーグルトぐらいにしておけばよかっただろうか。
一旦手にしていた箸をトレーに戻して、私はため息をついた。
「私と常務の場合は、アンタ達とは違う。
常務のお決まりのパターンで、二、三回プライベートにお付き合いさせられた挙句、
やっぱやーめた、って放り出されたらたまりません」
「でも常務の今までの相手は、誰かに半ば押し付けられた相手だった。
今回は、実里の場合は、違う。
常務が本気だって、実里だってわかっているでしょう?
いい加減、その辺の状況を認めなさいよ。
そもそも、実里だって常務のこと……」
「認めてどうするの?」
私は千速をじっと見つめた。
『先が見えないのと、先がないのとは違う』と明里は言っていた。
全くその通りだと思う。
「実里は、どうしたいの?」
千速は柔らかく微笑んで言った。
「関心がなければ、実里は最初から歯牙にもかけない。
例の三代目にしたって、学生当時はそういう扱いだったわけでしょ?
でも、常務は違う。
実里は最初から、一生懸命線引きしようと頑張っていた。
それは裏返せば、関心があったってことじゃないの?
惹かれそうな気持ちを引き止めるために、
一生懸命距離を置こうとしていたんじゃないの?
粗を探そうとしていたんじゃないの?」
千速は、こういった人間観察に基づく情報分析を得意としている。
営業部に在籍していた時には、その能力を遺憾なく発揮して、
抜群の営業成績をおさめていたようだ。
あの薄茶の大きな猫目は、自分に関することにはやたら鈍感なくせに、
周囲の心の機微を見逃したりしない。
こうやって私が自分でも気づかなかったことや――気付きたくないことを
白日の下に引っ張り出してしまう。
「……そういうのは、見て見ぬふりするものよ」
「だから、今まで何にも言わなかったじゃない。
でも実里は今、そのやり方が突然通用しなくなって困ってるんでしょ?」
そうだ。私が引いた線を、
こんな風に傍若無人に無視して踏み込んでくるヤツがいるとは。
しかも、二人も。
「私が聞いている実里の事情とか考えると、
無意識に自分をセーブしていたんじゃない?
自分が引き返せないほど、どっぷり好きにならないように。
深入りしないで済む、感情がコントロールできる程度の人としか
付き合ってこなかった、とか」
同じ様なことを、桜井にも指摘されたのだっけ。
自分が揺らがないような、続けるつもりがないような付き合いしかしていないと。
私は、苦笑した。
――多分、その通りなのだろう。
「でも、そういった理性がブレーキにならないこともあるんじゃない?
あんな俺様、瑞穂様に何でって思ったけど、私だって引き返せなかった。
止まれない時ってあるのよ。
そういう時は、自分の気持ちに引きずられるしかないの。
ファイター実里としては、せめてこう思うことよ。
『私がそうなることを選んだ』って」
千速は励ましているんだか、慰めているんだかわからないようなセリフを言って
今度はにんまり笑った。
「私は、爪を立てることを放棄したわけじゃないからね」
その顔をむんと睨むと、私は「食べること」は放棄して椅子に寄り掛かった。