三代目の嘆息
「……ふゎい」
「寝坊助だな、市松」
発信者をきちんと確認しないまま、スマートフォンを操作した実里は、
耳慣れない声に寝返りをうち、枕元の目覚まし時計を確認した。
午前九時ちょい過ぎ。
「……ただ今睡眠時間を消化中につき、後ほどおかけ直し下さい……」
そう呟いて通話を切ると、布団にもぐりこんだ。
再び、呼び出し音が鳴る。
一、二、三……十まで数えて、鳴り続けるスマートフォンを出ることなく切った。
私の安眠を妨げるとは、稔のくせに生意気な。
しかし三度、呼び出し音が鳴り始めた。
七までカウントして観念して、実里はコールに応えた。
そうだった。「新生」稔は、そんなに簡単に諦めるようなヤツじゃなかったのだった。
「……くだらない用事だったら許さないわよ、稔」
「出て来いよ、市松。美味い物食わせてやる」
あふ、と欠伸をしながら実里は尋ねた。
「……今日は無理って断ったら、どうなるのかしら」
「そうだな、明日同じくらいの時間に、またスマートフォンが鳴るんじゃないか。
俺は暇だし」
電話の向こうで、くすくす笑いながら、山科が言った。
「……私、舌が肥えてるのよ。
ただ単に高いだけのものを、無闇に美味しいなんて言わないわよ」
天井を睨みながら、実里は唸った。
目が覚めてしまった。
むっくりと起き上がると、カーテンを少し寄せ、十二月の弱々しい日差しを確認した。
「この寒い中呼び出されるんだから、かなり期待するわよ」
「気にいると思うよ」
「……普段着で行くから」
「もちろん」
* * *
――そういうわけで、今、実里は指定された浅草駅にいる。
焦茶色のショートダウンのコートに、ジーンズ、
足元も焦茶色のロングブーツでばっちり防寒だ。
ピンクのマフラーに鼻先まで埋めて、稔の突然の誘いに、
大して抵抗せずにのこのこやってきた理由を、考えないように努めていた。
美味しいものが何なのか、気になったのよ。
凄く自信満々だったから。
それから、久々に旧交を温めようと思ったの。
えらい変貌を遂げた理由とか知りたいじゃない。
――別に、昨日の桜井とのやりとりを、
きちんと考える事から逃げているわけじゃないし、
考える事を放棄しているわけでもない。
少し時間を置いて、もっと冷静に考えたいだけよ。
上手いかわし方とか、トラ猫らしい爪の立て方とか。
出来れば無かったことにする方法とか。
――無理だろうけど。
落とした視線の先で、黒いブーツが立ち止った。
視線を上げると、ジーンズに黒いダウンを着た山科だ。
「呼び出したくせに待たせるとは、稔のくせに百万年早い」
実里がブツブツ言うと、山科はにっこり笑って言った。
「市松が早く着きすぎただけだろう?時間ピッタリだよ。
その減らず口、別の方法で閉じさせてあげようか」
実里は肩を竦めて、
「はいはい、美味しい物でいっぱいにさせてくれるわけね」
とあっさりあしらうと、歩き始めた山科に並んだ。
「それにしても、そんな格好をしていると大学生でも通りそうだな。
この間の着物姿は、さすが『市松』と呼ばれるだけの事はあったけど」
「ふっふっふ。実里様の実力の程、思い知ったか」
「いやそれ何の実力だよ」
「……女としての?」
「何で疑問形なんだよ」
「そこは、あえて突っ込まないところでしょう、普通」
学生時代を髣髴とさせるやりとりをくすくす笑いながら交わし、
実里は山科と肩を並べながら歩く。
苦手ではあったけれど、仲が悪かったわけではない。
「稔は、学生には見えない。学生の頃と同じ格好をしてるけど、学生には見えない」
「……それは、褒め言葉なのかな」
山科からの視線を感じて、実里はちらりと横に立つ男の顔を見上げた。
「数年後には、私の方がデキる社会人になっている予定だったんだけど。
社会に揉まれて、経験を積んだ男のニオイがするよ、稔。何があった」
桜井を初め、日頃、人の上に立つ者達と接する機会の多い実里である。
そういった者独特の雰囲気には、敏感なのだ。
その他大勢の中に紛れていても、決して埋もれてしまわない迫力というか――
久々に会った山科は、既にそういった雰囲気が漂い始めていた。
くくく、と笑いながら、山科は言った。
「実力で凌駕されることは無くなった、ということかな」
あう。覚えていたわけね。
つんと澄まして、実里は訂正した。
「鎬を削ってるってことでいいかしら?」
「……確かに、口ではなかなか勝てそうにない」
雷門をくぐり、浅草寺前の仲見世通りを突っ切って、立ち並ぶ有名店の前を通り過ぎる。
山科は「こっち」と細い路地に進む。
実里たちの前を、作業着を着た男たちがのんびり歩いていた。
その集団が、ぞろぞろと古ぼけた一軒の店の中へ吸い込まれていく。
大きな看板が出ているわけではなく、小さなスタンドが立っているだけだ。
『大衆食堂 日の出屋』
入り口は自動ドアでさえなく、ガラスの引き戸だ。
「ここ」
山科が看板を指差す。
これはいわゆる「定食屋」じゃないの。
しかも、女子だけで入るにはハードルが高いタイプのっ!
実里は、目を輝かせた。
「お前、本当変わってるな。
普通、こういう所連れて来られたら、ムッとしたりするんじゃないのか」
「……美味しくないわけ?」
「いや、美味いんだけど」
山科は可笑しそうに言い、中に入っていった。
「いらっしゃいっ」と声が掛かる。
四人掛けのテーブルが三つ、二人掛けのテーブルが二つ、
あとはカウンター席だけ、という店内は、既にテーブル席がいっぱいだった。
店内も、予想を裏切らない古めかしさだ。
「レトロ」というには、ちょっと趣を異にする。
カウンター席に案内されると、山科が身を寄せて囁いた。
「個別のメニュー無いから。壁に掛かってるの見て」
「何がお勧め?」
「鯖の味噌煮定食は美味かった」
その時、カウンターの向こうでジュワッと油の音がした。
香ばしい揚げ物の香りが店内に広がる。
「鯖味噌……牡蠣フライも美味しそう」
目の前で揚がっていく牡蠣フライを目で追いつつ、実里が呟いた。
「分けるか」
「いいのっ?」
数年ぶりに会った男と、友人とはいえ、
食べ物を分け合うなんていう親密なことをするのは、許されるのだろうか?
勢いで「いいのっ?」と聞いたものの、逡巡する実里に山科は笑って言った。
「市松のくせに遠慮するな」
「市松のくせに言うな」
結局、鯖の味噌煮定食と牡蠣フライ定食を注文して、分け合うことにした。
「ここ、どうやって発見したの?」
「営業でこの近辺歩いてる時。
昼時だし、どこか美味いとこないかときょろきょろしていたら、
タクシーの運転手らしき人がここに入っていった。
彼らは、美味しくて安いところを良く知ってるだろう?」
「ふうん。そういえば、足で営業してるんだって?
既定路線を漫然と流されて、今頃営業本部長あたりに納まってるかと思った」
山科が呆れたような顔をして実里を見遣った。
「お前、俺にあんなこと言っといて、今更そのセリフ?」
「何、その『あんなこと』って」
「……覚えてないとか」
「だから、どの『あんなこと』よ?」
「有り得ないだろう……」
情けなさそうに呟くと、天を仰いで山科はため息をついた。
連日35度前後をマークしているというのに、季節感無視で、すみません(^^;