5 何で姉さんは、こんなトロい男に惚れたのだろう
「あと一年待てなかったのか……馬鹿者めが」
母が死んだ時、父はそう言った。
「お前は昔からせっかち過ぎる。本当に」
そう独り言のように言う父の背中は、何だかとても小さく見えた。
父は涙を流さなかった。少なくとも自分や屋敷の者たちの前では。
喧嘩ばかりで一見すると夫婦仲はいいようには見えなかった。しかしそれは、対等の信頼関係から行っていたものだと、周りの者たちは知っていた。その証拠に、連れ添って庭園を歩く両親の姿は度々目撃されていた。
父は、いつだって仕事一筋だ。そして、厳格な人だ。そして一人息子である自分に対して特に厳しく接した。母はそれをは厳しすぎると言ってよく怒っていた。
「あの子は、貴方の人形じゃないのよ!」
母は父によくそう言っていた。貴方の志|≪こころざし≫を息子に押し付けないで、と父によく訴えていた。
父はそんな母に反発していた。お前は甘すぎる、と母を叱った。
二人とも、僕の意見も聞かずに言い争う場面が多々あった。そのたびに、昔の僕はきみに愚痴を漏らした。
「父も母も僕を見てくれない」
幼かったとはいえ、情けないことを言ったと後悔している。それでも、あの時は本当に参っていた。
きみはそんな僕を責めることなく、ただ一言こう言ってくれた。
「貴方はどうされたいのですか?」
紫色したきみの瞳は、まっすぐに僕を見つめていた。
きみにそう指摘されて、ようやく僕は自分が何もしていないことに気付いた。両親に自分の考えを訴えること─いや、そもそも自分の考えというものを持っていなかった。
漠然と父の跡を継ぐのだ、ということしか僕は考えていなかった。
それから僕はたくさんのことを積極的に学んだ。学も武も、様々なことに手を出した。弱音を吐きそうな時もあったけれど、きみが傍にいてくれたから乗り切れた。
僕の背がきみを抜かす頃には、僕は明確な目標を持つことができていた。
「父のように素晴らしく、母のように寛大な領主を目指したい」
そんなたいそれた目標を、僕は両親に告げることができた。母は複雑そうな顔をしつつも喜んでくれた。父は表情を変えることはなかったけど、いつもは鋭い瞳がほんの少し柔らかくなっていた。
それから、母は病に倒れ、そして……。
悲しみに暮れる暇も無く、父は僕にさらに厳しく接するようになった。さらには、睡眠時間すら削って執務の時間を増やしていった。きっと父は、母がいない寂しさを紛らわしたかったのだろう。
忙しくて僕はきみと会う時間が短くなっていった。
そして、いつの間にかきみの姿はこの屋敷から消え去っていた。自分の家族にすら、行く先を告げずに……。
きみがいない。僕にはそれがとてもつらい。苦しいぐらいに、悲しい。
どうして、僕はきみに会う時間を作らなかったのだろう。明日会おうと、日々を先延ばしにしてしまったのだろう。
僕は、ずっとずっとそればかりを考える。
きみはいつも僕を守ってくれた。ちょっと悲しいけれど、僕なんかより、剣の腕は断然上で。
どうして、なにも言わずに出て行ってしまったんだろう。
父の跡を継いだら、きみに伝えたいことがあったのに。
「何も言わずに出て行くなんて、ずるいじゃないか」
君を責めたって、どうしようもない事は分かってる。ずるいのは僕の方だ。
こんなことになっても、僕はまだ行動を移せないでいる。自らの足できみの行方を追うことしないでいる。
でも、出来るなら……全てを投げだせる勇気があるのなら、僕は今すぐにでもきみを探しに行きたい。そして、きみに伝えるんだ。
「スグリ、僕は……」
「ペパーミント様」
「うわっ」
自分の名を呼ばれ、青年は現実の世界に連れ戻された。
目の前には、ふわふわとした若葉色の髪の少年がいた。『きみ』と同じ紫がかった夕焼け色の瞳で、じっと細めてペパーミントを見ている。
「ヨモギ。い、いつの間に部屋に入って来たんだい」
「失礼ですが、勝手に入らせていただきました。一応、扉の外からお声をかけさせていただいたのですが、お返事が無かったので」
まだ十代半ばにもなっていない少年とは思えないほどの大人びた口調だ。彼はペパーミントよりも五つ年下だが、落ち着いた様相を漂わせていた。
「どうせ、また陶酔めいた妄想を繰り広げられていたのでしょう?」
冷ややかな少年の視線に、ペパーミントは居心地の悪さを覚える。
恥ずかしいが、確かに少年の言うとおりだ。ペパーミントの頬に熱が帯びる。
そんな彼の様子に、少年──ヨモギはため息を吐く。
「何で姉さんは、こんなトロい男に惚れたのだろう」
不満げなヨモギの小言は、ペパーミントの耳には届かなかった。聞き返そうとしたが、それよりも先にヨモギの口が動いた。
「物思いにふけるのは大変結構! ですが、そんな事していたって姉は──スグリは帰って来ませんよ」
「……うん、分かってる」
「なら、するなよ」
「え、何か──」
「なんでもございません」
はっきりと言われ、ペパーミントはそれ以上は聞けなかった。ただ、ヨモギがえらく腹を立てていることは分かる。
無理もないだろう。ヨモギの姉であるスグリが姿を消してから、もう一ヶ月。
未だに彼女の足取り一つ掴めていない。
無論、捜索の手は出している。ヨモギも時間を作っては自ら姉を捜索していることを、ペパーミントは知っている。彼女と親しかった屋敷の者たちもそうだ。
ペパーミントだけが、未だ自らの足でスグリを探していない。
言い訳になるが、それには理由がある。
母の葬儀以来、サイプレス家の領主としての仕事を任されることが多くなったからだ。勿論、大半は父が執務を行っているが、それでも今までの生活から一変していた。
仕事以外にも、彼の父──ジンジャーミントによる領主としての心得の講座を受けなくてはならなかった。また、魔力を高めるための鍛錬も以前よりも厳しいものとなり、休む時間はほとんどなかった。
「そんなに気にかかるのなら、今すぐにでも全て投げ捨てて、姉を探しに行かれたらどうです?」
ヨモギの皮肉めいた提案に、ペパーミントは首を横に振る。
「出来るならそうしたいよ。でも、僕には出来ない」
サイプレス家当主としての仕事。
それを捨てるということは、両親を裏切ることに等しい。それと何よりも、彼自身がスグリに立派な領主になると彼自身が誓ったのだ。それを投げ出すとなると、きっと彼女は激怒するだろう。ペパーミントの知るスグリはそういう女性だ。
そして、なにより責任もあった。ペパーミントには、私情に走る無謀さを持っていない。
彼の父親は、彼のそんな性格を見抜いていたのだ。当主としての仕事を与えることで、彼が愛する女性を追えなくする。責任という名の『鎖』のようなモノだ。
まるで父親の手の中で飼われているようだ。そんな自嘲めいた想いが胸に浮かぶ。
それを周囲も感じているのか、表立ってペパーミントを責める者はいなかった。憐れみの視線を向ける者もいた。
ジンジャーミントと云う人を、端的に称すれば『頭が固すぎる親父』だ。
屋敷の者たちは彼を恐れつつも尊敬している。傑物と誉めたたえる者も多い。
彼は没落しかけたサイプレス家を、一代で盛り返えさせたのだ。
魔界の権力は魔力の高い者が持つ。領主はその魔力で領地を潤す。かつては魔王家に次ぐといわれたサイプレス一族の魔力は、ジンジャーミントの代には枯渇しかけていたのだ。
しかし、彼は人並み以上の鍛錬を積み、古文書を読みあさり、自身の魔力では無い別の方法で土地の力を取り戻した。
そのため、古参のサイプレス領の者達にとって、ジンジャーミントは崇拝の対象にまでなっている。
そんな彼らの中に、ペパーミントを個人として見る者は無い。敬うべきジンジャーミントの跡取りとしか見てないのだ。
時々、それがペパーミントはそれが辛く感じる。
「ペパーミント様──」
ヨモギが喋ろうとするのを、さえぎるかのように扉が開く。
【続】