2 あぁ、だから最近寝不足だったのか
「どうするんだ。今から掃除しても間に合わないよ」
「うっわー何だよ、これ。魔獣でも放したのか、セリ?」
突如セリの背後に現れた、長身の男がわざとらしい歓声を上げた。魔界の者特有の鋭い牙が口から覗いている。
げっそりした表情で、セリは彼の名を呼ぶ。
「バーム……」
「よう、元気──そうだなぁ、この部屋を見りゃあ」
燃えるような紅蓮の瞳を和ませながら、彼はタイムとマロウの頭に手を乗せる。
「まぁ、ガキは元気が一番だ! ……アロエも、もうちょい元気の方がいいぞ!」
後ろの方でモジモジしているアロエを見て、バームが愉快そうに笑う。
「元気っつても、限度という物があるでしょ」
「なぁに言ってんで、セリ。お前とフェルのガキらだぜ? これぐらい、じゃれついたモンだろ」
バームの言う通りなので、セリは返す言葉が無い。
父親は、かつて世界征服を企んだ魔界の王。そして、母親はそれを阻止した天界の王の血を引く人間界の勇者。この二人の騒動は三世界を巻き込んだ話は、今でも有名だ。
「大体、夫婦喧嘩で人ん家をぶっ壊しといてよく言うぜ。それに比べたら、コイツらのした事なんざ軽い軽い!」
「ぐっ、そ、それは……」
「ひでぇよなー。俺、まだ新婚だったのに! まぁ、おっかげさんで、あのボロ屋敷が新品に変わったから俺としては万々歳だったけどな」
嫌味ではなく、本気で喜んでいる。彼──レモン・バーム・ガルバナムとは、こういう男なのだ。
「あれ、バーム。今日は父さんと一緒に来るんじゃなかったの?」
マロウが、たった今思い出したかのように尋ねる。チラチラと横目でタイムをもながら。
彼の仕草にタイムは一瞬マロウに手を出しかけたが叱られた手前、何とかこらえた。拳を震わせながら余計なことを、とタイムは下唇を噛む。
「おーおー、そうだそうだ」
服の裏ポケットから、バームはボールみたいに丸めてある紙を取り出す。急いでいたせいなのか、それともそういう性格なのか、見るからに大事そうな書類らしき紙はしわだらけだった。
「えー、『親愛なる我らが魔王陛下フェンネル・シトロネアに命ず。先日提出されたし『ユーパトリウム地方の人事について』及び、それに関連される計二十三枚の書類を提出されるまで、一切の外出を禁ず。シトロネア暦四百四十七年ルビーの月十三日、王宮筆頭魔術師フキ・クランベリー』ホレ、ちゃんと王印付きだ」
ヒラヒラと、読み上げた書類を見せびらかす。バームの言う通り、書類には銀色の判が押してある。月を象った、シトロネア家の紋章である。
書類の内容を聞き、タイムは安堵の息を吐く。逆にセリの口からは、重いため息が出る。
またか、と彼女は小さく呟く。
かつては世界征服を企んでた魔王フェンネル。今では円満な人格者と周囲に評されている。だが、たまの休みの日に子供らに会えるとなると、パッタリ仕事に手を付けなくなる。本人いわく、「楽しみも過ぎて何も手がつかなくなる」とのことだ。
人々は、そんな彼のことを『親バカ魔王』と云う。
「ったく。本当に困った魔王様だよ。部下に命令されるなっての」
バームから書類を受け取ると、セリは苦笑した。
書類に描かれた文字は赤紫色に発色している。手をかざせば、わずかな魔力を感じる。指先がしびれる感触でフキの物だと改めて確認する。
並の魔力しか持たない者ならこの文面に従ってしまう強制力を持つ。いわば、この書類は一種の魔法陣のような物だ。
だが、魔王であるフェンネルにはこれは効かない。彼が部下の魔法に従ったのは、職務放棄した罪悪感のためだろう。
フキもフェンネルの性格を熟知しているので、あえてこのような手段を取ったのだろう。
「ハハハ、アイツらしいじゃねぇか」
「フキもこれでまた、不機嫌に拍車がかかるだろうに」
「いやいや、セリ。フキの不機嫌は今に始まった事じゃねぇって」
何せ、フキ・クランベリーのフキは『不機嫌』のフキ。
バームのおどけるようなその発言に、三つ子が一斉に笑い出した。大人しいアロエですら、大口を開けて笑っている。
失礼だろ、と言いつつもセリも笑いが堪えきれない。口元を手で覆い、肩を震わせている。
「確かにさ、フキさんって、いっつも怒ってる顔してるもんなー」
「そうそう。いつもいつも、目がつりあがってるもんねー」
「二人とも、言い過ぎだよ」
「アロエっば。笑いながら言っても、かばっている感じに見えないよー」
噂の的のフキは、今頃くしゃみが止まらないだろう。
先ほどまでケンカを忘れてしまったかのように、三つ子は楽しげだ。その様子にセリがこっそりとバームに礼を言う。
「ありがと、バーム」
「気にすんな、それよりやることがあるだろ」
片目を閉じるバームに、セリは頷く。そして、彼女は子供たちに向かって言った。
「さて、父さんは遅れるみたいだし。部屋を掃除しましょうかね」
「はーい」
元気よく、声を揃えて三つ子は返事をする。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼しようかな」
そそくさと退室しようとするバームの尖った耳をセリが引っ張る。
「アンタも手伝え」
「……へいへい」
* * *
魔王こと、フェンネル・シトロネアがやって来たのは、日が沈み月が空を支配し始めたころだった。
扉を開けると、彼は朗々とした声で子供たちの名を呼んだ。
「タイム、アロエ、マロウ、ただいま!」
彼は満面の笑みで両腕を広げるが、誰一人としてその腕の中に飛び込んでは来ない。
「あー、おかえりー父さん」
「おかえりなさい」
息子たちの声に、フェンネルは残念そうに肩を落とす。
「……寂しいなぁ。せっかく久しぶりに帰ってきたのに」
「いちいちそんなんで喜ぶほど、子供じゃないよ。俺らは」
マロウのツッコミに、魔王は少し拗ねたように頭を下げる。
「全く、どっちが子供なんだか」
セリがフェンネルの手から外套を受け取る。
「おかえり、フェル」
「あぁ、セリ。悪かったな、遅れて……」
「ハハハ、気にしてないって、全然」
むしろ助かりました、とセリは小声で付け足す。
フェンネルが約束の時間に遅れたおかげで、部屋は先ほどとは打って変わって綺麗な状態である。──そう、少し不自然なくらいに。
しかし、フェンネルはそんな事には気づかない。
「よぉ、フェル。先に食ってるぞー」
夕飯の鶏肉の野菜炒めを口に入れながら、バームが片手をヒラヒラと振る。
彼の声を聞いた瞬間、フェンネルはキッと顔を上げる。眉間にしわが刻まれているのを見ると、どうやら怒っているらしい。
「お前、真っ先に逃げただろ」
「あー、何の事だ?」
「とぼけるな! おかげでお前の分までフキにしぼられたじゃないかっ」
グッと握られているフェンネルの手はインクまみれだ。恐らく、ここぞとばかりに提出を強要された書類以外にも仕事をさせられたのだろう。
フキ・クランベリーという男は、本当に有能た。
「ホレホレ、怒っとらんで早く食わんと、メシが冷めるぞ。……うめぇな、このスープ」
上司の怒りを物ともせず、バームは食事を再開する。バーム・ガルバナムという男もある意味で大物である。
「後で覚えていろよ。ところでセリ、タイムは?」
フェンネルはキョロキョロと辺りを見渡すが、愛娘の姿は無い。
セリも首を傾げて、タイムの姿を探す。
「さっきまでそこの席に座ってたんだけど」
「父さーん、テーブルの下でーす」
「バカっマロウ! 何でバラすんだよ!」
テーブルクロスを勢いよくまくって、タイムが顔を出す。
「バカはお前じゃん。そのまま隠れてやり過ごせばいいのに」
呆れたように言い放つマロウに、タイムは口を半開きにする。悔しいが確かにその通りだ。
「タイム!」
愛娘の姿を見つけるが否や、フェンネルはタイムを強く抱きしめる。
「いい子にしてたか? 相変わらず可愛いな、俺の娘は。ん? 少し重たくなったか?」
「うるっさーい! 放せ!」
タイムは必死で暴れて逃げようと努力するが、全く効果は無い。そして、そのままフェンネルに頬擦りをされる。鳥肌を立てながら、タイムは懸命に父の腕の中でもがく。
「や、やめろー!」
「よかったなー、タイム」
「うるっさい、マロウ!」
マロウはニヤニヤしながら、こっちを見ている。それがタイムの神経を逆なでさせる。
「と、父さん。タイム嫌がっているから……」
見かねたアロエが止めに入るが、後半は小声となり誰の耳にも届かない。
腕の中で暴れるタイムなどお構いなしで、フェンネルは口を開く。
「タイム、父さん今日はお土産を持って来たんだぞ」
そう言って、ようやくタイムを解放する。
タイムは、すぐに走ってセリの後ろに隠れる。母のロングスカートを掴み、こっそりと顔を出して様子をうかがう。
「何持って来たの?」
一人気楽なマロウが聞く。
「うん、ホラ見てごらん。可愛い服だろう!」
取り出された服を見て、タイムは全身に鳥肌が立つ。
その服は、鮮やかな桃色でフリフリでリボンとレースがたっぷり。一言でそのドレスを表すのなら、夢見る乙女。
確かにタイムの外見なら、とてもよく似合うだろう。しかし、タイムの性格とは真逆の物だ。
「いらないっ」
即座にタイムは首を振ったが、フェンネルは折れない。
「そう言うなよ。父さん、タイムの事を思いながら、一生懸命作ったんだぞ」
お前のお手製したんかい。
その場にいた全員が、心の中でツッコむ。
「あぁ、だから最近寝不足だったのか」
バームが一人納得するように呟いた。
「さぁ、着てごらん。父さんに可愛いお前の姿を見せてくれ」
「イヤだー!」
「タ、タイム。一応、着てみなさい。お父さん、がんばって作ってくれたらしいし」
セリにそう言われた瞬間、タイムは脱兎の如く走り出す──が、セリににあっさりと捕まる。
「母さん、放してよ!」
タイムが懇願すると、セリは表情を曇らせる。
「ごめん、しばらくの我慢だから」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
かくして、無理やり着替えさせられたタイムは、再び父に強く抱擁されるのだった。
【続】




