《そして彼女は……》1
新城祐樹と別れた九龍寺秋月蒼華神風見は雑踏の中を誰にもぶつかる事なく歩く。真夏だというのに漆黒のロングコートを着込んでいるにも拘わらず、誰一人として彼に視線を向けない。そして、最も奇異な事は、誰もが彼及びその周辺をないものと認識しているような動きをする事だ。そう、誰も彼に気付かない。だから、風見は誰にもぶつからない。だが、本人たる風見はそれを当然としているのか、周囲へ訝しむような視線は向けない。当たり前だ。この事象は彼が引き起こしているのだから。
「ふむ……新城祐樹か。懐かしい者に会った」
呟きが形の良い桜色の唇から零れる。その可愛いと形容出来る美貌を彩るのは笑みだ。
と、その脚が止まる。瞬き一つで笑みを消し、虚ろを感じさせる無表情に変える。
「誰だ?」
誰何する声音は凍える刃。瞳に感情の色はなく、深淵を覗かせる。
「そんなに怖い顔しないでよね? あたしだよ」
振り返った先にいるのはゴスロリを纏った少女。見慣れた姿を認め、風見は表情を笑みに緩めた。淡い栗色の髪と瞳。髪は眩い陽の光を浴びて金砂のよう。
「君か。気配を消していたから敵かと思った」
「しっつれい。任務帰りなものでついつい。さっき終わったばっかりなんだよ」
てへへ、と舌を覗かせる少女。
「そうか。なら、再会を祝してお茶でもどうだい?」
「賛成、と言いたいけど、研究所に報告が先かな?」
「ふむ……それは仕方がないね。では、報告した後に我が家へ来るかい?」
「あっ、それいいかも」
少女が頬を綻ばせる。
「んじゃ、紗希ちゃんも連れてくよ。この頃あの娘も外出てないだろうし」
「ああ、それはいいね。では、綾香、後程。もしかしたら、僕より君の方が先に家へ着くかも知れないけど、勝手に入っちゃって」
「りょーかいです」
綾香と呼ばれた崩れた敬礼をする。風見はじゃあ、と彼女へ手を振り、一瞬ののちには姿を消している。
「せわしないんだから、もう……」
腰に手を当て、怒った振りをするも、綾香の声は隠しようもなく笑っていた。
「ケーキ、あるかな……」
風見との久しぶりになるお茶に思いを馳せ、綾香もその場を去った。
二人の再会には誰も気付く事がなかった。
†
氷川紗希は仮想訓練用の顔の上半分を覆うバイザーを外して大きく息を吐く。首を振ると長い黒髪がしなやかに揺れる。悪くはない成績だが、ここのところ伸び悩んでいる。
「もうちょっと頑張らなきゃいけないのかな……」
再びバイザーを頭に載せようとしたところで、手首を掴まれた。
「ひゃっ!」
振り返ると呆れた表情の男がいた。研究者らしいのは白衣だけで、その下は骸骨をプリントしたTシャツ。
「斉藤さん……何か用ですか?」
「……休め、バカ」
答えはにべもなく、強制的にバイザーを取り上げられる。
「ま、待って下さい。まだまだやり足りないんです」
バイザーを片手で玩びながら背を向けた斉藤に追い縋り、紗希は訴える。斉藤はただでさえ呆れた顔へ更に呆れを混ぜる。
「あのなぁ、オレを過労死させたくなきゃ、もう止めろ」
「でも、この頃伸び悩んでて……」
「なら、なおさら休むべきだな。そんなに根を詰めてもいいことはない」
斉藤の言葉は素っ気なく感じられるが、紗希は自分に対する彼の気遣いを感じてしまうため、何も言い返せない。何より、斉藤は紗希にとって兄のような存在だ。その言葉をむげにも出来ない。
「……わかりました」
紗希は渋々頷いた。斉藤は表情から呆れを消し、眠たそうな顔になる。しかし、これが彼の普段の顔である。
「シャワー浴びてこいよ。飲み物用意して待ってるから」
んじゃ、と言って、仮想訓練用の装置が置かれた部屋から出て行く。シャワーは彼が出て行った扉の反対側だ。紗希は溜息を吐き、きびすを返し、シートの背に掛けたタオルを掴んでシャワー室へ向かった。
†
風見と別れて研究所に戻った綾香は研究所の所長へ報告をしていた。
「まあ、大した異常は見当たりませんでしたね……でも、少し気になったことですけど」
綾香はそこで言葉を切り、
「ほんの僅かですけど、残存封力が検出された上、魔獣がやや減っています。生態系に異常はありませんけど」
「ふむ……いかがするべきか。キミはどう思う? 綾香くん」
所長は小太りの体を揺すって綾香に問う。綾香はほんの少し姿勢を正し、
「今回検出された量が僅かだったとは言え、過去にどれだけの封力が使われたかの判定はあたしには出来ません。よって、ただの狩りの痕跡だという事も否めませんが、【ルナ】に報告はしておいた方が後々の責任は軽いかと」
口調は軽いが、内容は決して軽くない。所長は背凭れに身を預け、深々と溜息を吐く。
「はあ……やはりそうすべきか。うむ、わかった。【ルナ】には儂から言っておこう。綾香くんは約束通りに休暇だ。紗希くんの分も含めて外出許可証を発行しておいた。存分に休んでくるといい」
「わかりました。ありがとうございます」
机の上に置かれた二枚のカードを受け取り、綾香は浅く礼をした。そして、くるりと背を向けた。スカートとレースがふわりと舞う。その背中へ、
「おみやげよろしく頼むよ」
「覚えていれば」
綾香の声は笑っていた。
†
並んで歩く祐樹と霧香は恋人同士に見えなくもないが、些か以上に霧香の表情が固い。それに、恋人にしては二人の間は開きすぎだ。
美苑と別れた後、霧香は散々祐樹を連れまわした。しかし、少し前から彼女は何も言わない。祐樹は黙り込んだままの霧香に遠慮して口を開かない。どこか気まずい沈黙が二人の間にある。足は何とはなしに自然公園へ向かっている。祐樹は少し先、公園の入り口に自販機があるのに気付き、
「喉、渇かないか?」
霧香の方へ視線を向けて遠慮がちに問う。霧香はしばらく迷う素振りを見せていたが、小さく頷いた。
「ん……少し」
「じゃあ、飲み物買って何処かで休憩しよう」
「うん」
やっと霧香が表情らしい表情を浮かべた。ほっとしたような顔。祐樹は悪い事していたな、と思ったが、何かを言う事はしなかった。緊張を強いていたらしい。祐樹はお茶のペットボトルを二本、電子マネーで買い、一本を霧香に手渡す。
「ありがとう。お金は?」
「細かい事は気にするな。大した出費じゃない。ほら、あそこの木陰に行こう」
先程の出費は棚に上げて言う。霧香は俯いたまま祐樹に付いて来る。祐樹が自然公園のベンチに腰掛けても、足元に視線を落としたまま座ろうとしない。祐樹は自らの隣をぽんぽんと叩いてみせると、霧香はようやく座った。祐樹はそっと溜息を吐いた。
「その……ごめんね。ムリに付き合わせて。迷惑だったよね」
「気を遣うな。気を遣われるべきはお前だろ、霧香。何かあったのか?」
霧香の手に力が入った。微風が木の葉を揺らし、二人の間を緩やかに舞う。
霧香はしばらく何も言わなかった。いや、言えなかったのだと思う。何かを言おうとして、しかし言葉にならない。その表情にもどかしさが募る。しかし、祐樹は急かす事が出来なかった。その表情が苦しそうだったから。何かあったのは確かだろう。それはこの表情で十分わかる。しかし、何が起こったのか、彼女から聞かずに知るすべはない。
「――き」
掠れた声が何かを言う。視線を向けると、緊張した表情の霧香が映る。
「祐樹」
今度ははっきりと祐樹の名を呼んだ。
「何だ?」
「あっ……その……」
すぐに目が逸らされた。そして、何度も深呼吸を繰り返し、祐樹の服の裾をぎゅっと掴んだ。祐樹は彼女のするがままにさせた。彼女にとってその方が話しやすいなら、そうした方がいいだろうという判断とただ単純に、触れる事を躊躇ったという事がある。
服を掴む手が小刻みに震えている。いや、肩もよく見れば震えている。しかし、彼女はそれを必死に堪えようとしているようだ。一度唇を噛み、そして、
「……たす……けて」
震える吐息と共に、彼女はごく短い言葉を紡いだ。祐樹は言葉の意味を考え、自分が頼られている事を認識する。戸惑いがない訳ではない。何故自分か。しかし、助けを求められているのなら、やる事は一つしかない。
「どうすればいい?」
霧香が驚いたように顔を上げ、祐樹をまじまじと見詰める。
「訊か……ないの?」
「何を?」
「何をって……」
霧香は言いかけて俯いた。しかし、服を掴んだ手は離れない。引きつるように息を吸う。
「何で……そんなに優しいのよ、あんたは……」
祐樹は何も言わなかった。
やがて、小刻みな震えは嗚咽となった。祐樹は何もしない。ただ、
「泣ける時に泣いとけ。変に我慢すると後に響くから」
それだけを言った。抱き締めるのは祐樹の仕事じゃないし、涙を拭ってやる事も祐樹がすべき事ではない。
しばらくして、霧香は泣き止んだ。目は赤くなっていたが、表情は落ち着いて見えた。
「ごめんね、さっきから。何だか、うれしくて。こんなに優しくされたの、久しぶりで」
「ほら、ハンカチ」
霧香の言葉には答えず、ハンカチを手渡した。彼女は素直に受け取り、目尻に残る透明な滴を拭った。それから少し笑い、
「理由は……まだ話せない。もしかしたら……ずっと話さないかもしれない。それでも、祐樹はわたしを助けてくれる?」
「隠し事の一つや二つ、人にはあるだろ。もちろん、俺だってお前に隠してる事がある。だが、そもそも、助けを求めている相手を助けるのに理由なんか要らない」
「やっぱり……祐樹は優しい」
霧香はどこか儚げに微笑んだ。学校じゃ決して見せない表情。そして、彼女は頼みを口にした。
「わたしを……祐樹の家に泊めてほしいの」
「…………」
祐樹はベンチに影を投げかけている大樹を見上げる。微風に葉を揺らす。
「だめなら、いいよ」
霧香は本心でないだろうくせにそう言う。祐樹は深く息を吸い、そして、胸の内に知らず積み上げていた緊張ごと吐き出す。肩から力が抜けた。
「じゃあ、帰ろうか」
祐樹は勢いよく立ち上がり、霧香へ手を差し伸べる。
「えっ……?」
不思議そうに祐樹の手を見つめ、そして、何かに気付いたように小さく声を漏らす。
「あっ……」
それから祐樹の手は取らずに立ち上がった。足元に置いた大きい鞄を持ち、祐樹を見上げる。祐樹は必要のなくなった手を下ろし、霧香を見つめる。二人の視線が絡み合う。
「ありがとう、祐樹……うん。帰ろうか」
「ああ」
祐樹は深く頷く。
そして、二人は肩を並べて歩いた。何時もの風景さえ、どこか変わって見えたのは、何故だろうか。祐樹は自問し、胸の内で苦笑した。心の中で、霧香という少女の占める割合が大きくなったようだ。その感情が何なのかはわからないが、ただ一つ言える事。
――護りたい
身勝手かも知れないが、それだけは確かな気持ちだった。
お気軽に感想をお寄せください。
但し、誹謗中傷はおやめください。
ブログ運営中です。
http://granbellmagictown.blog.fc2.com/