エステル7
カークが入団してから、エステルはますます騎士団の修練所に足を運ぶことになった。さすがに騎士見習いの彼と肩を並べて訓練するわけにはいかないが、同じ空間にいれば自然とカークの姿が目に入り、タイミングが合えば言葉を交わすことはできる。
騎士学校を主席で卒業したとあって、カークの実力は同年代の見習いたちの中でも頭ひとつ抜けていた。元々王女の乳兄弟として王城暮らしで、小さい頃から遊びがてら騎士たちの教えを得ていた身でもある。本人の素養もあったのだろう、騎士団の最短コースをなぞって、一年後には准騎士に叙された。
「カーク、准騎士おめでとう! すごいじゃない!」
「ありがとうございます。これで夢に一歩近づけました」
「うふふ、カークの夢もソフィアお姉様を守ることだものね。私と一緒だね」
「……まぁ、そうではありますね。そんなことよりエステル様、あそこにあなたの家庭教師の姿が見えますが、ひょっとしてまた勉強をサボって抜け出してきたのでは?」
「げ……! 嘘でしょ、捲いたと思ったのに!」
「相変わらずですね。勉学を通じて姉姫様を支えるのも、妹としてなすべきことなのではないですか?」
「そういうカークだって侍従にならずに騎士になってるじゃない。お姉様の助けになるならそういう道もあったのに」
「俺は別に勉強を苦手にしていたわけではありませんよ。准騎士の試験にはペーパーテストや口頭諮問もありますからね。それもすべて最優秀でクリアしています」
「嘘でしょ、カークって頭も良かったの!?」
てっきり勉強が嫌いだから、侍従や文官でなく騎士を目指したのだとばかり思っていた。そう告げれば「俺のことをなんだと思っているんですか……」と額に手を当て項垂れた。
「エステル様! やっぱりここにおいでだったのですね! 午後は淑女教育の時間だとご存知のはずですよね」
「うわぁ! ごめんなさい!」
家庭教師からさらに逃げようとすれば、咄嗟にカークに腕を掴まれ捕獲された。
「ちょっと、カークってば何するのよ。逃げられないじゃない!」
「逃げてはダメでしょう。あなたはルヴァイン王国の王女なんですから。少しは姉姫様を見習いましょうね」
「ダンフィル卿のおっしゃる通りですわ。エステル様には未来の女王陛下の妹君として、完璧なマナーを身につけていただかなくてはなりません」
「だって、あれ苦手なんだもの!」
「苦手だからこそ学ぶのですわ。出来ていたら私だってここまで申しません」
「あんなの全部、ソフィアお姉様がパーフェクトに出来るんだからいいじゃない。私が出来なくても誰も困らないわ」
口を尖らせてそっぽを向けば、家庭教師に「エステル様、我儘も大概になさいませ」とさらに憤慨された。
淑女教育など自分には必要ないものとエステルは本気で思っている。ソフィアを剣で支える自分は、誰かと結婚するつもりはない。そんなことをすればソフィアの傍にいられなくなってしまう。
それは即ち、姉を守るカークの傍にもいられないということ。
一年前に自分で名付けたこの気持ちは「恋」という。その気持ちが向かう先は、最短で准騎士となり、確実に出世コースを進んでいる空色の瞳の彼だ。この一年でエステルの身長も姉に匹敵するくらい伸びたが、彼もまた一段と大きくなり、ますますその瞳が遠くなった。
それでも、このままエステルが剣を振るってさえいれば、同じ空間にいるカークの視界に入ることができる。そう信じて毎日のように修練所に足を運ぶのだが。
自分と家庭教師とカークが話している先が少し騒がしくなったかと思うと、見知った姿が優雅にこちらへと歩んできた。
「ソフィアお姉様!」
「エステル、やっぱりここにいたのね」
光沢のあるスモーキーピンクのデイドレスを着たソフィアが麗しい足取りで近づいてきた。エステルの横ではカークが騎士の礼を取り、背後で家庭教師が略式のカーテシーをする。
「カーク、それにモリス夫人も、どうぞ楽にしてくださいな。少し時間ができたので久々にエステルの勇姿を見たくて寄らせてもらったの。突然の訪問で申し訳なかったわ」
「いえ、騎士団一同、ソフィア王太女殿下のお出ましとあればいつでも歓迎です」
顔を上げたカークが、空色の澄んだ瞳をソフィアに向けた。まっすぐな揺るぎない視線の先で、姉ソフィアもまたさらに唇を綻ばせる。
二人が見つめ合ったのはわずかな時間のこと。ソフィアはすぐに家庭教師のモリス夫人に視線を移した。
「でもモリス夫人がここにおいでということは、エステルのお迎えに来たのかしら。それならエステルの訓練は見られないわね」
「ううん、そんなことないわ。お姉様が来てくれたのなら……」
このまま訓練を継続すると告げようとした矢先、モリス夫人が「王太女殿下のおっしゃる通りでございます」と割り込んだ。
「エステル様は今から淑女教育のお時間でございまして。お戻りが遅いため私がお迎えにあがったのです。どうぞ殿下からも、妹姫様に午後の予定を恙無く進められますよう、ご助言いただければ幸いにございます」
「ちょっと、モリス夫人、なんてこと言うの!? 私はこのまま訓練を……」
「そう。エステル、事情はよくわかったわ。それで、ルヴァイン王国の二の姫としてあなたが今からすべきことは何かしら」
「それは……」
姉ソフィアの美しさは見た目だけのことではない。彼女の一言一言が威厳に満ち、聞く者を自然と従えるような強さがある。瞳も唇も弧を描いているものの、それが真の笑顔ではないことは、十五年も妹をしていればわかるというもの。
「……わかりました。戻ります」
「あなたが聞き分けのいい素直な子で私も嬉しいわ」
ソフィアの恐ろしいところは、これが皮肉でなくて本音なところだ。誰もがもてあまし気味のお転婆姫さえ、彼女にとっては素直でかわいい妹になる。
そんな姉に乞われてはエステルとしても従わざるを得ない。
「カークも今から訓練なのかしら」
「いえ、自分は剣術の訓練を終えたところです。休憩が終われば、午後は走り込みと筋トレのメニューですので、見学されても面白みはないかと」
「カークが頑張っている姿を見るのはいつだって楽しいわ。でも、先に正騎士の様子を見学しないわけにはいかないわね。あとで覗きにいくわね」
「ソフィア様がお見えになるとなれば、皆のやる気も上がります。ですが、お忙しいでしょうからどうぞご無理なさらないでください」
「ありがとう。では、あとでね」
姉はルビーのような瞳を二、三度瞬かせ、正騎士の修練の場へと去っていった。その後ろ姿を、カークがじっと眺めている。
「さぁ、エステル様。姉姫様もああおっしゃっていましたよ」
「わかってるわよ。戻ります」
家庭教師のモリス夫人に重ねて言われ、エステルはカークから目を逸らした。彼はこのまま姉の姿が見えなくなるまで、その背中を追い続けるのだ。自分がここにいる意味はもうない。
踵を返そうとしたとき、「エステル様」と呼び止められた。自分を見ることなどないと思っていた空色の瞳が、姉の背中ではなく、エステルを見ていた。
「これをどうぞ」
「え……」
咄嗟に手を差し出せば、エステルの手のひらに飴玉が置かれた。
「午後のお勉強、頑張ってくださいね」
飴玉を見つめる私の頭上から声が降ってくるとともに、大きな手が近づく気配があった。
ぽんぽん、と二度繰り返される、優しい感触。
(また撫でられた……)
その手を名残惜しく追えば、不意に彼と視線が絡んだ。けれどそれは一瞬のこと。軽く礼をしたカークは、そのまま姉とは反対の方向に走り去っていった。
先ほどまでモヤモヤしていた気持ちが綺麗に溶けて、エステルの胸の中にも清々しい青空が広がったかのようだった。今なら嫌いな淑女教育だって楽々こなせてしまいそうだ。
飴玉を握りしめながら、ついつい溢れてしまう笑みを我慢することができない。こんなことで簡単に浮上してしまうのだから、恋って本当に厄介だ。




