あの女は紅いランボルギーニカウンタックを欲していた。
鏡を見るたびに、生え際は後退し、腹は前へ出てくる。身長はどうにもならず、体型は「明日から痩せよう」という言葉だけが何年も生き延びている。
昔から、女に好かれた記憶がない。
告白する前に振られ、社会人になれば「いい人だよね」で終わるか、最初から恋愛の土俵にすら上げてもらえない。俺はずっと、“選ばれない側”にいた。
そんな俺の前に、あの女は現れた。
赤い口紅がやけに似合う女だった。
服も言葉も視線も、「自分は特別だ」と知っている女のそれだった。
住む世界が違うと一目で分かった。
それでも、仕事帰りの雑談から、なぜか会話が続いた。
彼女は俺を一通り眺めて、鼻で笑った。
「あなたには無理でしょ」
何が、とは言わない。だが俺には分かった。
顔、体型、年収、人生。全部ひっくるめての「無理」だ。
俺は苦笑いするしかなかった。
彼女はスマホに赤い車の画像を映し出す。
「これ、誕生日にプレゼントしてくれたら、付き合うの考えてもいいわ」
条件付きの誘惑。いや、誘惑ですらない。ただの取引。
普通なら笑って流す。だが俺は否定しなかった。
一生懸命に死ぬほど働けば、届くんじゃないか。
顔で負け、体型で負け、自信でも負け続けてきた俺に残されたもの。
それは、働くことだけだった。
時間を売れば金になる。金を積めば、夢に近づく。
紅いランボルギーニ・カウンタック。
それは車じゃない。俺が“選ばれる側”に行くための象徴だった。
その日から、俺は三つの仕事を掛け持ちした。
朝はコンビニの裏口で段ボールを運び、昼は建設現場で汗を流し、夜は居酒屋で皿を洗う。どれも誇れる仕事じゃない。ただ体力を削って金に換えるだけの作業だ。
それでも、不思議と苦しくなかった。
欲しいものが、はっきりしていたからだ。
紅いカウンタック。そのために働く。
数字を数え、ゼロの多さに目が眩みながらも、「足りない」だけだと自分に言い聞かせる。
居酒屋には、酒癖の悪い女がいた。
営業中から酒を飲み、客に暴言を吐き、営業後には泣き崩れる。
「ごめん」と繰り返す彼女に、俺は缶コーヒーを渡すだけだった。
「優しいね」
その一言で、少しだけ救われる。
俺は思った。この女は孤独なんだ。俺なら救えるんじゃないか。
だが本当は、俺が救われたがっていただけだった。
昼の職場には、泣き上戸の女がいた。
昼休みに缶チューハイを一本飲み、夢の話をして泣く。
「やろうと思えばできる」と言いながら、何も変えない。
俺はただ相槌を打つ。
彼女にとって、俺はただの“耳”だった。
それでも、俺はその役を手放せなかった。
話を聞いている間、俺は必要な存在だったからだ。
夜の職場には、推しに人生を捧げる女がいた。
借金まみれでも笑いながら、「この人がいるから生きていける」と言う。
現実が辛すぎて、別の場所に意味を作った人間の目だった。
俺は何も言えなかった。
俺だって同じだ。カウンタックに意味を預けている。
違うのは、彼女が金を使って壊れていき、俺が金を集めて壊れそうになっていることだけだった。
さらに、静かに壊れた女にも出会った。
「生きる意味が分からない」
そう淡々と言う彼女は、何も求めていなかった。それが一番怖かった。
俺には、馬鹿みたいな夢があった。だからまだ生きていられた。
彼女には、それがなかった。
誰も誰かを救えない。できるのは、隣にいることだけだと知った。
それでも俺は働き続けた。
あの女の「無理でしょ」という言葉が、背中を押し続けていたからだ。
久しぶりに、あの女から連絡が来た。
カフェで再会した彼女は、何も変わっていなかった。
「で、まだ?」
カウンタックのことだ。
彼女は俺の話を聞かない。必要なのは結果だけ。持っているか、持っていないか。
そのとき、はっきり分かった。
俺が欲しかったのは、この女じゃない。
この女に認められる自分だった。
カウンタックは、そのための道具だった。
俺は席を立った。
初めて、自分から。
それから、体が言うことをきかなくなった。
膝が軋み、腰が重い。数字も思うように増えない。税金、保険、生活費。削れるところは、もうない。
ある夜、計算していて気づいた。
どうやっても届かない。
努力が足りないんじゃない。最初から無理だった。
怒りも悲しみもなかった。ただ、空だった。
帰り道、模型屋に入った。そこで見つけた。
紅いランボルギーニ・カウンタック。
縮尺、1/1000。
値段は現実的だった。
俺はそれを買った。
家で箱を開け、黙々と組み立てる。小さなパーツが形になるたびに、心が静まっていく。完成したそれは、小さくて安くて本物じゃない。
それでも、確かに紅かった。
達成感ではない。納得感だった。
夢を手放したわけじゃない。夢を、自分の器に合わせただけだ。
それは敗北じゃない。生き残りだった。
しばらくして、あの女が結婚したと聞いた。相手は何処かの国の王子だという噂だった。怒りも悔しさもなかった。ただ納得した。
彼女は、欲しがる女だった。より高く、より派手な場所へ行く。
俺はそこにいなかった。それだけだ。
世界は公平じゃない。
努力が報われるとは限らない。
それを、静かに受け入れた。
机の上には、千分の一のカウンタック。
俺はそれを棚に置き、婚活アプリをインストールした。
期待はしない。王子にもならない。ランボルギーニも出てこない。
ただ、誰かと夕飯を食べて、愚痴を言い合って、笑えたらいい。
プロフィールには正直に書いた。盛らない。嘘をつかない。
無理なものは無理だ。
でも、無理じゃないものもある。
今日を生きること。誰かと話すこと。小さな夢を、小さく叶えること。
それらを欲しがっていい。
そう思えた。
紅いランボルギーニ・カウンタックは、もう欲しがらない。
でも、紅い何かを欲しがっていた自分は、否定しない。
あれがなければ、ここまで来なかった。
俺は立ち上がる。
明日も働く。
でも、もう追い立てられない。
人生を理解した男は、静かに前へ進む。
千分の一の夢を背に、ちょうどいい速度で。
現代小説【あの女は紅いランボルギーニカウンタックを欲していた。】
完




