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Darker Holic  作者: 和砂
side3
68/113

side3 《時忘れ》5


 黒い視界、いや、黒い景色に一人。

 自身の手・足先は見えるが、他が全く見当たらず真っ黒の景色である。


 暗闇に居るわけではないので、一瞬死後の世界とやらを想像してみるが、自らの死因が不明なうえ、感覚から判断すれば体はピンピンしている。

 全身を検分していて気が付いたが、肩ひじの力が抜けていないので、引っ掛けただけの錦もずり落ちずに済んでいるようだ。




「《きょう…》」




 直前まで共に居た者を呼ぼうと考え、自然と漏れた名に口を噤む。


 外界から浸食する何かの存在を本能が告げ、彼女の腕を切り落とそうとしたが、迷った。

 その一瞬で、彼女は―――。


 強張った体の緊張を解くよう深く息を吐いたが逆効果で、ますます腕に力が入る。




「二度目か…」




 意図された前回と違い、次がない“二度目”である。

 指先から痺れるように脱力しそうになるのを、再び拳として止めた。


 そう簡単に納得できなさそうだが、自身の感傷の前に責務を果たさねばならない。

 せめて、幼子を親元へと切り替え、再びこの不可思議な現象を考える。


 直前、青い髪と時折赤に変わる青い目の双子が、《アルルカン》に抱きついたのは覚えているのだが、それから一瞬後にはこの呈だ。

 まやかしは終ぞ経験したことはないと眉を顰めて、瞬間、一度だけ《暗黒神》に会ったのを思い出した。

 一瞬の邂逅だったが今の状況と似ているのではないか。


 兎にも角にも移動のため足裏の重心を動かすと、背後から小さく吐息が漏れた。




 ――――――――――――っ。




 気配を消していたそれに、振り向きざま技をかける。

 相手の力量がはっきりとわかったわけではないので、様子見の為のモノであったが、相手は避けるでなく、実にあっさりと腕を止められた。


 その、細腕で。




「女?」




 圧倒的に有利な力のかけ方をしていたのに、その細腕は少しもぶれない。

 その上、爪の長い細指で痣が付くほど強い力で握り返された。

 ミシリと想像できない力で、思わず感嘆する。


 それに気が付いたか、その細腕の主は艶やかな唇を笑みの形にした。その隙間から八重歯が覗く。




『挨拶じゃあないか、え? けれど、やっぱり“息子”はダメだね。脆弱だ』




 赤い炎の前髪に隠れた双眸がぎらりと光る。

 縦に割れた瞳孔がはっきり見える、金色の目。それが良く映える浅黒い肌。

 羅刹王と似たような覇気と態度は、上位に在るものとして視させる。


 一瞬、本当に一呼吸にも満たない間だが、その女を見て“母親”を思い出した。

 顔立ちも言動も全く似ていないのに、敬うべき存在として頭に訴えかける奇妙な感覚だ。


 腕は時間経過と共に力を込められていて動きようがなく、奇妙な感覚に抗う意味も込めて相手の顔を睨みつけ、その顎から首、鎖骨と下った所で盛大に顔を顰める事となった。




『あん?』




 こちらの顔の変化に片眉を上げた女。


 構わず片腕を最大の力で振り払うと、その手で肩に掛けた錦を引っ掴み、女の顔面ごと被せる。

 そこで納得いったか、女が錦の向こうでケタケタ笑った。




「―――慎みを持てっ」




 笑う錦の塊に吐き捨てる。


 上半身丸出しで、唯一長い横髪が垂れているようなものだった。

 女というよりは母親に近いイメージを受けた事もあって、気持ちが萎える。


 と、被った錦を女はばさりと大きく振って、あろうことか肩に引っ掛けるだけという、豪儀な着方をした。

 当然、間から覗く乳房も、曲がった拍子の腹の余韻も見えている。

 唯一の救いは、下は下衣をきちんと身に着けている点だろうか。

 片膝を立てた胡坐姿で頬杖をついて、その女はにやりと嗤う。




『脆弱なだけでなく、繊細だったか。

 ここに来られた事は褒めてやろうが、やっぱり“娘”が来てほしかったねぇ』


「………私の母は、既にない」




 様子見の為の攻撃を凌いだからとはいえ、脆弱だなどと侮辱されれば障る。

 その着方も含めて非難して見遣れば、ふんっと鼻で笑われた。


 まるで小僧にでもなった気分だったが、少なくとも見惚れているわけでなく、萎えているのだ。

 一切通じておらず、歯噛みするしかないが。




『あぁ、嘆かわしい。娘に恵まれないからと息子どもを生かしておいたが、《阿修羅の血》は残せてもお前のような男が来るなら、産んだすぐに首を折ってやれば良かった!!』




 阿修羅の血と言われて驚き瞠目するも、次のセリフに苛婦かと理解して身を引く。

 その時閃いたのは、始祖の伝承である。




「《エ・イシュ・リィラ》」


『………祖の名を覚えていたのか。多少は可愛げのある』




 闘争と血、色を好む、鬼女。

 いつからか現れた彼女は次々と国を滅ぼし、そこで生き残った男を捕虜として子を産んだという。

 腹を痛めて産んだ子も時に殺した彼女は、晩年、生き残った十名程の息子に所有する財を渡して姿を消した。

 その息子たちが、阿修羅族の祖である。


 今の一族でも知らないような古い伝承だ。

 羅刹王が信奉していなければ、自分も忘れていた話である。


 それを思い出してみると、一気に血の気が引いた。

 母のイメージを受けたのも無理はない。神に等しい御方である。

 逆鱗に触れて惨殺されても可笑しくない相手であり、そうして見れば《闘気》を微小まで抑えているのも理解した。

 そして、今まで想像したこともないが、自分が全く及ばぬ相手であるのも須らく理解する。

 慌てて片膝をついて礼を取れば、『今更か』と大笑いされた。




「知らぬとはいえ、ご無礼、お許しください。エ・イシュ・リィラ


『まぁ、良い。幾星霜、私を継ぐ“娘”は現れなかった。

 が、お前という“息子”が来た。これも運命だと思おうものさ』




 頭を垂れた自分に、鬼女は少し視線を遠くへやって悲しみを示した。


 男嫌いなのかと思えるほどに“女”にこだわったという話は伝え聞いていないのだが、記録を残す事が稀な我が一族では珍しい事でもないと思う。

 好奇心が湧くが、興を削がれたと首を切られても困る。


 促すような視線を向けると、再び彼女は豪儀に笑った。




『名は?』


「《シグ・ウ・ル》と申します」




 正式な名を告げると、彼女はこれ以上ない程目を見開いたかと思うと、一瞬後に再度声を響かせて笑い転げた。

 古語からも両親は立派な名を授けてくれたと思っていたが、何がおかしいやら鬼女は腹を抱えて大笑いしている。

 気づかれぬ程度に目を細めたら、相手が謝罪するように片手を振ってきた。




『大層な名を授けたもんだっ。いや、……だからこそ、この場へ来れた、か。

 気を悪くするなよ、褒めている』


「はっ」




 色々と思うこともあるが、神のようなモノの考えなど凡庸にはわからないものだろう。

 素直に返事をすると、彼女は目尻に浮いた笑いの残滓を指で飛ばし、途端に威圧のある冴えた表情へと戻った。

 そうしてどこに持っていたやら、朱の塗られた美しい杯を手に取っている。




『お前が“娘”であれば我が全てを譲り渡そうものだが、“息子”には少々荷が重い。

 しかし、血の記憶を辿ってきた以上、私からは祝いを授けねばならん。

 故に、“杯”を取れ、我がシグ・ウ・ル。《立志》を認め、貴様に教えてやろう。

 ――――――――――《酔い》をな』


 無造作に付きだされた杯は、清酒のような濁りのない液体がある。

 彼女の言葉は、成人の儀を匂わせていたが、言うまでもなく元服して久しい彼は困惑気味に彼女を見た。

 しかしそれなりに嗜み、断る理由もないので、恭しく両手で受け取る。

 満足そうに微笑んだ彼女に一礼。




『我が血は《闘気》、戦と勝利を好む。《酔い》を知らぬ子よ、存分に味わうが良い』




 促され、盃に口を付ける。

 鼻腔を巡ったのは、やはり清酒の香りであり、喉を越したあたりでカッと胃が熱を持った。

 香りの良い、味も飲みなれた酒とあまり変わりがない酒である。


 飲み干し、再度恭しく返せば、受け取ったそれにさらに手酌で酒を注ぎ、彼女は片手でくいっと空にする。

 再び杯を返されるかと思っていると、彼女は意味深に目を細め低く笑った。




『不思議そうだな、坊。まぁ、死ぬかもしれんが、運良く生き残れば、また会うこともあるだろう。

 愉しむが良い、《酔い》をな』




 渡した錦を肩にかけ、盃片手に微笑む姿は、前以外は短い髪型でもあり、男にも見える。

 不穏な言葉を含めて凶暴な笑みを見せた祖は、そうして姿を揺らがせた。


 摩訶不思議が解ける兆候かと思ったが、急に鼓動が早まり、違うと気が付いた。




「―――か、はっ!?」




 急に暴れだした心臓は、収まる気配なく鼓動を高める。

 体が熱くなるというより、首から上に圧迫感をもって血を押し上げ、その圧力に恐怖を覚えた。


 まるで毒を煽ったかと思うほど、身体が火照り、逆に内臓は冷えを感じる。

 血の流れが速まり、当然呼吸数も増え、そうして換気が上手く行かずに息苦しさを訴えてきた。


 だが、身体が意志を受けつける余裕はなく、吐けぬ息にさらに首が締まる感覚を受け、思わず床に倒れる。

 体が軽く振動を受けて、その衝撃で少し肺が動き、僅かばかりの息を吐く。

 瞬間楽になったかと思えば、次は息を吸えずにこめかみに汗が流れた。



 初めて酒を、それも大量に一気飲みした訳でもないのに、中毒を起こしているかの様だ。

 顔に血が流れ込み、眼球が飛び出すのではないかと言うほどに痛みも感じる。

 舌は噛むまいと奥歯を噛みしめると、力を入れ過ぎた様で一部欠けた。

 それも吐けないので、逆に呑み込むしかない。あまりの苦しさに涙が浮いた。


 しかしながら、ほんのわずかでも動けない。

 苦しく、身体が緊張で硬くなり、動かそうという意志も薄れる。

 それより助かりたい一心が強く、短い呼吸を試みながらそのまま倒れて悶えた。




 どの程度の時間かわからないが、まだまだ苦しみが続く。

 手足が自然と震えだし、それを視界の隅で見て押さえつけたが、その手も震えていた。

 体の表面に熱があるも、中身が寒い。

 口が渇くが、端からは唾液が漏れ、自身の情けない姿が思われた。


 渾身の力で体勢をうつ伏せにすると、自然と掴むように手が動く。

 飲ませられた酒の効果か、肌が赤黒く変色しており、まるで死体の様だとさらに恐怖した。

 自分の体であったのに、誰かの死体を見ている気分で、せり上がった吐き気のままに大量の胃液が唇から漏れた。



 ぎゅぐっと喉が鳴る。

 呼吸が完全に意志の統制を放れ、勝手に「ひっ、ひっ」と言い出した。

 舌も噛み、「ぅぐ」と呻く。

 思ったより浅いようだが、血の味が広がり眩暈がする。


 肌は赤黒く、どうやら爪が伸び、舌を切った感覚から、口の中は牙が何本か生えたようだ。

 苦しみに喉を掻き毟ると、肌が傷つき痛みを訴える。

 これは、死ぬなと理解した瞬間、漏れたのは笑いだった。




「ひっ、はっ、はっ…ぁっ」




 こんなに苦しいのに笑いが口に付くとは最悪だと思いつつ、止まらない。


 その頃、自分が本当に考えているかわからなかったが、笑いが収まらないのは覚えていた。

 呼吸が出来ずに苦しみながら、その状態で笑いが止まらず、歪んだ顔のまま悶え、掻き毟り、床か何かを馬鹿みたいに殴る。


 自分はもう狂って死ぬのだと、事実として理解した。


 つい先ほどまで、何か成し遂げなければならないと考えていたと思うのだが、思い出せない。

 笑い転げて仰向けになると、ふと、黒い短髪の女の後姿が脳裏を過る。

 誰だったかと宙に手を伸ばした。

 どうにもこうにも、残渣でさえ攫めそうにない無力感が残っただけで、さらに自虐で笑いが出る。




「………大丈夫か?」




 上からかけられた低い声に、伸ばす手の先の誰かを見る。

 声は男の声で、先ほどの祖ではない。


 どうやら祖はもういないようで、男の声は無感動に自分に向けられているようであった。

 苦しげに笑い転げている男がいれば、多少なりとも同情なり嫌悪なりを示すと思うが、その男は見かけた鳥にでも声をかけるように淡泊だった。


 何とも答えようがないのでそのままでいると、手の先に、黒の背景に溶け込むようにして闇色の何かがいる。

 決して人の形を取ってはいないが、闇に浮かぶようにして瞬く、対の紫が目であることに気が付いた。




「酒精に侵されたようだな。こちらを見るな。俺にとって酒は、嗅ぐのも毒だ」




 言われて呼吸が止まれば世話はない。

 どうにも動けぬので、咳き込むようにして笑いを収めようとするが、余計に酷くなった。


 自分を見下ろしているらしい上から、ため息。

 闇色の何かは、紫の目を細めると闇色の煙のような塊から何かを落としてきた。




「酒が過ぎれば、苦しいだろう。良くわかる。俺も今は疲労しているが、これも縁だ。

 多少はマシ程度にはしてやろう」




 胸の上に落ちたそれを拾い上げれば、目と同じく、紫の、恐らく紫水晶の欠片があった。

 それが指先でゆらりと反射したかと思うと、ふっと呼吸が楽になり、鼓動が若干落ち、首から頭にかけての血の逆行と圧迫が消える。


 ほっと息をつくことが出来、安堵のあまり鼻がつんとした。

 爪が伸び、赤黒い指は、その瞬間するすると元の手に戻り、目を閉じて手を投げ出す。

 頬を伝ったのは、冷や汗か、涙か。




「どうやら《魔》の者らしいが、あまり血を過信するな。体質や慣れもある。

 自分で程度を覚えてから、《本性に戻る》ようにな」


「《変化》…?」


「血が薄まっているようだから…っと、知らずに使ったのか? 素質があるやら、ないやらだな」




 闇色の煙の塊が伸びてきて、額を撫でる。

 まるで子供にするようだと思ったが、感触は人の手で、日に暖められた地面のような仄かな温かさがあった。

 女ではない、固い手だが、ほっと目を瞑る。




「悪いが、異界の事は良くわからん。俺では力不足だろう」




 そこまでの義理もないと言われたが、どうやら落ち着くまでは様子を見るつもりのようだ。


 男の声は、次第に呼吸が落ち着いてきている自分を見て、闇色の手らしきものを引っ込めた。

 闇に浮かぶ双眸が消え、彼が場を去るのが分かった。




 再び誰かが脇を通り過ぎる気配。

 疲弊して伏せている自分の隣でぴたりと足を止めた者からは、衣擦れの音がした。

 それと恐らくこちらに顔を向けたのだろう、微かに鈴の鳴る音がする。

 がさりとなったのは、何かの生花か。


 相手に敵意はないし、こちらは疲労が強く顔も上げられないのだが、それは小さく息を吐いたかと思うと、自分の頭に何かを当ててきた。

 かさりとなり、それが葉を付けた枝であると知る。

 葉から零れたのか、頭に冷たい粒を感じた。水が滴っていたのだろう。




『―――――邪まな澱に触れたか、鬼子。一つは、古き闇の王。一つは、滅びの残滓。それと…―――』




 微かに顔を顰めたような、微妙な間を取って、枝を持った人物は微かにそれを左右に振った。

 冷や汗をかいた体には冷たい水滴が落ち、髪を濡らす。


 今日は水難でもあるのだろうか。水、酒、水と、濡れてばかりいる気がする。

 わずかに顔を上げると、榊と桂の枝が見えた。

 その奥に、硬い表情の女の顔。長い黒髪が印象的な巫女だ。




『―――道を塞ぐなよ、鬼子―――』




 『戻りゃ』と促され、ばさっと枝を顔に押し付けられた。


 思わず目を閉じた顔に、水飛沫。

 硬い葉の感触が不快で軽く身動ぎすると、刹那、ガシャとガラスが壊れる間際の音がした。
















 般若もかくやという顔をした男が、明らかに凶器となるようなオーラと、それを纏った手を振り上げたのが見えたが、即座に恐怖したのは、それと引き換えに身を襲った悪寒が外へ出る事だった。




 藤崎鏡花。

 享年:乙女。


 新聞に年齢刻まれるくらいなら、多少笑いが取れるこっちの表記が良いわ。


 そう考える事が出来ているのが不思議だが、身体はちっとも動かない。

 特に、右腕から半身、鈍くて重い。

 しかも最悪な事に、顔を地面に擦り付けた姿勢で固まっている。


 実の所どうしてこうなったのか理解不能なのだが、咄嗟に発動した《感応力》で、今まで出口だと思っていた安全地帯が危険地帯に取って代わる、B級ホラーも真っ青なテンプレ展開を体験したのは、何故かはっきり覚えていた。

 死亡フラグ確定と思い返して、動かない体のままがっかりして目を閉じる。


 幹部のよしみで、助けなさいよ、《No.1》。


 特に何もできないので心中で愚痴っていると、隣に誰か立つ気配がした。

 これは、噂の暗黒神と初顔合わせかと期待するが、頭にがさりと何か枝のようなモノを当てられた所からすると、何か違うような気がする。




「冷たっ」




 思わず声が出て、出た事に驚いて口を噤む。


 上からは微かに笑う声が聞こえたが、どうやら女性らしい。

 時折鈴が鳴る所や頭に当てられた枝といい、巫女の様な気がする。


 萌えまで完備か、DH社うちと全く関係ない事を考え、《No.9 プラチナ》の存在を思い出して納得した。




『―――――罰当たりな事を。澱を払っている―――』




 かさりと枝の葉が鳴って、上からさらに声をかけられた。


 考えるに、“澱”とはこの右手から体に入って来ようとしていた未確認物質だろうか。

 というのも、上からの声にあわせて枝の位置が、頭、首、背中、腰、右腕と移動してきている。

 最後にそっと指先に枝が触れ、青青しい葉を見る事が出来た。


 体は動かないものの、《感応力》で一時押しとめていた圧力が消えたような気がする。

 礼を述べようと目線だけでも動かそうとするが、不意に指を撫でていた枝が撓り、葉先の水滴が顔にかかった。




「わぶっ」




 片眼に水滴が入ったと顔を歪めれば、途端に体が動いて、右手がガラス地の円柱を弾いた。




 ―――――――――ガシャッ。




「あっ」




 即座に首を動かして、テーブルから零れそうなアイスティのグラスを見る。

 咄嗟に手を出してぎりぎりの所で掴め、彼女はほっとした。




「――――――えっ?」




 カランとグラスの中の氷が鳴る。


 左手にあるのは、おやつ時に子供達と飲んだアイスティだ。

 中途半端に飲んだので、氷の下の方にまだ残っているのも、記憶にあるのと全く同じ。


 白昼夢を見ていたというのか、急に夢から醒めた状況に、頭がついていかない。


 とにかく、落ちて割れずに良かったと、グラスを戻そうとした彼女は、手首を強引に掴まれテーブルに押さえつけられ、結局グラスを滑らせた。

 痛いと悲鳴を上げる間もない、手首を押し付け、擦り延ばし、捻挫させられる瞬間の痛みに、肘をテーブルに打って息を詰める。




「「わわわっ!」」」


「オっと…」




 彼女の横には、本日のおやつ時と全く同じ席順で、子供達とアルルカンが居る。

 落としたグラスをフォローしてくれたのは、アルルカンのようだ。

 とすると、この右から、暴れるウナギを抑えつけるように腕を掴んできたのは、想像がつく。




「何するのっ」




 痛みの代わりに強く言えば、顔を上げる前に無理やり掴まれた腕を引っ張ってきた。

 肩が抜けるかと思うような、強い力で。


 正直、脱臼したと思ったぐらい痛みが来て、けれど、文句を言う前にヤツの胸板と言える厚い大胸筋にぶつかり、頭痛もした。

 グラスを取ろうと中途半端に中腰姿勢だった彼女を引き寄せたので、太腿やら何やらでテーブルにぶつかり、上の食器がガシャっとなる。




「―――馬鹿者」




 全身痛いと呻く彼女の上からは、その一言だけが降ってきた。


 鏡花からすれば、献身的な行動から半死体験、そして理不尽な暴力である。

 そろそろ我慢の限界かと自覚して、馬鹿はどちらだと口に出そうと相手を見上げた瞬間、記憶にある般若の顔と重なって、恐怖のあまり沈黙した。


 彼の怒気の表情など、見慣れたと思っていたのはどうやら間違いらしい。


 その眼力と歯軋りが聞こえるほどに噛みしめられた口元を見れば、咄嗟に殺されると思って身が引くのも仕方がない。

 凄みが増していると顔を引き攣らせていると、彼は片腕で乱暴に鏡花の顎を掴み、変顔で益々歪んだ彼女に向かって、爛々と光る灰褐色の目を間際まで近づけた。




「―――二度と………良いか、二度と、だっ。俺より、先に、逝くな」




 ―――――――――死ぬ時は、俺の腕で死ね。




 言い含めるとは軽い表現だろう。

 脅しつけるように唸られた言葉は、途中から微かに耳に届く程度に下げられた。


 どこの亭主関白宣言だと脳内で突っ込みが入るのは、彼女の性分か、思考が停止しているかだろう。


 ただ告げられた言葉に、彼女は夢で見たように感じていた出来事が、決して夢でないと気が付いた。

 だって、右手が動いているじゃないかと現実逃避しようとしたのを、金にも見える鷹の目が引き戻す。



 体はどこそこぶつけて痛いし、折角ツアー前に直した化粧もこれではダメになっているだろうし、でも、仮にも抱き留められ、肌に触れる熱は現実のもの。


 あぁ、助かったんだと、やっと彼女は実感した。


 今頃震えが来る鈍い彼女を、鬼のような形相の男が両腕を掴んで立たせた。



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