side3 《時忘れ》4
苦難を乗り越えて栄光を掴むのが、正しい物語かもしれない。けれど、僕は英雄にはなれなかった。
ただ、それだけの事。
まだ三十代だと言うのに、衝撃的な出来事が立て続けに起こるものだ。
人生に絶対はないと思い知らされ、傷つく暇もなく弄ばれ、悟り諦めたようでそうでない。
僕の人生はどういったものかと、その度に考えさせられた。
僕の正義は何か。
この世界を預かる《神》や《使者》に言わせれば確かに意味はある事なのだろう。
といえ、大事な人も巻き込んで人や世間を消してしまう事なのか。
何度も、何度も、何度も問い詰め繰り返し、《外》と言う名の機関以外の場所が《黒い霧》となっている事にももはや動揺しなくなり、内面の感情を発散するように自傷行為を行い、思い出したように何かに懺悔し、奮い立たせるように過去の栄光を喚き散らして、隣に居ない彼女に気が付いて泣き喚き、ともすれば疲弊して座り込む。
そうして短くはない期間を過ごした当時の僕の選択は、自分の良心に従う事を最上とした。
「もう随分考えたよ」
久しぶりに隔離病室を訪れたディレイに僕は開口一番にそう言った。
複雑そうな顔はそのまま、ディレイも先を促すように頷く。
「僕は、国際機関に“銀の霧”について、公表する」
「馬鹿な事を…っ!! 君は世界を見捨てるのか!?」
告げた瞬間、威嚇するように怒鳴られた。
それを目に入れ、至極落ちついた心情の僕は穏やかだ。
「アレは、僕でなくても制作可能だ。それに…オリジナル以外に、どうこう言う気はないよ。
出来ないしね」
機関の内部で活動している“銀の霧”も含め、自分の手で作ったモノだからこそ、僕はこの場に居ても自爆コードを入力することが出来ると考えている。
自爆が万が一失敗した時の為に、アレを保護するであろうチームと敵対している機関を利用することにした。
それほどまでに、僕は、アレが許せなかった。
未だ僕に何かしらの期待を寄せる彼、ディレイ=キーンにもまた、言葉を尽くして説明してきたつもりだが、欠片も通じていないらしい。
「《マッド=マスクイア》……君は愚かだ。
私やチームのメンバーたちもまた、家族を、恋人を失くしている。君だけじゃないっ」
「それは―――………申し訳ない、《ディレイ=キーン》」
チームのリーダーとしてではなく、僕はチームを抜ける意味も込めて彼を呼んだ。
「だが、僕はグレイスを失ったから、こんなことを言っているわけじゃない」
まだ何とか宥めすかそうとしているディレイを感じたが、はっきりと彼と目を合わせて僕は口を開く。
それでも「だが…っ!!」と言いつのろうとする彼を手で制し、続けた。
「彼女を失ったことは、僕にとっては最大の不幸で、後を追うことも考えたのは確かだ。
けれど……、けれど、だよ。
それよりも僕は自身の矜持の方が強かったんだ。だからこそ、ここまで生き延びた。
そして、生きて、考えた。僕の、研究者としての、良心を、だ」
「マッド…私は……っ」
メンタルの弱いチームメイトとしての僕を見ていたのだろうディレイだが、真剣に目を合わせることで真摯な心が繋がったようだ。
同じ研究者だからこそ何か感じるのか、噛みしめるようにして言葉を我慢している彼の顔が見える。
「君の言を信じない訳じゃないが、僕の作ったモノは“医療技術”としてのナノマシンであって、“世界に作用する”モノじゃない。ここまでの事態を引き起こしておいて、誇れるわけがないじゃないか。
人の命を救うモノが、もう、何人も命を奪っている。
僕の、理想はそこで失敗だった。
それ以降、僕の研究を誰かが元にして何かに着手しようと、それは僕の関与する所ではない。
次の人物の責任だ。……僕は、もう、アレを愛せない」
事態は最悪であるが、これは間接的な自殺ではない。
爆発的に人口が減っている今、研究者のDNAは貴重であり、恐らく国際機関は僕を生かすだろう。
死ぬ可能性も否定はできないが、研究所のメンバーが離脱している事も含め、国際機関の必要とする研究に一生を捧げることになると思う。
それが、僕の意志を殺す事であっても、僕は、僕が納得できる責任を取りたい。
「君は―――……っっ」
噛みしめた歯の間から唸り声が聞こえた。
かと思うと、一気に襟首を掴まれ持ち上げられ、一時動揺する。
浮いた顎を引くと、彼の凶暴な表情が見えた。
何度も宥められ、喝を入れられた僕だが、彼のこの表情を初めてだ。
まるで泣いているようだなと茫然とし、次いで顔を殴られて意識を飛ばしかけた。
目の奥で火がつけられたかと思った。
「……君しか、居ないんだ……これは、《神》からの神託である。
君は、《選ばれている》んだっ!! 私ではない、君だっ!!!」
僕の首をぎりぎり締め上げながら、彼は絞り出し、絶叫するように告げた。
「非科学的すぎるんだよ…」と告げようとして苦しげに顔を上げれば、尊敬してやまない彼の、嫉妬らしき感情を受けた。
凡庸だと思って苦しんだ時期の僕を見ているような気分になり、やっと、彼との因縁を理解した。
僕らは、鏡のようなモノである。
石が穴に落下するように、すとんと僕の心に収まった思いは、次には親愛のような形になり、僕は泣きながら睨み付ける彼に微笑して見せる。
「すまない、《ディレイ=キーン》」
「認めない…認めないぞ、《マッド》…っ!!」
一定時間を過ぎても居座ろうとする彼を看守が引っ張りだし、僕は国際機関へと通信を繋ぐ。
恐らくまだ抵抗しているのだろう彼の喚き声をBGMに報告を受けた国際機関は、後日の公開裁判を約束した。僕は、心の底から安堵した。
『狂科学者の、恐るべき禁術』
号外新聞の一面に載った記事に驚愕を浮かべたらしいディレイは、レジスタンスとなりかけていた研究所間の同盟を取りまとめ、急ぎ僕の元にやってきたらしい。
そう、事後に馴染みとなった看守の一人から聞いた。
《世界》と《神》の幻影を見た日から、何度も清濁を行き来した僕の意志と覚悟は固まっていたというのに、彼もご苦労な事だ。
放っておけ、天然野郎。
着慣れたよれよれの白衣に、下はごくラフな普段着。
唯一気を使っていた靴は、彼女からの贈り物であるブランド物の革靴であったが、これまた適当に扱っていたために草臥れた印象になっている。それでもお気に入りである。
無造作に伸ばしているのに、何故か艶はなくならない自前の金髪を軽く紐で纏め、不精髭はそのまま、噛み切る程に強くタバコを噛んで、僕、マッド=マスクイアはへらりと笑った。
目の前には、牛乳タンクのような銀色の巨大円柱。
『派手に行こう!』と、遊園地に来た子供みたいに高揚した気分で照明を扱ったので、ドーム内の全ての照明が点灯している。
天井がとても明るいので、天からの祝福を受けているようだと胸を高鳴らせた。
周囲はあらゆるエネルギーが抵抗を通って鈍い機械音が轟き、それ以外の物音などない。
当然、人の気配もない。そうでなければ、この良き日に、相応しくない。
ぷっと短くなったタバコを吐いて足先でもみ消す。
そうして一箱消費した頃に、足音が聞こえてきて振り返った。
「《マッド……=…マスクイア………》」
怒気を押し殺したような低い声が届き、さらにマッドは最高の笑みで迎える。
「やぁ、《ディレイ=キーン》」
「何を、したんだ―――っ」
踵を軸にしてひらりと廻り、両手を広げたマッドに彼は周囲を見て唸った。
そのまま片手で持っていた何かを床に叩きつけると、ゆらりと、やたらメタリックな煙が発生した。
それを目にしてマッドは見開き、そしてケタケタと爆笑する。
「あぁ…僕の尻を追いかけるだけじゃなくぅ、僕の“最愛の息子”まで下僕にしてしまったのかぃ?
とんだ、変ぇ態野郎だっ」
笑いながらマッドは近くにある銀色の円柱の側面を撫でた。
囁くように顔を寄せて、気味の悪いにやにやした笑みを反射させる。
「ねぇ、《グレイス=リリー》。酷い話じゃぁないかっ。
僕だって、最初っから、こんなバァカだった訳じゃない。
君が死んだと思ってから、僕は、真っ当な科学者足ろうとしたんだよ?
それが、それが…くふふふっ、くふくふ…っ」
罪人として国際政府に裁かれようとしていたマッドは、レジスタンスとなった元チーム、その有能すぎるリーダー、ディレイに救出された。
その一件をマッドがずっと思っていることはわかっていたディレイは、それよりも優先するべき項として霞の形をした機械、“ナノマシン”に警戒態勢を取らせる。
この研究所の配置人数は三十余名。
その全てが一瞬にして消え失せたのを、監視機器が告げていた。
「其処から離れろ、《マッド=マスクイア》っ!! それが何かわかっているのか!?」
国際機関から救出されたマッドだが、その後は以前よりさらに暴れ、元々の性格が変わっていた。
それでも国際機関が潰れ、新政府となったディレイ達、元チームの意向に沿って研究をしていたので、時間をかければ彼もまともになるとディレイは考えている。
マッドの後ろにある銀色のタンクは、DNA選別の為のマザー。
国際機関が厳重保護していたマザーは、それだけでこの世界を管理する人工知能である。
この世界の心臓ともいえるそれに、不安定なマッドを近づけるのは、流石のディレイも恐ろしいと感じた。
そんな彼の恐れを感じているのかいないのか、以前よりふてぶてしくなったマッドは撫でている手を止め、不思議そうにディレイを見返した。
「何? 何か、だって? もちろんさ、《ディレイ=キーン》。
僕の彼女、《グレイス=リリー》さっ!!!」
「マッド……それは……」
気狂いと呼ばれるようになった、突飛なマッドを宥めようと一歩踏み出したディレイに、急に声のトーンを落としたマッドが返す。
「《マザー=リリー》」
ぴたりとディレイの足が止まる。
すっと頬を離したマッドは、くいっと眼鏡を上げると、にやにやとした笑みを浮かべたまま肩を竦める。
道化のようなそれにディレイは眉をひそめた。
「わかってくれとは、もう言わないよぉ、《ディレイ=キーン》。
君が、この世界の《神の使い》だっていうのは、嫌というほど知っているさ。
何せ、国際機関の議長でさえも、サイコ野郎だったからねえぇぇぇぇっ」
「あははははははっ」と大声で笑い、何がおかしいのか腹を抱えて踏鞴を踏むマッドに、ディレイは困惑の表情を浮かべた。
「おんや? 君、知らなかったのかい? 《天敵》じゃぁないか、それも、《君ら》の」
笑いを堪えるような細目のマッドに、ディレイは盛大に顔を顰めた。
空間縮小を世界の滅亡と考えていた彼には、この世界に、それらに協力する馬鹿が居るとは思ってもいなかったのだろう。何せ、世界に在る全ては、神の所有物で同じ物である。
だが、敵にも意志があるとすれば、人に感染して内部より崩壊を狙うのかもしれない。
「…………………《波》……」
「―――っ、そう! そうだよ、《神の使者》殿ぉ! 彼は、《波の使者》だったのさあぁ」
これほど笑える話はないと再び爆笑するマッド。
彼は“銀の霧”と“ナノマシン”との関係について公表、次いで国際機関に公開裁判にかけられた。
その後しばらくの間は世間の目に晒され、窓際から石を投げられる事など常で怪我が絶えなかったが、それでもマッドは満足していた。
人に恨まれるのは当然であり、死という安易な形でなく、無償の奉仕と自身の屈辱や後悔で精神的にも罪を償っていると納得できていたからだ。
その期間は本当に短く、ディレイ達に追いつめられた国際機関の議長との会話で終わっている。
議長と呼ばれた人間は、人らしい意志が残っているも《波》の思考と重なっており、その為に動き、その最期は鍵となるだろうマッドにしこりを残して亡くなった。
一方、国際機関を倒し、議長を自殺に追いやったディレイの方は、過ぎた事だと頭を振った。
仮に議長が人類の裏切り者であっても、もはや彼はこの世に居ない。後味は悪いが、そういう事だ。
「それとこれとは、何の関係もないだろう。……君には聞きたいことがあるが、まずは戻ろう」
「―――――――――関係なぁい?」
手を差し伸べたディレイに、マッドはぴたりと大笑いを止めて、大きく首を傾げて彼の方に向き直る。
「君ぃは、こぉれだぁけ関わってきた僕にぃ、隠し事をしているのかいぃ?
そぉれともぉ、《神》に教えてもらってなぁいのかい?」
「―――何を……?」
「ははぁ。―――…まぁったくぅ、…小狡い《神様》、だっ!!!」
彼との会話から何かを納得したと、マッドは片手を振り上げてマザーの側面を思いっきり殴った。
どさっと重い音がするが、もやし体型のマッドと金属ボディのマザーならば、ダメージを受けるのはマッドだ。
一瞬呆けたディレイだが、一度痛みに歪んだ笑みを浮かべたマッドの顔を、鈍い音をして指が変形、痣が広がる彼の手を見て慄いて一歩踏み出した。
その間も、マッドはマザーを殴る手を止めない。
「“愛ぃしたモノだからこぉそ、けぇじめをつけたぁい”」
―――どぐしゅっ。
「“《神様》だなぁんて不確かぁなものでなぁくぅ、今の人ぉたぁちによってぇ、裁かれたぁい”」
――――――べぐじゅしゅっ。
「そうとも」
マッドの様子に用心して近づくディレイが目に入らないのか、演技がかったセリフを一つ一つ吐きだしながら、マッドはマザーの側面を執拗に殴る。
また急に天井のライトを仰ぎ見たかと思えば、刹那、残り数段と近づいたディレイを見据えて、諦めたかのような虚ろな目を向けた。
「―――――――――僕自身を」
薄っすらと微笑んだとディレイが疑問に思う瞬間、穏やかで理知的な以前のマッドの幻影の足元から《黒い霧》が吹きだした。
思わず飛び下がるディレイと替わり、彼の傍を漂っていた《銀の霧》が牙を剥く。
獲物を見つけたアメーバよろしく、素早い動きで絡まる霧。
一気に鼓動が早まったディレイもまた、消えたマッドの姿を探して顔を左右に向けた。
「今度は、僕が教えてあげよう、《ディレイ=キーン》」
ふと耳元で声がした。驚いて振り返るが、マッドの姿などはない。
「全ては神の理・宿命であって、責任は神にある。この世界が崩壊することに、君の責任はない」
やはり耳元で声がする。
ディレイは目に見えないマッドの姿を探すが、霧は互いを食み合うだけで他に変化はなかった。
「僕の作品が、“銀の霧”にされてしまった事は神様の防衛手段だったらしいから、まぁ、もう良いよ。僕は怒ってない」
以前のマッドと同じような穏やかな声が続く。
「どこに居る!?」と声を張り上げれば、ディレイの声だけが周囲に響いた。
「でもさぁ…《グレイス》が消えたのは《外》に出現ポイントを持つ“黒い霧”じゃなく、“銀の霧”なんだよ。“黒”に噛みつく“銀”なのに、だ」
そこでぐっと周囲が冷えた。
マッドの感情の触れを、声色でなく、周囲の空気の変化から感じたディレイは、嫌な予感のままにマザーから背を向けないよう注意しながら後退する。
「だから、《双方》に尋ねたよ。“グレイスの犠牲は必要だったか?”って」
出入り口を背にしたディレイは、いつでも行動できるよう出入り口を解放する。
その行動も含めて、声音だけのマッドは笑いを堪えていた。
「どっちも《人間》じゃあないから、まともな答えは期待してなかったけれどね。
けれど、《ナノマシン製作者》確保のために、《波》に喰われないよう彼女の魂を《保存》したなんて言われちゃったら、さぁ~あ~………笑うしかないよ」
「……じゃあ、私達の家族が消えたのは…」
出入り口から出ようとしたディレイの足が止まる。
「勘が良いねぇ」とマッドに正解を貰った彼は、もう一度部屋の中、黒と銀の霧が霧散する向こうを睨んだ。マザーが鎮座する場所を目指して、ゆっくりと足を前に出す。
「ま、グレイスが居なくても僕らは自殺をしななかった訳だから、そこも、もう良いよ。
心が痛むけれど、過ぎた事だ」
「何を言うんだ! ソレが《神》の好意だと、君は言うのか!?」
実にあっさりとマッドが告げると、神を信じ切っていたディレイは声を荒げる。
今迄チームリーダーとして出せなかった感情を発露している彼に、マッドは苦笑するように、我慢強いと評価した。彼の妄信は、脆い心の支えだったのだろう。
「実際に《好意》なんだよ。僕からすれば、君だって似たようなもんさ」
―――好意の押し付けはね。
声に変化はないが、ディレイはそこでマッドが厭らしく笑うのが想像できた。
ぞくりと、何故か寒気が走り両腕を摩る。
そうとも、マッドが彼に告げたいのは神の人とは違った思考と思惑だけではない。
「言っただろう? 僕は、自分の誇りを守りたかったんだ。
この世界にボロボロにされた僕の矜持を。それを君は、二度も三度も……」
――――――踏みにじったんだ。
囁く声はとても冷たい。
瞬間、ディレイは動揺も困惑も消して身を翻した。顔色は青い。
やっと意志が彼に伝わったと、マッドは笑う。そう、声だけで。
「だからね、《ディレイ=キーン》」
「やめろっ、《マッド=マスk…」
怒鳴りながらドアに飛びついたディレイだが、その耳元からざぁっと黒い霧が広がり、彼の背後に笑みを浮かべたマッドの姿となった。
「責任持って、僕が君を殺してあげるよ」
――――――さよぉならぁ。