side1 仲の悪い二人
ふと手を伸ばすと、つるりと磨かれた強化ガラスに指先が触れた。
そのあまりに儚い呈を催すガラスの、意外に強固なバリアのすぐ向こうでは、この船を包む無音の闇が広がっている。
と言っても、闇の中には幾億、いやそれ以上の輝かしい星々が自己主張をしあっているのだが、これに美しいと感嘆するのは、最初の数回のみだ。
毎日毎日眺めていたら、嫌でも飽きる。
そして、繰り返しているうちに嫌だという感情もなくなり、ごく普通の、ありきたりな日常の風景になるのだ。
室内の明かりのせいでガラスに映る姿は年頃の乙女。
憂い気に細められているが、勝気そうな、切れのある黒い瞳に、邪魔にならないようにボブに切った、船の外と同じ漆黒の髪。そして光に当たりにくい環境にあるのか、やや白っぽくある、黄色味の肌。すっと伸びた首から下は、体に沿った材料不明の、あえて表現するならライダースーツを纏っている。嫌みなく着こなしているのは、そのきつめの顔立ちのせいかもしれない。
まるで80年代SFそのままのような船の内部は質のいいオフィスの環境で、人の住む環境とは違った空気と少しばかりの観葉植物が設置されている。
何もないかわりに、ほぼ直線の通路の見通しはとてもよい。
だからこそ、彼女は少しばかり気を許していたのだが。
「…何を、している」
内心では故郷の緑が懐かしいと溜息をついた女に、通路の角から現れた男が声をかけた。
中心街でも見ないような長身。
色の薄い、白に近い灰髪を持つ男の目は黄金色の鋭い鷹の様。顔立ちはどちらかというと厳つく、長身であることやその年若くとも就いた地位のためか、存在感や威圧感がある。
地位のある者独特の雰囲気と細かい技巧の服装も、嫌味なくらい似合っている。
それとも、そういう地位にいると次第に染まっていくのだろうか。
「別に、何も」
睨まれるだけならまだしも、詰問にもまたうんざりした様子で女は答えた。
居住区へと続く通りの途中で、何気なく立ち止まってしまった事や、外を眺めていた事を後悔して。
女が逸らしていた視線を向けると男は未だ鋭い視線を向けている。
強い警戒心や猜疑心はとても重要なことだろうが、それを受ける身としては面白くない。
「…ただ、外を眺めていただけ」
女は肩を竦めて、愛嬌のある仕草を見せた。
如何にもわざとらしいそれに、男は鋭い視線をさらに鋭く、疑いの表情をさらに深く刻んで女を見た。
女は、その突き刺さって出血多量になるのではないかと思われる視線の中に映る自分の姿を見て、さらにうんざりした表情をする。
「それはそうと。…どうだったの、ファートの沙汰は?」
目の前の男に何か毒を吐かれる前に話題を転換しようとして、女はそう言った。
今、彼らの所属する組織では持ちきりの話題であり、強い警戒心を解こうとして何気なく提案した話題だ。
だが女は重要な事を失念していた。
あまり表情が変わったところを見たことがない男の、今までになかった険のある顔を目の端に止め、ようやっとそれに気がついた。しまったという顔をしたが、遅い。
「愚かな《弟》は、もちろん…」
自嘲染みた低い声で男が答える。
女は自分の失態に舌打ちしたかったが、さらに悪印象を残すと思い自制し、続きを止めようと口を開きかけた。
だが、男はそれを無視して、さらに冷ややかに続ける。
神経質な目だと女が思っているそれを、どこか無機質的に、本当に何でもないことのようにしてから。
「…裏切り者には、制裁を」
低く、もっと愛想があれば艶やかに響くだろう男の声は、静かに響いて霧散する。
人通りが少ない事を相手に気づかれない程度に確認し、女は言われた事にさもありなんという納得の頷き顔で答え、小さく続けた。
「…悪かったわ。シグウィル」
そこで終わろうとするが、男からやけに大きな咳払いをされ、一瞬で元の嫌そうな顔に戻り、付け加えた。
「……様。」
そうして男、シグウィルがまた不機嫌そうな、迷惑そうな顔になるのを黙って眺めた。
顔を合わせてから二年近くが経ったというのに、この男は愛想笑いの一つもしない。
当初、女は新参者、男は組織の上位幹部ということでまったく歯牙にもかけられなかった。
だが、敵対組織との戦闘を繰り返すうちに彼女はどんどん上位へと起用され、それに伴い彼と顔を合わせる機会が増えた。
さらに、シグウィルと違い、社交性のある彼女は、同じく組織内では浮いた感のあった彼の弟、件のファート氏とも交流する機会が増え、必然的に(恐らくファートの好意だったのだろうが)シグウィルとの交流の機会(あくまで機会のみだ)が増えた。
「精々気をつけることだ。余所者が不審な行動を取れば…我ら《阿修羅》は――」
「お助けくださいとでも、泣いて縋りつきましょうか。その、慈悲深い御心を頼りに」
男の続く台詞を、皮肉を混ぜて強く塗りつぶし、女は挑戦的に睨み返した。
片眉を綺麗に吊り上げた男を見て、女は満足そうに小さく息を吐くと続ける。
「《深紅のナイト》。貴方、私の種族名を忘れたのかしら。
私は、か弱い人族よ。姿形は貴方達、阿修羅族と似通っているけれど、性能が違うと豪語しているのは、貴方達でしょう?」
さらに眉間のしわを深くした男に、一歩近づくようにして女は凛と背を伸ばした。黒いボディースーツを窮屈そうに見せる、女独特のラインが存在を主張する。
「私は、《Darker Holic》No.6、《深淵のキョウカ》よ。確かに、《阿修羅族》ではないけれど、傭兵としてこの戦艦に貢献してきた…その功績は貴方も認める所ではなくて?」
皮肉気に歪んだ女の表情を見て、男は一瞬沈黙する。
迷ったというわけではなく、男は会話をすることで生まれた些細な苛立ちを飲み込む間を作った。
「確かに。……貴様の戦果は、人族にしては上出来だ」
「光栄至極」
戦闘が、力が、全てのこの一族はその価値観に一致する者称える。
例え、自身にとって最も疑わしき存在であろうと、素直に認める。
男が答えたことに、女は恭しく礼を返した。それが、男の気に食わない仕草とわかった上で、だ。
鼻白んだ男に、女は陽気な足取りでその脇を通り抜けた。
警戒心なく振る舞われ、男の方が身を緊張させた。そういう行動は自然に、かつ素早くできる彼女だが、男にはそれが理解できないらしい。女は、一瞬強張った体を見ても知らないふりをする。
「行きましょう。《王様》が呼び出しているのでしょう?」
男がわざわざ女に会いに来る用事といえばそれしかない。
男は、未だ自分たちの王を無遠慮に呼ぶ女の背中を睨みつけ、それも無駄と思ったのかさらに渋い顔をして後ろに続いた。
「悪役はエンターティメントだ、…か」
廊下を居住区とは逆の方向へ脚を進めながら、女は自社の上司の口癖を呟き、もう一度外を見た。その、《宇宙》と呼ばれる空間を。