side5 悪役と悪役
「あっらぁ、お邪魔ぁ、だったぁ、か、なぁ~?」
肌の上を吐息が掠める感覚に、いよいよと身を竦めた鏡花だったが、上から間延びした声が降って来て、ぎょっと目を開けた。すぐ視認出来たのは、至近距離で止められた蘇芳の不機嫌顔であり、その向こうにへらへら笑う白衣の男、DH≪No.4≫のマッドが立っている。今までの状況とマッドが居る事が一致出来ずにぽかんとする鏡花と対照的に、その距離のまま、蘇芳は彼に視線も向けずに吐き捨てた。
「取り込み中だ」
言って、ぽかんとしたままの鏡花に口付る。反射的に目を閉じた鏡花を、彼は背にした木に押しつけ、隠す様にして抑え込みにかかった。口付の感覚は短く、降って来るように繰り返される。
それを受けながら、憶測ではあるが、仮にマッドの乱入もなく、鏡花も一度ぐらい諦めて素直に受けていれば、こうも執拗にされる事はなかったのではないかと思った。単に意固地になっている空気を、蘇芳から感じたのだ。
けれど、二人きりの状況下ならともかく、人前。はっと我に返って、背に回った腕への抵抗を試みる鏡花は必死に顔を背けるものの、無理に向けるように蘇芳の片手が顎を掴む。
「だよねぇ。早ければ2時間後、遅かったら37時間後ぐらいに迎えに来るから、ヤるならさっさとヤってね?」
スタッフの帰還が行われていない事に疑問が起こったDHから派遣されてきたマッドであるが、彼が降り立った時は結構良い雰囲気で、ほんの少し蘇芳に同情が浮かんだのだ。婚約者と人並みな経験をしてきた同性として、ついつい、普段の間延びしたものでなく、ごく普通に受け答えしてしまう。2時間で大丈夫かなと、彼がぼんやり考える暇があったか、鏡花が蘇芳を押しのけて立ち上がった。
「待って!! 置いてかないで…っ!!」
通りですれ違った猫を見るような目でマッドがちらっと二人を確認すると、引っぱたかれたらしく片頬を赤くして唸っている蘇芳と、毛並みを逆立てた猫の様な鏡花が肩で息を切らせていた。不機嫌そうな顔で大きくため息を吐いた蘇芳であるが、彼女を解放したと言う事は、むしゃくしゃしていた気分もそれなりに落ち着いたのだろう。何より、これ以上鏡花を怒らせると良くないと、見ていたマッドも思った。それとお節介かと思いながらも、蘇芳の心境を慮り一言助太刀する。
「≪No.6≫ぅも、そろそぉろ、諦めなよぉぅ。悪かぁ~ないと思うよぉ。他人事だけどねぇい。僕~ぁ、馬に蹴られたくないんだよねぇい」
「私が弄んでいるような言い方は止めて頂戴。というか、まだ仕事中なんだから、この話は終わり!!」
痴話喧嘩を見られた羞恥か、顔を赤めながら目を吊り上げた鏡花は、睨むようにしてマッドに詰め寄った。他にも何か色々と言いたい顔をしているが、ややこしくなる前に我慢する事にしたようだった。そちらの方が仕事も早く済むとあって、マッドも実にあっさり頷く。
「ま、い~ぃ、け、どぉ~ぅ」
言って、マッドは白衣のポケットを探ったかと思うと、ひょいっと鏡花に何かを投げ渡した。乱暴なそれに取り落としそうになりながらも受け取った鏡花と蘇芳に、彼は「ひっひひ、ひっひっ」と怪しげな笑いを浮かべながら説明をしてくれる。
「個体識別用ぉう、の~、機器と思ってくれてぇ…ひっひひ…良いよぉ~ぅ。ちょ~っと、特殊ぅな方ぉ法で、転移すぅるからねえぇぇぇっ」
それが腕輪の形をしていたから、鏡花たちは揃って嫌な顔をする。気付いたか、マッドは『ほれほれ』と言うように、片手で輪を作り、片手へ抜き差しするジェスチャーをした。一度唇を尖らせた鏡花ではあったが、その動作に促されるように左手に取りつける。ピタッと嵌った所も、嫌な記憶が呼び起こされて片眉を上げた。
彼女の動作を見ていた蘇芳も着け終わると、マッドは早速、片方を腕まくりした。そのまま何処かに突き出すように手を伸ばすと、不思議な事に彼の手先から前腕の半分ぐらいが消える。
「え、何それ」
「えぇ? 言ったでっしょ~ぅ、特殊ぅ、だってぇ」
鏡花が呟いた事に律儀に応えて、マッドはそこから横に手を動かした。びりっと、ビニールを藪く様な音がして、赤黒いドロドロが、マッドの腕があった空間から滴り落ちる。酸化しかけの血の色と見た目の感じから、既に鏡花は及び腰になった。
「さ。どぉぞぉ」
ぼとぼとと、赤黒い何かは空間から染み出して、人一人が屈んで通れるぐらいの大きな円を作る。当然中は赤黒いドロドロの溢れていた。空中に浮いているから、きっとこれが転移の為の空間なのだとわかるのだが、入ったら最後骨まで消化されそうな見た目と雰囲気に、鏡花は盛大に、蘇芳も固まったように、顔を歪める。
「これ、大丈夫なの? 胃袋みたく消化されそうなんだけどっ」
背に腹は代えられないとわかっているものの、どうしても確認がとりたくなって鏡花は言うが、それに「大丈ぉ夫、大ぁぃ丈夫」とマッドはへらへら笑う。
「言ったでしょぉ…くふふふふふ…個体識別用ぉう、ってぇ…ひゃひゃひゃひゃひゃっ!!」
「いやー! 聞かなきゃ良かったー!!」
耳を押さえて絶叫する鏡花は、後ろに下がろうとしてどんっと蘇芳にぶつかった。「あ、ごめん」と短く振り返ろうとした鏡花だったが、逆にドンと押し出されて赤黒い何かにどぼんと浸かる。
「いやぁー!! 生温かいぃー!!」
粘液みたいな見た目に反して、感触は砂のような泥のようなモノであったが、人肌程度に温かいのが、先程想像した胃袋みたいで鏡花は泣き事を言う。彼女を押しやった犯人は、悲鳴を上げる鏡花を愉快そうに指差しで笑うマッドに対して、迎えに来てくれた事への礼を簡単に言うと、一度息を吐いて覚悟を決め、足から入り込んだ。自重に従って落ちる沼のように、彼も足から太股、腰、肩と、ほとんど全身浸かってしまう。それを確認してから、マッドがにたりと、絶対碌でもない事を考えている笑みを浮かべた。
「じゃ、また、後でぇ」
マッドの声を合図に、残っていた首から上をも沈めるように、天井部分の赤黒い何かが降って来て、流石に無表情だった蘇芳も含めて二人の悲鳴を呑みこんだ。
多分、時間としては短かったのだとは思うけれど、赤黒いドロドロが首から顎、口腔内をじわじわと犯して行く感覚は、体感時間では随分と長かった。あと数分でも長かったなら、鏡花は発狂していたのではないかと言うほどの恐怖感である。
それが、唐突にぞわぞわと体から離れていった時の安堵感は相当なものだった。普段、強風が嫌だのなんだの言っていたが、アレに比べれば快適な転移方法だとつくづく思う。
そして、そう思ったのは彼女だけではなかったらしく、普段泰然とした蘇芳が珍しく、解放された途端に座り込んでしばらく動かなかった。
「じゃ、これはぁ、回収ぅ~」
言って、特に抵抗しない彼女らから、マッドは素早く腕輪を回収していく。気がつけば、鏡花たちはDH社らしい、けれど何処の部屋かわからない場所に居た。唐突に現れでもしたのか、鏡花が顔を上げて目があった人物は、ピタッと止まっていた所を動きだす。
右には家庭教師と言われても信じてしまいそうな、厳格そうな顔をした老婦人がピンと背筋を伸ばして鏡花たちを見、左には上等なワインに似た瞳を持つ、変に大人びた笑みを浮かべる少年がマッドをやんわりと迎え、最後に中央には、中に様々な光が飛び交う黒いボックスを持った、スーツ姿の優男が居た。
「”お帰り”」
中央の優男が、サングラスの下でにやりと一言発した。
途端、それまで腰をつけていた蘇芳が、はっと正気に戻ったように反回転して膝立ての位置に動く。呆けたような気配から一転、以前の、No.2の時のような爛々とした金の目をしていた。
劇的な変化に驚く鏡花を放置して、彼は声の主から左右の人物に視線を動かす。
「……今ので二回は死んでるよ。期待外れも良いとこだね」
一番最初に口を開いたのは、右に居た老婦人。彼女はそう言うと、いつの間に持っていたのやら拳銃を見せびらかすようにくるりと回して、再び何処とも知れぬ場所へと隠した。それから黒い部分がほとんど見えないような目を鏡花に向けると、「そっちは死んだ事にも気付かなそうだがね」と酷薄に笑う。
それまで何ともなかった鏡花であるが、老婦人から強烈な痺れのような、恐らく殺気を感じて慌てて一歩後ろに下がる。途端にどっと汗をかいていることに気付いた。≪職人≫もそうだが、よくよく自分の気配を変えれる人間がいる事は彼女も知っているけれど、実際に目で見るというのはまた違うものだ。
「ご婦人。若い者をあまり悪戯モノではないよ」
この強烈な老婆の横にいるからには一般人ではないだろうなと思った少年が、そう言って嗜める。こちらも鏡花が感じられる強烈な気配は纏っていないのだが、劇的に変化してすぐ気配を消した老婆を見るからに油断はできないだろう。というか、彼らが本気になればあっさり鏡花は死んでしまうのだろうなと、彼らのセリフから読みとれたが現実感が伴っていないので、心臓が暴れていても、上手く頭が理解してくれない。
「ほら、お嬢さんの方はぽかんとしてしまっている。可愛いね。後で少しばかり血を頂けないかな」
言って、すっと移動してくるのは見えていたはずなのに、鏡花は一瞬で前に来られたかのような、そんな錯覚をした。その間、ずっと少年のワイン色の瞳が輝いていた気がする。
まだ大人になりきれていない小さめの柔らかな手で頬を撫でられ、くいっと首を傾けさせられる間、彼女もましてや蘇芳でさえ動けなかった。左の首筋にふっと少年の息がかかる。何だか、ヴァンパイアみたいだなと他人事に思うぼんやりとした思考の中で、最近お馴染になってきた鋭い声が鏡花の脳裏に響いた。
――――――澱を、払え!
ぎくりと、呆けていた事を叱咤される声音に鏡花は尻餅をついていた。どさっと鈍い音にはっとしたか、蘇芳が膝立ちの姿勢から、腕を横一閃し、一歩前に出る。
少年は一瞬だけ目を見開いたが、蘇芳の大きな前進に薄らと笑って宙へと逃げた。蘇芳も鏡花も目を軽く見開く。少年の背からは蝙蝠の翼が生え、彼はくすくすと微笑を繰り返すと、くるりと宙を回って、元の席の背もたれへと腰かけたからだ。
「貴重な血は、流石に易々と飲めないか」
それほど残念そうには聞こえない声で少年は笑い、蘇芳は様子を見てゆっくりと立ち上がった。鋭い視線を少年やら老婆やらに投げている蘇芳に対して、中央の優男はにこやかに笑う。
「まぁまぁ皆、挨拶はそれぐらいで。今、会社が大変な状況なんだからさ」
言って彼は黒いボックスを机に置くと、すたすたと蘇芳の前まで歩いて来た。流石にずっと座ったままだと格好がつかないと鏡花も立ち上がれば、蘇芳が彼女を庇うように半歩横にずれる。
あまりでしゃばるなと言われたような気がして、またいざとなったら遠慮なく盾にさせてもらおうと思い、鏡花は半歩ずれて彼の後ろに隠れてしまう。
「ともかくお帰り、≪No.6≫、≪No.11≫。結論から言わせてもらうけれど、今SRECとDH社が大変なんだ。どうやらDH社にライバル社が出来てしまったようでね。そこが弱ったSRECを襲撃したようなんだよ。心当たりあるかい?」
そこで思い出したのは、SREC派遣中、転移装置に入ってから起きた出来事である。「あ」と考えが顔に出てしまう鏡花と、慎重に頷いた蘇芳の様子を見て、スーツ姿の優男は軽く肩を竦める。
「そういうわけで、他の幹部が出てしまっていてね。竜人に転移は酷だから、≪No.4≫に頼んだというわけさ。遅くなってごめんね、≪No.6≫」
話しを振られて、鏡花は「いえ…」と反射的に返事をしてしまう。すると、ぐいっと、抵抗しなかったのだろうか、蘇芳を押しのけて、優男のサングラスをかけた顔が近づいた。
先程までへらへら笑うマッドに似た人の顔に見えていたそれが、真っ黒い影に白い歯だけ浮かんでいるように見えて、鏡花は口を押さえて後ろへ下がった。どんっと結構な勢いで背中が壁にぶつかるが、その衝撃よりも、まだこちらを見ている真っ黒な影が恐ろしい。
黒いサングラスがどこかわからないぐらいに真っ黒な人型の影は、こちらの様子に何かを感じたのか、白い歯の部分をさらに三日月に歪めて、にたりと笑った。