黒髪悪女のヴィオレッタ
今は昔、ここではない世界。
その世界の、とある国では、水の資源がとても豊富だった。
半年に一度開かれる、王城での舞踏会。
貴族たちの情報交換の場として王が設けた、絶好の囀り場所。
とある貴族は、使用人の部屋に風呂を設置したという。
とある貴族は、領民のために広場に足湯を用意したという。
使用人が全員入れる、大浴場。
町民、ひとりひとりが入れる個人風呂。
水という財源を、お湯に変えて、どれだけ自分が使っているか。
へたな宝石類よりも、その話は貴族の見栄に華を添えた。
さて、ここ数年、話題にあがる女性がいる。
名前は、ヴィオレッタ・ベルムレス。ベルムレス伯爵家の長女だ。
噂では、長く豊かな、うねりのある黒髪。
その髪に見え隠れする、白真珠のような体の輝き。
誰もが引き込まれる、深い海のような瞳。
赤い薔薇のような唇から零れるのは、芳しい吐息。
誰もが絶賛するその女性は、男性たちの話の華だった。
とある貴族は、彼女と、ダンスホールのような広さの浴場で共に踊ったという。
とある貴族は、彼女と、色とりどりの花びらが浮かぶ風呂で戯れたという。
彼女と過ごしたことが、一種のステイタスとなっているかのような現状。
女性たちは、彼らを冷たく見つめ、その一方で、ヴィオレッタの美を知りたがった。
黒髪悪女のヴィオレッタ。その噂は、鳥のように、あちこちを飛び回っている。
話題にあがるヴィオレッタだが、彼女が舞踏会に現れたことはない。
彼女に文句を言いたい者は、彼女の父親、ベルムレス伯爵に、遠回しな言葉を届ける。
ベルムレス伯爵は、その度に眉間に皺を寄せ、こう言うのだった。
「うちも躾をしているのですが、なかなか……。そろそろ、アイツを除籍すべきかもしれません」
噂は踊る。
放逐された彼女は、誰のところへ行くのか。
彼女自身に苦言を呈したい者たちは、その行く末を、噂を辿って、追いかけるのだった。
一方、噂の女性、ヴィオレッタ・ベルムレスだが。
舞踏会の時間、彼女は王都の屋敷で、冷たい水に凍えた指先を、その吐息で温めていた。
「はぁ……。掃除、終わりませんわ」
掃除が終わるまで、ヴィオレッタは眠ることを許されていない。
とっくに、夕食の時間は過ぎた。
彼女も、何となくは理解しているのだ。
たとえ掃除が終わったところで、継母に難癖をつけられて、結局は、ろくに眠れないのだろうということを。
ヴィオレッタ・ベルムレスは、不貞の子だと、屋敷で広まっている。
ヴィオレッタの母親は、不貞はしていない、と言ったのだが聞き入れてもらえず、段々弱って、儚くなってしまった。
その後、伯爵が後妻として迎え入れたのは、ヴィオレッタと同じ黒髪の女性。
ベルムレス家に来たときには、すでに子どもを身籠っていた。
当時、ようやく走れるようになったほどの年齢だったヴィオレッタは、屋敷の奥へと追いやられた。
ある程度の教育は受けられたものの、屋敷からは出られない日々。
しばらくしてから見かけたのは、自分ではない娘を抱きかかえる、父親の姿。
ヴィオレッタは泣いた。
父親に駆け寄りたいのに、屋敷の使用人たちが邪魔をする。
部屋に戻されては、悲しくて悲しくて、枕を投げた。
それでも、なんとか父親に会おうと部屋を抜け出した時。
目の前に現れたのは、冷たい眼をした女性。
ベルムレス伯爵の後妻。ヴィオレッタの継母だった。
冷たい眼をした継母は、不機嫌そうに、扇を払った。
「ねぇ、どうして貴女は、使用人の服を着ていないの?」
ヴィオレッタは、幼くとも、言われたことを理解していた。
「わた、私、は、ベルムレス伯爵の子どもで」
「ねぇ、どうして?」
一所懸命喋った言葉も、すぐに掻き消される。
使用人たちにとって、その言葉は重かった。
ヴィオレッタはそれから、物置のような場所で暮らしている。
継母に言いつけられる仕事を、幼いながらに、やり遂げながら。
当時、黒だった髪も、今では埃と灰に煤けて、濁った色をしている。
使用人全員が許される風呂の使用も、ヴィオレッタには許されていない。
何かに使用した水の残りで、体を拭く毎日だ。
何故?どうして?
ヴィオレッタのそんな思いは、使用人たちのこんな話し声で溶けていった。
ヴィオレッタは、母が不貞の末に産んだ子ども。
母方の親族は、ベルムレス伯爵の手紙を見て、すぐに母と縁を切った。
母が何度訴えても、ベルムレス伯爵は冷たい態度のまま。
ついには母は天へと還り、ヴィオレッタは邪魔な存在だとされている。伯爵にとっての汚点なのだ。
ヴィオレッタは泣かなかった。
ただ、とても虚しかった。
幸いにも、幼い子が働く姿を見て同情した使用人が、こっそりと助けてくれたので、ヴィオレッタは成長することが出来た。
継母に見つかると、使用人たちの立場が悪くなるので、あくまで密やかにだったが。
そのおかげで、幼いヴィオレッタは、大人に失望することなくいられた。
義妹が成長すると共に、ヴィオレッタを助けてくれる使用人は減っていった。
ヴィオレッタは、出来るだけ家族の目に入らないように動いていたのだが、
一度だけ、義妹に姿を見られたことがある。
「うわ、汚い」
かけられた言葉は、それだけだった。
ヴィオレッタは、その時初めて、自分の容姿を意識した。
義妹の髪はふわふわで、光もないのに輝いているようで、着ているものだってとてもキラキラしている。
対して自分は、埃のからまった、少し引っ張るだけで抜けてしまう髪。
服だって、サイズが合わなくなって小さい、使用人の服だ。
恥ずかしくなって、ヴィオレッタはより一層、人目を気にするようになった。
そうして、大きくなっても、ヴィオレッタの過ごす日々は変わらなかった。
それなのに。
屋敷に、大きな音が響く。
ベルムレス伯爵が、ヴィオレッタの頬を叩いたのだ。
即座に伯爵は、自身の手を拭いた。
「大人しくしていろと、言ったはずだ」
高圧的な声は、ヴィオレッタにとって、恐怖の象徴。
震えてしまう声で、ヴィオレッタは何とか、言葉を紡ぐ。
「申し訳、ございません」
そうしてまた、大きな音が響く。
再び伯爵は、自身の手を拭き、ヴィオレッタに背を向け去っていった。
伯爵の付き人たちも、伯爵と共に去っていく。
こうしたことは、父親が舞踏会から帰ってきたときの恒例となっていた。
最初は、いつだったか。ある日突然、舞踏会から帰ってきた父親――伯爵に言われたのだ。
「男を誑し込むのも、いい加減にしろ。母親似の屑め」
何のことだか一切わからないヴィオレッタは、素直にそう伝えた。
しかし返ってきたのは、口答えするな、という言葉と、頬への痛みだった。
ヴィオレッタは、何がなんだか、わからなかった。
しかし、そうしたことが、三度続き。
ヴィオレッタは、申し訳ございません、以外の言葉を発しなくなった。
こんな時の情報網は、やはり使用人たちの雑談で。
どうやら、ヴィオレッタ・ベルムレスという女性が、舞踏会で話題になっているらしいのだ。
最初は、単なるよくある遊び事の話として。
それが段々と、大きく、広く伝わっていった。
噂のヴィオレッタの容姿は、長く豊かな、うねりのある黒髪。
その髪に見え隠れする、白真珠のような体の輝き。
誰もが引き込まれる、深い海のような瞳。
赤い薔薇のような唇から零れるのは、芳しい吐息。
「誰よ、それ」
ヴィオレッタは、窓ガラスに映った自分を見て、呟いた。
パサパサの絡まった灰色の髪。
サイズの合わない使用人の服から見えるのは、骨の浮かぶ体。
疲れて淀んだ、掃除のときのバケツの水のような瞳。
笑うしかない唇から零れるのは、怒りの溜息だ。
父親の目は腐っている。
なんなら、頭も腐っているんじゃないの、と、口を尖らせる。
ヴィオレッタの母のときも、ろくに話を聞かなかったという。
「アイツに期待していた昔の私も、どうかしていたわね」
吐き出す言葉には怒りを乗せつつも、何故か頬には涙が伝う。
もう嫌だ、なんて、何回思ったかわからない。
それでもヴィオレッタには、何をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかったのだ。
「お前の婚姻相手が決まった」
廊下でベルムレス伯爵に言われた途端、出そうになった声を、ヴィオレッタは気合で我慢した。
自分に言われているのでは、ないのかも。
そう思っても、恐怖の象徴である父親の視線から、目を逸らせない。
「今から相手の所へ行け」
伯爵は、付き人と何人かの護衛に、目で合図をした。
そのまま、早足で伯爵は去っていく。
「こちらへどうぞ」
伯爵の付き人に言われて、ヴィオレッタは、おそるおそる、案内される方へと向かった。
頭も心も、混乱している。
もしかして、これは夢なのだろうか。
何回か、荒唐無稽な夢を見たことがある。
その夢では、豚に乗った父親が火かき棒を持って追いかけてくるので、ヴィオレッタは地面ギリギリを飛行して逃げていた。
そういった類の、夢なのでは。
茫然としたまま、気付くとヴィオレッタは、馬車に揺られていた。
いや、乗った覚えはあるのだ。
豪華な馬車だったら自分なんかが乗って汚してしまったら、と心配してしまうけれど、
そんな心配のいらないボロな馬車で良かったわ。と、思った記憶がある。
「婚姻……婚姻??」
馬車の窓に映るのは、変わらぬボロボロの姿のヴィオレッタ。
いったい、何がどういうことなのか。
そのことを理解したのは、相手の邸に着いて、だいぶ経ってからだった。
邸に着いた時、ヴィオレッタは、荷物もなく送られたので、所在なさげに馬車を降りた。
辺りを見ると、馬車の御者が、邸の門の前にいる番兵に向かって、何かを渡している。
それが終わると、御者は馬車と共に去っていった。
残されたヴィオレッタを見つめるのは、二人の門番。
一人の門番が、軽く会釈をしてくれたので、ヴィオレッタも同じように返した。
その間に、もう一人の門番が、門を開けて邸の中へ入っていく。
何でもない時間。
ヴィオレッタは、安心していた。
門の前に残っている門番は男性だったが、ヴィオレッタは父の前にいる時のように、恐怖を感じてはいなかった。
すっかり、男性自体を怖くなっているのだと思っていたが、そうではないと知って、ヴィオレッタは少し嬉しかった。
慌てて邸から出てきたのは、年配の男性。
白い髪は上品にまとめられており、服も品が良く思える。
「大変お待たせいたしま……し……た」
ヴィオレッタに目を留めた途端、駆けてきた彼の言葉があやふやになる。
年配の男性は、戻ってきた門番に目を向ける。
門番は、頷いた。
次に、ずっといた門番に、目を向ける。
門番は、深く頷いた。
男性は、息を吸って、吐いて、ヴィオレッタを見た。
「ヴィオレッタ・ベルムレス様ですか?」
様付けで呼ばれたのなんて、いつ以来だろう。
思いながら、ヴィオレッタは返事をした。
「はい」
男性は空を見上げ、目を瞑った。
数秒後、しっかりと伸びた背筋で、ヴィオレッタを邸へと案内してくれた。
父親よりは、話が通じそうだ。
ヴィオレッタは、彼の背中を見ながら、そう思った。
「シンディ!」
邸に入って早々、彼が大きな声を出したので、ヴィオレッタは驚いてしまった。
大きな階段を降りてきたのは、使用人の服を着た女性。
ヴィオレッタは急に、自分の姿が恥ずかしくなった。
「お呼びでしょうか、執事長」
茶色の髪をまとめた、ヴィオレッタと年齢の近そうな女性は、しっかりと背筋を伸ばして応える。
「奥様だ。……あとは、わかるな?」
奥様だと言われ、紹介されたヴィオレッタは、焦ってしまった。
貴族の礼儀は、遠目に見ていたぶんしか、わからない。
ヴィオレッタは、外で護衛にしたように、シンディと呼ばれる女性に軽い会釈をした。
「………………。奥様、長旅お疲れさまでした。まずはお部屋にご案内します」
部屋へ案内されている途中、ヴィオレッタの視界の端に、他の使用人の姿が映る。
そして、ヴィオレッタを見る人見る人が、似たような動きをする。
何度かヴィオレッタを見て、気の毒そうな顔をするのだ。
何となく、ベルムレス家より居心地が悪いな、と思った。
案内された部屋は、とても広くて豪華だった。
ヴィオレッタが驚いている間に、シンディはひとつ、咳払いをした。
「とりあえず……何から説明致しましょう」
説明のために椅子を勧められたが、ヴィオレッタは座れなかった。
自分の姿では、この豪華な椅子を汚してしまう。
言いはしないが、そんなヴィオレッタの動きを見て、シンディは言った。
「先に、お風呂ですね」
何もわからないままベルムレス家を出たヴィオレッタは、名前も知らない人の邸で、裸になった。
「あの、あの、汚れてしまいます!あの、えっと、自分で」
「大丈夫です。もし、体が辛くなったり、目の前が少しでも暗くなったら、おっしゃってくださいね」
「は、い……」
ヴィオレッタは、恥ずかしかった。
人前で裸になったことなんて、ない。
しかも、こんなに汚い自分を、洗ってもらっている。
羞恥と申し訳なさの中で、ヴィオレッタには別の感情も揺れていた。
人の手、気持ちいい。
お湯も、気持ちいい。
入った時も驚いたけれど、とにかく、風呂場というものが、綺麗で広かった。
何かの花の香りだろうか、焦る気持ちとは別に、落ち着く部分がある。
「まだまだ時間がかかりますから、後ほど飲み物を持ってきますね」
「ふぁい……」
ヴィオレッタは、ふにゃふにゃになっていた。
一方、こちらは邸の使用人たち。
ヴィオレッタを邸へ案内した年配の男性。
彼はセバスチャンと呼ばれたがっていたので、セバスチャンと呼ぼう。
セバスチャンは、ある程度の使用人を集めて、話をしていた。
「坊ちゃんは?」
「いつもの賭博場じゃないっすかね。今日、奥様が到着するって話、たしかキーンがしてたっす」
キーンと呼ばれた男性は、慌てて頷く。
「言いました。言いました。しっかりと邸にいるように言いました」
セバスチャンは、大きく息を吐いた。
使用人たちは、困った顔で、互いに顔を見合わせる。
「あの、私、聞いたんですけど……」
恰幅の良い女性が手をあげる。
「旦那様が『黒髪悪女は一目見ただけで魅了されるそうだ。僕は絶対に彼女を視界に入れない!』って」
似ているモノマネに、数人は含み笑いをする。
笑っている場合ではないセバスチャンは、泣きそうになっていた。
「黒髪悪女のヴィオレッタ……ねぇ」
使用人たちは思う。
たしかに、一目見ただけで同情はした。
この、水が豊かな国で、街どころか村にまで個人風呂があり、広場にだってお湯がある時代。
彼女の汚れは、際立っていた。
誰がどう見たって、虐待されている女性だ。
彼女を見た途端、何人かは料理人へと病人食の要請に行き、何人かは医者を呼びに連携をとった。
彼女が間違いなくヴィオレッタ・ベルムレスなのは、御者からの手紙と証文で確定している。
セバスチャンは、坊ちゃんが旦那様になってから増えた胃薬に、さらに追加が必要かもしれない、と思った。
さて、ふにゃふにゃになったヴィオレッタだが、彼女はベッドの中にいた。
何度か意識が戻ったが、数日はベッドの住人になっていなければ、いけないらしい。
名前も知らない人の邸で、裸になった挙句、今度は豪華なベッドを占拠しているなんて。
ヴィオレッタの心と思考は、なかなか現状に追いつかなかった。
ようやくヴィオレッタが体を起こせるようになった頃、シンディが経緯を説明してくれた。
ここは、ゼイビア・ティーコット伯爵の邸。
先代伯爵夫妻は、一人息子にとても甘く、早くに爵位を譲って領地へ行き、領地の仕事をしているらしい。
現ティーコット伯爵は賭博にハマっており、爵位を譲られて早々、ティーコット伯爵家は財政難に陥った。
ティーコット伯爵が先代伯爵夫妻に泣きつくと、誰かと婚姻をして、その家からお金を引っ張ってくれば良いとのこと。
ティーコット伯爵は、裕福な家に声をかけまくった。
しかし、返ってくるのは断りの言葉。
途方にくれた時、彼に声をかけたのは、ヴィオレッタの父、ベルムレス伯爵だった。
ベルムレス家は堅実な仕事ぶりで、財産はそこそこだ。
ティーコット伯爵はお金が欲しかったので、もっと裕福な家と縁を繋ぎたかった。
最初はベルムレス伯爵を無視していたティーコット伯爵だったが、ベルムレス伯爵にこう言われた。
「黒髪悪女のヴィオレッタの名を使い、他の貴族との縁を作っていけばいい」
その言葉で、ティーコット伯爵は、ヴィオレッタとの婚姻を決めた。
「ええと……んっと……。この家、大丈夫ですの?」
ヴィオレッタは、慎重に言葉を選んだ。
ベッドの傍に立つシンディは、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。全員、別の働き口は見つけてあります」
「えぇ……?」
経緯は困ったものだったが、ヴィオレッタは本当に、ここにいて良いようだ。
名前を知った人の邸で、ヴィオレッタはベッドに横たわり、天井を見つめている。
ヴィオレッタの体は、ヴィオレッタ自身は自覚していなかったが、ボロボロだったらしい。
今はまだ治療が必要ということで、ヴィオレッタ自身も、その言葉に甘えている。
環境の変化か、長年の体の汚れが落ちたからか、見事に風邪をひいたのだ。
自分は丈夫な方だと思っていたので、これにはヴィオレッタも落ち込んだ。
そうしている間に、たまに聞こえてくる怒声。
この家の旦那様――ティーコット伯爵が帰ってきた時の声だ。
一度でもヴィオレッタに会えば、彼女が噂とは違う方だとわかる。と主張する使用人たち。
お前たちも篭絡されたのか、僕は絶対に会わない。と怒るティーコット伯爵。
ヴィオレッタは何となく自覚していた。
自分は、高圧的な態度の男性が苦手なのだと。
そのせいで、この部屋から出る勇気が湧かなかった。
「いえホント、人の話を聞かない旦那様で、すみません」
シンディが、ヴィオレッタの体をマッサージしながら、軽く言う。
ヴィオレッタは、申し訳なく思った。
「こちらこそよ。私が自分から、ティーコット伯爵の前に姿を出せれば良いんだけれど」
「大丈夫ですから。ご無理はなさらないでください」
シンディの優しい声に、ヴィオレッタの緊張した心も落ち着いていく。
シンディは、財政難となったティーコット家の手伝いとして呼ばれた、ティーコット家の遠縁の子だ。
ティーコット家とは別の家の伯爵家の五女だったが、働くのが好きで、いろんな貴族家で使用人として仕えてきた。
その中でも、ティーコット家の賃金は低いし、仕える相手も尊敬に値しないので、気楽に過ごしている。
そんなシンディから、ヴィオレッタは色んな話を聞いて過ごしていた。
「ねぇシンディ、貴族の男性って、みんな高圧的で人の話を聞かないものなの?」
ある日、ヴィオレッタはそんなことを聞いた。
聞かれたシンディは少し考えて、話をした。
「とある貴族の女性に仕えた時、こんなこともわからないの?と、その女性に呆れられました。
知っていたし、説明もしようとしたのですが、もういいわ。と言われて終わりました」
「何それ!シンディはとっても物知りなのに!」
そうでもないんだけどなぁ、とシンディは思ったが、ヴィオレッタの言葉が嬉しかったので、そのまま続けた。
「さらに、とある男性は、女性というものはサラダとお菓子しか食べない、と思い込み、
制止する付き人の声も、相手の女性の好物も聞かずに、ずっと女性にサラダと菓子だけを提供し続けたそうです」
「えええ……絶対イヤだわ。世の中には美味しいものが、いっぱいあるのに」
この頃の生活で、美味しいものを知ったヴィオレッタから、実感のこもった言葉が出る。
シンディはにっこりと笑った。
「高圧的で人の話を聞かないヤツなんて、世の中にゴロゴロいます。もちろん、そうでない方も、たくさんいます」
「よくわかったわ」
ヴィオレッタはまたひとつ、世界を知った。
ヴィオレッタの体が現状に落ち着き、栄養を取り戻してきた頃。
ある夜に、いつもとは違う、旦那様の声がした。
「ほらみろ!お前たちは騙されているんだ!!」
怖くなったヴィオレッタは、部屋の扉を閉めて、部屋の隅に移動する。
様子を見てきたシンディが言うには、またあの噂の話だった。
結婚した黒髪悪女のヴィオレッタだが、旦那だけでは満足出来ずに、今もあらゆる場所を飛び回っている。
旦那に隠れた夜の逢瀬でも、その黒髪は闇に溶けることなく輝いている。
そして夜の海のごとき青い瞳は、様子を見に来た使用人たちのことさえ魅了する。
「だから、誰なのよそれ」
ヴィオレッタは、額をおさえる。
今日は、半年に一度の、王城での舞踏会だったらしい。
ヴィオレッタにも招待状は届いていると思うのだが、未だかつて見たことがない。
セバスチャンは届けてくれようとしたのだが、ヴィオレッタの旦那であるティーコット伯爵に破棄されたようだ。
いつも明るいシンディからも、ため息が漏れる。
「私も貴族ではある以上、噂の嗜み方なんかは知っていますけれど……これは酷いと思います」
この時代、この世界のこの国では、噂は娯楽だ。
みんな真偽は二の次で、ただ、その話を楽しんでいる。
今までは、他愛のないものが多かった。
だが、黒髪悪女の噂は、一人の女性を貶め続けている。
「『ヴィオレッタ・ベルムレス』が、舞踏会に出たことがないのも、きっと原因なのよね」
シンディから習っている貴族令嬢の動きで、ヴィオレッタは椅子に腰かけた。
自分が人前に出れば、噂は間違っていると、一瞬で証明出来る。
問題なのは、その心構えがまだ出来ていないこと。
そして、出る手段を持っていないこと。
ヴィオレッタが考え込む隣で、シンディも考えていた。
「私の、以前勤めていた所の人なんですが、噂の在り方について憤りを感じているそうなんです。
少し、手紙で相談してみたいと思います」
シンディの提案が、ヴィオレッタには嬉しかった。
何よりも、一緒に考えてくれた、ということが、とても心に沁みたのだ。
そして、時は来た。
再び舞踏会で何か言われたらしいティーコット伯爵は、ヴィオレッタとの離縁を決めた。
相変わらず、ヴィオレッタは伯爵本人の姿を見たことはなかったが、セバスチャンから渡されたのは、離縁状。
それと、ヴィオレッタの生家、ベルムレス家からの除籍の報せだった。
シンディやセバスチャンから、色んなことを学んだヴィオレッタは、思う。
きっと父――ベルムレス伯爵は、人の目を、とても気にしているのだ。
だから、不貞の子であるヴィオレッタを隠し続け。
例え誰かに見つかってもいいように、黒髪の女性を後妻に選んだ。
家にいるうちに除籍するのでは、自分の躾が至らないせいだと思われるため、婚姻させて、離縁してからの除籍を狙う。
それならば、ヴィオレッタはどうしようもない人物だったのだと、思ってもらえる。
そうするには、ティーコット伯爵は、ちょうど良い人物だったのだろう。
「馬鹿らしい」
口の中で、ヴィオレッタは呟く。
少しでも、人の話を聞いてくれれば。
少しでも、人の目なんて気にせずにいてくれれば。
少しでも、ベルムレス家の誰かが優しくしてくれれば。
――両家は破滅しなかったのに。
「ヴィオレッタ様、準備出来ました」
「ありがとう、シンディ」
ティーコット家に来たときとは、まるで違う動き、姿で、ヴィオレッタは部屋を出る。
「出来れば、向こうでもシンディを雇えればいいのだけれど」
歩きながら、ヴィオレッタは言う。
シンディは、ヴィオレッタがここへ来たときと変わらず、微笑んだ。
「それでは、ヴィオレッタ様の出会いが減ってしまいます。
ヴィオレッタ様は、まだまだこれから、たくさん、素敵な人に出会えますよ」
「色んな人に出会ったシンディが言うなら、説得力があるわね」
二人は笑う。
邸を後にするヴィオレッタを、使用人たちが見送ってくれる。
ヴィオレッタは思う。
最初に居心地悪く感じたのが不思議なくらい、ここで出逢った人たちは優しかった。
きっと、初めて会った人たちだったから、自分が緊張していただけなのだ。
門の向こうには、とある家からの、迎えの馬車。
ヴィオレッタの新しい生活が、その先に待っている。
馬車に乗り込むとき、ヴィオレッタは気づいた。
ティーコット家に来たときは気づかなかったが、門番は微笑んでくれていた。
安心させるように、優しく。
それだけでヴィオレッタは、自分の未来を信じられた。
半年に一度開かれる、王城での舞踏会。
貴族たちの情報交換の場として王が設けた、絶好の囀り場所。
今日も今日とて、基本の話題は新しい設備を搭載した風呂や娯楽場の話だったが。
本日、皆に注目されている事柄があった。
ティーコット伯爵と離縁し、生家のベルムレス家と縁を切った、黒髪悪女のヴィオレッタ。
前々回の舞踏会の後、彼女はステイドッカー公爵の後見の元、コトシェイク伯爵家の養子となったという。
降って湧いたような話に、人々は真相を知りたがっていた。
今回の舞踏会では、ステイドッカー公爵がヴィオレッタをエスコートするという。
ステイドッカー公爵は愛妻家として有名なのに、ついに黒髪悪女の手に堕ちたのか?と推察する者。
いやいや、黒髪悪女の方が、ステイドッカー公爵の恐妻に躾けられたのかもしれない。という者。
ヴィオレッタを養子に迎えたコトシェイク伯爵家との縁を狙う者もいる。
さらに、ヴィオレッタの実母の父と兄弟、実父の両親もこの場に呼ばれている。
一体何が起きるのか、人々の関心は尽きなかった。
会場の端では、ティーコット伯爵が、
「ヴィオレッタは本当にだらしのない人間で、朝、僕が目を覚ますと、
ご自慢のその黒髪で僕にカーテンを作って、馬乗りになっていたんですよ」
と、ご機嫌に語り。
また別の端では、ベルムレス伯爵が自身の両親に、
「ヴィオレッタは離縁されるほどの、どうしようもないヤツだった。いなくなって良かった」
と報告していた。
ある程度の会話が終わった頃、舞踏用の曲ではない音楽が鳴った。
人々が姿勢を正す。
その曲は、王が広間に姿を現すことを示すものだ。
普段の定例舞踏会では、王は遠くから貴族たちを見ているものだったが、今回は降りてきたのだ。
皆に緊張が走る。
そろそろ五十を迎える王が、ゆっくりと、用意された場へ腰かける。
音楽が終わり、人々が王へ礼をする。
王の隣に立つ宰相が、王の代わりに言葉を届ける。
「楽にせよ」
少しの衣擦れの音の後、広間には再び静寂が広がる。
「今回は、皆に紹介したい者がいる」
再び、宰相から届けられた言葉に、まさか、ここで?と、それぞれが顔を見合わせる。
同時に、広場の扉から中央への道に、騎士が並ぶ。
そうして、ゆっくりと扉が開く。
「ステイドッカー公爵と、コトシェイク伯爵の娘ヴィオレッタだ」
我先にと、扉の向こうを見ようとする貴族たち。
だが、扉の向こうを見た者から、その動きが止まっていく。
押しのけるように、見た者。
また、その者をさらに押しのけて見た者。
全員が、何度も瞬きをした。
ステイドッカー公爵は、何度か舞踏会に来たことがある。
王都での祝いの席にも参加するため、貴族ならば皆が知っている。
ならば、その隣にいるのが、噂のヴィオレッタなのだろう。
だが、彼女は。
貴族の令嬢らしく、エスコートされ優雅に歩く彼女の髪が、揺れる。
真っ直ぐ伸びた彼女の髪色は、ベルムレス伯爵と同じ、濃い青色だった。
ヴィオレッタとステイドッカー公爵は、広間の中央にある、人より少し高い舞台へと上がった。
広間にいる人々は、皆、ヴィオレッタのその髪を見た。
彼女を見た者は、ベルムレス伯爵を見る。
そして、その隣にいる夫人と、その娘を。
ベルムレス伯爵の髪は、ベルムレス伯爵家の代々の当主と同じ、濃い青色だ。
しかし、ヴィオレッタの義妹の髪は、黒色で。その流れは、ゆるやかにうねっている。
これでは、まるで。
人々の視線を受けた義妹は、真っ青になり、首を振る。
そして、ベルムレス伯爵と、その両親。ヴィオレッタの実母の父と兄、弟が、目を見開く。
宰相は、声を張り上げた。
「今よりしばらく、歓談時間とする!」
その声が広間に響いた途端、ヴィオレッタの実母の兄と弟が、大きな声を上げた。
泣き声にも似たその声は、人々の心を打った。
ヴィオレッタと過ごしたことがある。と話した男性のほとんどが、顔色を悪くし、退出する。
ヴィオレッタと結婚していたティーコット伯爵の周りからは、人が離れていった。
ヴィオレッタの父、ベルムレス伯爵には、先代伯爵である彼の母が詰め寄っている。
「不貞って……赤子の髪の色が違ったって……まさか黒髪のことだったの!?」
ベルムレス伯爵は外聞を気にして、自身の両親には噂が届かないように徹底していた。
だが、何故か王により、両親が舞踏会へと呼び出されることになった。
そのため、出来るだけ会場の端にいることにして、噂が聞こえないように気を配っていたのだが。
しかしもう、ベルムレス伯爵の頭の中は、真っ白になっていた。
「あなただって、小さい頃は黒髪だったでしょう!?家に、ある、肖像画だって……な、んで、なんでこんな」
ベルムレス伯爵の母は、もう、どこに目線を向ければいいのか、わからなかった。
自分と同じ、青い髪の息子。それと同じ髪色をした、孫娘。
この国では、ベルムレス伯爵の血統だけが、この髪色を持っている。
母親の不貞の末、生まれた子。そんなわけがなかった。
どう見たって、息子の血を引いた子どもだ。
不貞の子が生まれたと息子に言われ、見向きもしなかった孫娘。
一度でも、自分が見に来ていれば。
息子に、どれだけ断られても、様子を見に来ていれば。
ベルムレス伯爵の父が、固く拳を握っている。
彼にも、同じような後悔が押し寄せていた。
ベルムレス伯爵は、わけがわからなかった。
アレは、ふしだらな元妻から生まれた、自分の子ではないモノだったはずだ。
自分が昔は黒髪だった?そんなことは覚えていない。肖像画だって、気にしたことなどなかった。
ベルムレス伯爵の近くでは、ヴィオレッタの義妹も声を上げていた。
「ちがう、ちがうの!わた、私、一回だけ……怖くて、それで……でも、だから、他のは、違って」
彼女は、一度だけ、知り合った令息と雰囲気に流されて、いけないことをしてしまった。
その時に、ヴィオレッタの名前を使ったのだ。
しかし、本当にその一度だけだったのか、人々は疑いをもつ。
義妹が、人々の視線を嫌がって、ある人物に目線を向ける。
義妹と婚約が決まろうとしていた相手だ。
相手は、彼女と目線を合わせることもなく、人の間に消えていった。
ヴィオレッタの継母は、娘の隣で困惑していた。
せっかく夫の両親が来ているのだから、娘のことをアピールしようと思っていたのだ。
だがこれでは、自分こそが不貞をしたようではないか。
ヴィオレッタの実母の兄と弟は、床に座り込んでいた。
自分たちと、自分たちの母は、当初、ヴィオレッタの母のことを信じていたのだ。
だが、父はあっさりと見切りをつけた。疑われるような奴が悪いと。
助けに行きたくとも、見つかれば父に仕置きを受けた。
そんな中、ただでさえ病弱だった母は、さらに弱り。
ヴィオレッタの母が亡くなるのとほぼ同時に、自分たちの母も亡くなってしまった。
黒髪悪女の噂は、彼らの耳にも届いていた。
だからこそ、本当に不貞の末に産まれた子どもだったのだと、思い込むことで心の整理をつけていた。
「馬鹿な奴だ。不貞でなかったのなら、もっと主張すれば良かったのに」
そう、自分たちの父が呟いた言葉に、心が掻き乱される。
弟が、父を殴ろうとする。それを、兄は止めた。
ここは王宮だ。家庭内のことだろうと、暴力沙汰はいけない。
固く手を握り合う兄弟の目からは、絶えず涙が零れていた。
舞台の上では、ステイドッカー公爵が、ヴィオレッタに、何事かを囁いている。
それを受けて、ヴィオレッタはステイドッカー公爵の耳元で、何かを話した。
そうして、二人で小さく笑っている。
ステイドッカー公爵がヴィオレッタに誘惑された、と思っていた者たちは、それを見て思う。
まるで、年の離れた兄妹のようだ、と。
ヴィオレッタの付けているアクセサリーは、ステイドッカー公爵夫人のお気に入りのものが多い。
それを知っている者たちは、彼女は、ステイドッカー公爵夫妻に認められた子なのだと、認識を改めた。
音が鳴る。
王が動く合図だ。
静まった広間で、王は、ゆっくりと立ち上がった。
広間を見渡す。
そして、自身の声を、人々に届けた。
「皆の者、いつも有難う」
威厳のある声は、ゆっくりと、だが聞き取りやすく、広間の隅々まで行き渡る。
「もう知っただろうが、噂というものは怖いものだ。
広まることで、ある事件を覆い隠してしまっていた」
王は、舞台上のヴィオレッタを見た。
緊張した顔のヴィオレッタは、小さく頷く。
王も頷き、言葉を続ける。
「コトシェイク伯爵の娘、ヴィオレッタよ。
辛いだろうが、コトシェイク伯爵の娘となる前の話を、少し、してほしい」
王の言葉を受け取り、ヴィオレッタは声を出す。
「わた……こほん」
緊張から声が震えてしまったのか、軽い咳払いをする。
誰しも覚えがあることだったので、王の目は優しい。
「私は、生家のベルムレス伯爵家ではずっと、母親の不貞の子だと言われてきました。
そして、物心ついたときには、使用人以下の生活を送ってきました」
ヴィオレッタの隣に立つステイドッカー公爵が、手を挙げる。
王は頷き、ステイドッカー公爵が証明をする。
「ヴィオレッタの健康状態が著しく悪かったこと、どんな扱いをされていたかは、私が証明出来る」
ヴィオレッタは、心の中でシンディに礼を言う。
シンディが相談をした相手は、ステイドッカー公爵夫人だったのだ。
ヴィオレッタの健康状態等は、シンディたちティーコット伯爵家の使用人から、ステイドッカー公爵家へ共有されている。
再び、ヴィオレッタは、広間の人々に声を届ける。
「黒髪悪女のヴィオレッタ・ベルムレスの、新しい噂が流れるたび、私はベルムレス伯爵に叱責を受けました。
私ではない、私の噂が増えていき、私は捨てられることとなりました」
黒髪悪女の噂を流していた者たちが、下を向く。
面白半分で話に乗っていた男性が、妻に足を踏まれている。
ヴィオレッタは、礼をする。
貴族令嬢らしい、美しいお辞儀だ。
そして再び、王が口を開いた。
「我々の祖先は、豊富な水の資源を喜び、尊び、その良さを広めていった。
今も皆、この国のどんな人々にも、その良さを広められるよう、尽力してくれていると思う」
この広間の外にも、水は流れている。
王城には、一般公開の許されている場所があるが、そこにだって、足を休められるお湯がある。
「だが、ヴィオレッタはその喜びを知らなかった。お湯を与えられることもなく、水さえも最低限だった」
この時代、この国では、考えられないことだ。
当然にあるものを、与えられない。
それは、重大な虐待だった。
「噂があったからこそ、発覚が遅れたのか。噂があったからこそ、彼女は逃げられたのか。
結局は、結果論にしか、ならないだろう。
噂に惑わされ、対処が遅れたり、人の命が失われてしまうことなど、あってはならないことだ」
何人かが、頷く。
「皆、実在の人物を噂にするときは、その真偽を確かめるように。
願わくば、我ら祖先に胸を張れる行いをするよう、それぞれが心掛けてほしい」
そうして、王はふっと微笑んだ。
「私も、どこぞの山にドラゴンが出た、などの噂は、楽しみにしているよ」
噂を聞いてドラゴン退治に国を横断した若かりし王の話は、皆が知っている。
この時代、この世界のこの国では、ドラゴンは架空の存在だとされている。
しかし、もしかしたら、あの山に隠れ住んでいるかもしれない。
王は、そんな冒険心が疼く噂が、大好きだった。
宰相が、
「実際にドラゴンが出れば、被害は甚大なものとなります。真偽を確かめてもらえると助かる」
と、話を締めた。
王は少し、むくれている。
ステイドッカー公爵とヴィオレッタが、拍手を送る。
連なるように、広間は大きな拍手で包まれた。
さて、その後の話をしよう。
王家から全ての貴族へ、噂は真偽を確かめてから広めるよう、通知がなされた。
その結果、噂の真偽について、よく話し合うようになった為、夫婦間や家族の仲が良くなったり。
噂と全然違った!と、良縁を結ぶ貴族の家が増えたそうだ。
ヴィオレッタの生家、ベルムレス伯爵家は、王家預かりとなった。
ヴィオレッタの父は、更生施設に送られたが、憑き物が落ちたかのように、労働に励んでいる。
ただ、娘への謝罪の言葉はなく、ひたすら、元妻への懺悔を続けているようだ。
継母は、虐待を主導したとされ、さらに厳しい場所へと送られた。
彼女はずっと「彼の子どもだったなんて、私は聞いてない!」と、ヴィオレッタの父を責める言葉を吐いている。
ヴィオレッタの義妹は、自ら修道院へと身を寄せた。
舞踏会での一件以来、人の視線が怖くなり、修道院でも隠れるように過ごしている。
奉仕活動をしていく中で、時間を戻せるなら、あの頃の義姉を救いたいと思うようになった。
ヴィオレッタの元夫、ゼイビア・ティーコット伯爵は、心を壊したようだ。
元々、賭博好きで、人からお金を借りても返さず嫌われていた彼は、孤立していた。
そこへヴィオレッタの件があり、ますます彼の話を誰も聞いてくれなくなったのだ。
妻の顔も知らなかった、と、いくら彼が言っても、周りは誰も信じない。
今では、ぬいぐるみと話をすることが多いという。
ティーコット家は、伯爵位を親戚へ譲った。
先代は素晴らしい方だったのに、とは、舞踏会で誰もが口にする評判だ。
ヴィオレッタがいた頃のティーコット伯爵家の使用人たちは、みんなその親戚お抱えの使用人となった。
その親戚の家には、シンディと仲が良い娘がいたので、屋敷には明るい笑い声が絶えない。
前ティーコット伯爵は、息子を引き取った。
これでようやく、何も気にせず息子といられる。
彼らは、領地の隅で、親子三人、仲良く暮らしている。
ヴィオレッタの父の両親は、慈善活動に精を出すようになった。
親を失った子から、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれ、涙を零すこともあるらしい。
ヴィオレッタの実母の父は、爵位を息子に譲った。
舞踏会の一件以来、あまり人の言うことに口を挟まなくなったようだ。
彼の息子たちは、嫁の言うことを良く聞き、家族仲も良いようで、もうすぐ新たな子も誕生する。
ヴィオレッタの実母の墓は、今も彼らが守っている。
ヴィオレッタは、椅子にだらしなく掛けて、伸びをした。
ステイドッカー公爵家から送られてきた家庭教師は厳しく、こんな姿を見られたら、詩の書き取りが倍増しそうだ。
だが今は、広く日当たりが良いこの部屋には、ヴィオレッタしかいない。
ヴィオレッタの生家、ベルムレスの爵位を継がないか、という話が、王家から出た。
しかしヴィオレッタは、今はもうコトシェイク伯爵家の娘なので、と断った。
実際は、ヴィオレッタは、騎士になりたいなーと、ぼんやり思っていたのだ。
コトシェイク伯爵家は、息子二人が騎士になっている。
やがては長兄が家を継ぐらしいが、その訓練とか、姿勢とか、礼儀だとか。
格好良いなーと、思ってしまったのだ。
あと、自分もドラゴンを探してみたい。
そのためには、ただでさえ人より色々遅れている自分が、家を継ぐための勉強なんて出来るはずがない。
さらにヴィオレッタは、お店の経営もしてみたいなーと、思っていた。
初めて美味しいものを食べた時の感動を、もっと色んな人に知ってもらいたいと思ったのだ。
さらにさらに、自分がお世話になったシンディのように、他家に奉公に出るのも良いなーとも、思っていた。
掃除の腕前なら、今も自信がある。
昔は、自分はどうすれば、何をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。
それが今は、ちゃんとわかる。調べ方も知っているし、歩き方もわかっている。
なんだか、何でも出来る気持ちになっているのだ。
遠く高い、青い空を、鳥が飛んでいる。
澄んだ空のような瞳をしたヴィオレッタは、窓の外を見て、呟いた。
「結局、黒髪悪女のヴィオレッタって、誰のことだったのかしら」