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誰もいない男子更衣室の出来事

作者: 田波 霞一

実体験をもとにしたような、そんな記憶の断片。

雰囲気だけでお楽しみください。

 あの年の夏は、不思議なほど鮮明に記憶されている。突き抜けるような青空と蝉時雨、そして体育館に充満する熱気と汗の匂い。そのすべてが、今も時間を超えて脳裏に焼き付いている。


 男子バスケ部として参加した、夏の合宿。うちは男女合同だったが、男子部員はわずか七人。試合形式の練習が、ようやく組めるだけの人数だ。一方、女子バスケ部は二十人近くおり、実力も県大会レベルで、自然と主導権は彼女たちにあった。男子部員は、いわば補助的な存在として、コートの隅にいるようなものだった。


 午後の練習が終わり、プールでのクールダウンが指示された。近年の殺人的な猛暑ではなかったにせよ、体育館の中は蒸し風呂のような熱気に包まれていた。ドリブルの音がリズムを刻むなか、女子たちはまだ練習を続けていた。


 体育館の隣には、校舎とは別棟のプール施設があり、そのすぐ脇に男子更衣室があった。動線が短いこともあり、僕たちはすぐに着替えに向かった。


 そのとき着ていたのは、学校指定の体操服。生地は汗をたっぷり吸い込み、身体に張りついていて、脱ぐときには少し力が要るほどだった。


 男子更衣室は、コンクリートの打ちっ放しの床に、ブロック塀で囲まれただけの、まさに昭和の建築物だった。天井の換気扇はとうに壊れたのか回る気配もなく、湿った空気がよどんでいる。


 入口にはドアがなく、ただ布が一枚、上から吊るされているだけだった。生地は薄く、光を当てれば向こう側の輪郭がぼんやりと透けて見えるほどだった。両脇の仕切りは板一枚。声も、気配も、容易に伝わる構造だった。布の下からは膝下が見えてしまう。そこまで隠す意図も、設備もなかったのだ。


 いくつか並ぶ仕切りの布のひとつが、視界の端でふわりと揺れた。僕は無意識に、そちらへ一歩踏み出していた。その直後、内側からくすくすという笑い声が漏れた。


(……誰か、いる?)


 足を踏み入れかけたその瞬間、内側から笑い声が漏れた。


「男子の更衣室って、やっぱ緊張するよね〜」


「誰も使ってないんだし、ちょっとくらい平気じゃない?」


「え〜、でも誰か来たら困るよ〜?」


 女子の声。しかも、複数人だった。

 足が止まった。思わず息を飲む。聞き間違いではない。


 視界の隅、布の下から、見慣れた水着が覗いていた。紺地に水色のストライプ。学校指定のデザインだ。足元では慌ただしく動く影があり、微かな衣擦れの音が響く。


 急いでいたのだろう。布一枚を隔てた向こう側で、確かに彼女たちは、男子更衣室の中で着替えていた。


 音を立てぬように後ずさり、何もなかったかのようにその場を離れた。心臓が高鳴っていた。水着だけが理由では、きっとなかった。




 どれくらい時間が経っただろうか。僕は体育館の外壁にある水飲み場にいた。そこからは、プールの様子がよく見える。何気なく目を向けた、その先。体操服姿の女子生徒が、男子更衣室からすっと出てくるのが見えた。


 先輩だった。


 目が合った。ほんの一瞬。

 先輩は少し気まずそうに目をそらした。


 僕も何も言わなかった。ただ、黙って見送った。


 あれは、1984年の夏のことだ。

 あのとき交わした視線の重さと、まとわりつくような夏の匂いだけは、今でも不意に蘇る。


 あの日、あの更衣室で、僕は確かに何かを見たのかもしれない。けれど、見なかったことにした。それで、よかったのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

昭和の夏、あの頃の校舎や空気感を思い出しながら書きました。

そんな記憶の一片があれば嬉しいです。

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