8、日本美術院
学長選挙の結果、塚田は敗れ大学を去った。しかし日本画壇における塚田の絶対的な存在感に変わりはなかった。しかし佐多教授が日本美術院の理事に就任したことで世間の評判は変わりつつあった。歴史てl黄な作品を作るという事はどういうことなのか。
東京芸術大学美術学部日本画研究室の教授となった佐多は日本美術院でも理事の仲間入りをした。塚田は学長をしていたころに個人資格で常任理事に着任していたので、2人とも理事会で毎回顔を合わせることになった。今年度の最初の理事会が5月初めに台東区谷中にある日本美術院の本館会議室で開催された。会議の初めに新しく理事に就任した佐多教授の紹介がなされた。佐多は
「ご紹介にあずかりました東京芸術大学の佐多でございます。日本美術院の理事会の末席に加えていただき、大変光栄でございます。今後はその名に恥じないように制作に励み、検査を重ねてまいる所存でございます。なにとぞご指導のほど、よろしくお願いいたします。」と挨拶した。上手の席で聞いていた塚田は東京芸術大学を退官し公職から離れ、一人の日本画家として理事会に参加していたが、やはり日本画科の世界で日本を代表する作家として、大きな力を持っていた。佐多の言葉を表情は後輩を招き入れる事ができた喜びを表していたが、心の中では邪魔な存在が入ってきたという事で苦々しい思いをしていた。
会議は今年度の行事計画や予算案などの承認と今後の活動方針などが話し合われ、事務局の提案通り承認された。
その後、今年の院展の審査委員の任命の件に入った。事務局からは東京芸術大学教授に就任した佐多教授を審査委員長とする案が提案された。しかしその案に真っ向から反対したのが塚田だった。
「その案はいかがなものだろう。佐多先生は理事に就任されたばかりです。芸大教授という肩書はお持ちですが、日本美術院は岡倉天心先生以来の歴史と伝統があります。役職名で審査委員長に推すのはまだ早い気がします。佐多先生が理事として経験を積まれ、日本画壇にある程度の貢献をなさってから、誰からも反対されないような実績を積まれてからでも遅くないかと思います。」と堂々と反対意見を述べた。会場は一瞬にして凍り付いた。昨年までは芸大教授、学長として審査委員長を毎年勤めていた本人が異議を申し立てたのである。誰も意見を述べられないまま事務局が
「それでは昨年同様に塚田先生に審査委員長をお願いするという事ではいかがでしょうか。」と提案すると参加者が一斉に拍手した。出る杭は打たれる瞬間だった。
会議終了後、出席者は近くに座っている人たちと歓談していたが、佐多は塚田の席に近づき話しかけた。
「先生、送別会依頼ですけどお元気ですか。」とにこやかに話しかけると塚田は
「もう、煩わしい事が無くなったから制作に没頭できるよ。」と愛想笑いをしている。佐多はさらに
「先生、今度はどんな作品に取り組んでいらっしゃるんですか。」と尋ねかけた。すると塚田は
「皇居もに増上寺にも作品を奉納したからね、次は僕のライフワークになるようなものを探しているところだよ。平山先生のように世界平和を願う作品か、地球環境問題に語り掛けるようなものがどうかと思っているよ。」と歴史的な作家となった塚田らしい大きな意見を述べた。しかし塚田の心境は佐多に新しい作品のアイデアのヒントを渡してなるものかと警戒していた。佐多は物おじせずに
「私は人間の心に潜む3毒といわれる、妬み、ひがみ、恨みに満ちた人間の表情に取り組んでみようかと考えています。煩悩から抜け出せない愚かな存在の人間の顔をいろいろな場面で描いてみたいと考えています。」と述べた。塚田は自分の時代に呼応したような大きな考えに対して、佐多の着想が古い昔から取り上げられてきた古典的な内容だったので、やや拍子抜けした感じがした。しかし次の瞬間、思い直したようにはっとした。歴史的な芸術家になろうとするあまり、自分が描く絵は世間から大きな評価を受けなければならないとか、時代を代表する対策でなければならないとか、自分の中に奢りのような物はあったように思えたからだ。塚田が若い時から師と仰いできた平山郁夫先生から常に言われてきたのは謙虚でなければならないという事だったのだ。
「自分は部下だった佐多教授のことを自分の日本画界での地位を脅かす存在として妬み、あわよくば蹴落とそうとしていたのではないか。自分のことばかり考え、日本画界の発展にとってどうすることがベストの道かという視点を失っていた。」という考えが頭に浮かび、これまでの自分の行いをやや恥ずかしくすら感じた。
塚田は佐多の顔を見ながら
「それはいい着想だね。多様な価値観が混在する現代に生きる今の人類は過去の倫理観や道徳観では判断しかねるいろいろな場面に出くわします。何が正しくて何が行けない事なのかも、置かれた立場や周りの環境によっても変わってしまいます。だから人間の感情の表出も、時代とともに変わってきているでしょうね。普遍のものと流行の物と見極めが大事だけど、普遍だと思われたものも変わりつつあるという事です。そんな人間の内面をえぐって表現していくことは時代が求めていることかもしれません。それにしても君と私は求めていくものが常に正反対かもしれません。増上寺でも厳しい龍と優しい龍を描き分けたようにね。」と佐多の画家としての力を認める意見を述べた。佐多は塚田から初めて褒められて様な気がした。准教授として塚田に仕えていた時には、手足となって働きねぎらいの言葉を頂くことはあっても、その成果を手放しに褒められることはなかった。
「先生、有難うございます。先生の背中を見ながら一生懸命に努力してきました。立場は変わりましたが、日本画家の後輩としてこれからもご指導をお願いいたします。」というと塚田は
「これからはライバルとして切磋琢磨し、日本画壇の発展に寄与していきましょう。」と答えた。
院展の審査委員長は塚田に譲ったが、理事になったことは佐多の立場を強固なものにした。院展での出品作品は理事というタグがつけられ、最優秀賞に向けて評価される立場から離れる事ができて、審査委員の目を意識した作品作りではなく、自分がやりたいと思うものを作れるようになった。
佐多教授が次の院展に向けて制作するのは悩みに悩んだが、阿修羅像を描くことになった。阿修羅は奈良時代の制作で奈良の興福寺の国宝館に所蔵されている。古代インド語では生命を与える者という意味とされている。仏教では釈迦を守護する神とされている。また阿修羅は戦闘神とされ戦いを好むともいわれる。佐多は3面ある顔を仏教の世界で3毒と言われる貪り(むさぼり)・怒り(いかり)・妬み(ねたみ)の表情を書き表すことにチャレンジしてみることにした。
佐多は先月から東京中央区の築地本願寺に毎日通っていた。そこで僧侶の講話を毎日聞き、以前から興味があった人間の3毒について質問を繰り返した。解説にあたってくれたのは築地本願寺副住職の前田栄心さんで、出身は新潟のお寺だが西本願寺で修行を積み、築地本願寺で働くようになって20年のベテランだった。釈迦が説いた仏教では人間は108の煩悩があるが、その中でも貪り・怒り・妬みはすべての人間に備わった身近な煩悩で、人間が醜さをさらけ出してしまうものだと教えてくれた。勤勉に働くことが求められているのに惰眠を貪ること、些細な他人の言動に怒ってしまう事、そして他人の幸せを妬んでしまう事。そのどれもが弱い人間の本性に隠されているという。
佐多は築地本願寺で十分下調べをすると、次は奈良の興福寺の国宝館に出向き、5日間黙ってスケッチに励んだ。ただ毎日静かに阿修羅像を眺め、ひたすらデッサンした。その枚数は20枚を超えた。阿修羅像の隅々まで観察し、傷の一つ一つまで把握して東京に戻った。
大学の制作工房に戻ると巨大なキャンバスに描き始めた。描きたいのは3つの顔に現れる3毒の表情だったので、阿修羅像の全身ではなく、肩から上だけの構図にした。普通なら真正面から書くと正面の表情しか見えず、側面の2つの顔は横顔しか見えない。そこで斜め上から3面像を見る視点にして、右の顔と正面の顔の2麺だけが見えるようにして、奥の左面は後方から耳だけが見えるように構成した。
3毒の内、選んだのは右側面に怒りと正面の顔に妬みの表情にして貪りの表情は左側面で見えないことにした。下書きの段階で表情、特に目の表情は100回以上書き直して、その表情から人間の煩悩に苦しむさまを表現したかったのだ。怒りは東大寺の金剛力士像をイメージしてみたが、描いていく内に激しい怒りではなく、穏やかな表情の中の内に秘めた怒りの方が奥深い事に気が付いた。妬みの表情は目が肝心だった。普通の顔の表情のように見えて奥底に欲深い罪深い表情を描けるようになっていった。
完成まで30日ほどかかった。毎日授業に出かける時間以外はほとんど制作に没頭した。完成の日、研究室のスタッフが集まってお披露目をしたがmその圧倒的な存在感に美術専門家が感嘆の表情をしていた。10日ほど乾燥させると運送業者が来てくれて、院展作品送付先である谷中の日本美術院に送付された。理事として恥ずかしくない出来の作品が出来たことに佐多は満足していた。
院展は日本橋三越本店での展覧会からスタートして全国で開催される。院展のポスターには佐多の「阿修羅」が掲載され、当然会場パンフレットの表紙も佐多の作品が使われた。会場でも佐多の「阿修羅」への関心は高く、作品の前は多くの観客が列をなし、身動きが取れないような状況になった。やはり阿修羅の表情が穏やかな中に激しい気性が秘められていることを観客が感じて、口コミでその評判が広がっていったようだ。
会場で佐多教授がマスコミのインタビューを受けた時に佐多はこう言ってのけた。
「古典落語とモダン落語。現代の世相を話題にするモダン落語は話題に新鮮味がある間は観客の興味を集めます。しかし1年経ってしまうと興味は薄れ、古くなってしまいます。しかし古典落語は江戸時代の長屋の町人たちのおかしな話が300年経っても新鮮で新しい発見があり、現代人も共感するところがあります。今回私が取り上げた貪り・怒り・妬みという人間の感情は昔も今も変わらない、人間が生来持って生まれたもので、江戸時代も現代も変わらない古典の要素です。この絵を江戸時代の人が見てもその表情からいろいろなことを考えるでしょう。現代の皆さんにもいろいろと考えていただきたいと思います。」と締めくくった。佐多の名声がさらに高まり、歴史的芸術家への階段を昇り始めた。
美術界での名声をえ始めた佐多。これからの活躍が期待される。皆様からのご感想・ご意見をお待ちしています。よろしくお願いします。