6、対立
増上寺天井画は塚田と佐多の共同制作という形におさまったが、塚田の腹の虫は収まらなかった。2人の対立は下絵を描く段階から激しさを増していった。はたして作品はどんな仕上がりを見せるのか。
増上寺本堂天井画の制作は塚田教授と佐多准教授の共同制作と言う形で折り合いがついた。コンセプトは塚田教授が「玉龍」と提案して佐多准教授も了承した。空から舞い降りる龍は玉を両手に握ることで力は最強になる。最強の龍が寺を訪れた参拝者を強烈な目で睨みつけて威嚇する様を力強く描くことになった。鎌倉時代の運慶と快慶の場合は弟子と親方の関係だが、今と違って明確な徒弟関係が存在したので親方の指示に従って弟子たちが力を発揮したが、快慶の力を信じた運慶が吽形像について任せたのだと考えられている。今世紀の大事業である増上寺天井画の場合、明確な徒弟関係ではなく大学の教授と准教授の関係で、准教授の佐多はこれまでも不満を持っていて不穏な空気は最初から立ち込めていた。そんな中、下絵を描く段階になって2人は激しく対立し始める。
「塚田先生、下絵を描いてみたんですが見ていただけますか。」佐多准教授が塚田教授の部屋を訪れて試しに2つ切り画用紙に書いてみた下絵を広げて見せた。丁寧にケント紙を挟んで筒状に巻き上げた下絵を広げてテーブルに乗せると、塚田教授はデスクから立ち上がり、テーブル横の椅子に座って下絵をじっくりと眺めた。
下絵はテーブル一杯の大きさの2つ切り画用紙で中には雲間から現れた大きな龍が正面に向かって大きな口を開けてとびかかって来そうな目をしている。左右の手には大きなガラスの球を握り、天から勢いよく降り立つさまをあらわしている。色彩は水彩絵の具で軽くつけられているが、下絵という事もあり軽妙なタッチで薄い色を軽く添えられている。佐多は設計図の段階ではこんなものかと思い、イメージを共有するつもりだった。しかし塚田教授は意識がだいぶ違っていた。
その絵を見た途端。塚田教授は徐々に顔を赤らめ
「なんだ、この下絵は!こんな作品になってしまったら歴史的対策とは呼べないだろ。もっと歴史に値するものを描くんだ。」と言って佐多の下絵を見ようともせず、丸めて佐多にお手渡した。
「では具体的にはどんな作品にするんでしょうか。」と佐多が塚田に詰め寄ると塚田は
「君の下絵はよく見る天井画の龍だよ。長野県でも京都でも東京でもいくつも龍の天井画があるだろ。みんな構図が似てるんだ。最初に描いた人は歴史的価値があるかもしれない。でも2番目以降は類似の作品でしかないんだ。オリジナリティが大切なんだ。1000年の歴史の中で誰も描いて来なかった書き方が求められるんだよ。」と言い放ち、さらに続けて
「来週までに僕も下絵を描いてくるから君も描きなおしてきなさい。」と言ってデスクに座り、佐多准教授に背を向けた。
佐多准教授は改めて塚田教授のこの仕事に掛ける意気込みを知った。しかしそれと共に『負けられない』という対抗意識も湧きたたせた。運慶が阿形の金剛力士像を作り、弟子の快慶が吽形の力士像を作ったように自分も歴史的文化財を作成して後世に名を遺す決意をした。
1週間後、再び塚田の教授室に佐多准教授が下絵を持って入ってきた。今度は2人ともが下絵を持っているので佐多はすんなりとは下絵を広げない。相手の塚田教授の出方を見ているようだ。とりあえずの挨拶を済ませると佐多は応接セットのソファーに座った。そして
「教授、どちらから下絵を見せますか。」と教授の判断に任せた。教授は落ち着いた表情で
「君の下絵から見せたまえ。」と指示した。その口調は先週の顔を赤らめて怒りを明らかにした物はなく、落ち着いた雰囲気で不気味さも感じられた。佐多准教授は塚田教授の対応に明らかな敵対心を感じた。佐多のことを敵視しているが、隙は見せず冷静を装っているのだと感じていた。
「では私の下絵から見ていただきます。」と言って持って来た画用紙をテーブルに広げた。
絵は前回よりも色がはっきりと濃く塗られ、迫力を感じる。構図は前回とは違い大きな龍が体をくねらせながらとぐろを巻き、首を凛と持ち上げてこちらを睨みつけている。普通天井画に書かれているような飛んでいるものではなく、地面にとぐろを巻いて座っている。過去に見たことのない龍である。
「いかがでしょうか。龍を落ち着いた姿にして参拝客を見守るような視線にしてみました。」と佐多が説明すると塚田はしばらく眺めた後、腕組みして考えながら
「君はこの龍にどんな思いを込めたのかね。」と問いかけた。瞬時に佐多は塚田の意図を飲み込んだ。歴史的大作には大作ゆえの存在意義が必要である。将来的に作品が展示された時、説明資料にどのようなことを書くのかと言う意味に近い。そのため飾られる増上寺本堂の歴史との関連も重要である。佐多はしばらく考えたが重い口を開いて
「増上寺は徳川幕府将軍家の菩提寺として、上野の寛永寺とともに歴代将軍たちの墓を守り、供養して参りました。徳川300年の歴史を考えると、戦争のない平和な時代が長かったので、私はあえて龍を優しく見守る守り神のように描きたいと考えています。増上寺だからこその龍とは何かを深く考えてみた結果です。」と述べた。すると塚田は
「そうか、そんな龍があってもいいのかもしれないな。君の意見はわかった。では私の龍を見てくれ。」と言ってデスクの上に乗せられていた画用紙を持ってきて、テーブルに広げた。その絵が広げられて龍の姿が現れた時、佐多は息をのんだ。画面の中央に大きく龍の顔が描かれている。その顔の大きさはこれまでの者の比較にならないくらい大きく、画面全体の半分を占める大きさで、口を開けているので今にも食べられてしまうような迫力を感じた。顔が大きい分、体はその顔の後方に少し見える程度で、曲がりくねった尻尾は遠近法で遠くに小さく見えている。龍の周りは雷雲が立ち込め、激しい嵐を連想させる。佐多の龍とは対照的な手法だ。塚田教授は
「どうかね、佐多君。私の龍をどう思うかね。」と自信に満ちた表情で聞いた。すると佐多准教授は時間をかけてじっくりと眺め、意を決したように口を開き
「この龍の歴史的存在意義をどうお考えですか。」と聞いてみた。すると塚田教授は
「増上寺は将軍家の菩提寺だ。庶民の寺とは格式が違う。不逞の輩が入り込んで将軍の墓を荒らすことは許されない。だから本堂を通る参拝客を龍が睨みつけて、不適格なものを排除しなくてはいけないんだ。そういう格式の高い寺に相応しいことが求められると思っている。」と説明した。
塚田の絵を見た佐多は眉をひそめて考えながら
「先生の龍も素晴らしいと思います。増上寺と言う幕府将軍家の菩提寺としての権威を象徴するものになると思います。しかし強い力で睨みつけることも大切かも知れませんが、優しい大きな心で見つめることも大切なのではないでしょうか。北風と太陽はどちらが強いかって言うのは昔からよく言われることですよ。」と反論した。すると塚田は顔色を変えて
「確かに君の言うようなことも大切だと思う。しかし優しい大きな心で見守る様子は仏教美術の仏様が微笑んでいるものくらいしか存在しない。偉大な歴史的造形物では厳しいまなざしの物がほとんどだよ。優しい物を普段は望んでいるが、芸術作品としては東大寺南大門の金剛力士像のような激しい表情の方が人の心を動かすんだ。」と自論を展開してテーブルの上の自分の下絵を手のひらで叩いた。その音を聞いた佐多准教授は精神的な圧迫を感じた。しかしその圧力に屈していてはいつまでたっても自分が彼の引き立て役でしかないことがよくわかっているので、ひるむことなく塚田教授を睨みつけた。
2人の政策方針は真っ向から対立する形となり、折り合いをつけることが難しい状態になってしまった。ひたすらに静かな沈黙の時間だけが過ぎて行った。塚田教授はイライラからテーブルを右手の中指でトントン叩く音を出していた。佐多准教授はコーヒーカップに残った冷めたコーヒーを少しづつすする音を立てるくらいだった。
沈黙に耐えられなくなったのは佐多准教授の方だった。上目使いに塚田を見ながら
「それではどうでしょう。龍を2体描きましょう。紅梅白梅図とか風神雷神図とか歴史的大作の中には左右2つが対照的なものが多くあります。先生が手掛けた恐ろしい龍と私が描くやさしく見守る龍と左右に描き分けたらどうでしょうか。」と提案した。すると塚田教授も表情を変え
」そうだね。お互いに気兼ねなく思い切って描いてみるのもいいかもしれないね。背景の雲や風は橋本君や他の講師たちに描かせるとみんなの力を合わせたことになって良いかも知れない。そうしよう。左側に私が描くから君は右側に描きなさい。左右の龍が厳しさと優しさを表現すすと言うのも新しい表現かも知れないね。」と分担作業を承諾した。佐多准教授は少し拍子抜けした感があった。すぐに分担作業を塚田教授が了承するとは思っていなかったのだ。しかし合意に至ったので立ち上がって手を伸ばし、塚田教授と握手を交わして今後の作業を頑張ることをお互いに確かめ合った。
佐多は自分の部屋に戻ると早速下絵の書き直しに入った。中央に大きく書かれていた龍を塚田教授と合意したように画面の右半分に描くことにした。上から見守るのか近づいて下の方に目線を落とすのかについては、教授が厳しく見張る怒りの龍が近づいて目線を下げてくることを予想して、逆に高い目線から優しく見守る龍を配置することにした。つまり右上を中心に優しい龍が見守り、左下には牙をむき出しにした恐ろしい龍が今にも飛び掛かってくるような構図にしようとした。教授には電話でその旨を確認したところ、先生も同じような考えでいらっしゃった。
佐多の部屋には助手の稲本君が出入りしていたが、佐多の話を聞いて
「先生、私にも是非お手伝いさせてください。」と言ってくれた。そこから3日かけて下絵は完成した。教授の下絵が完成したのを待って2つの下絵をコンピュータに取り込んで合成することで1つの下絵にすることは、若い助手たちがテキパキとやってくれた。
いよいよ制作過程に入るが、天井に設置するという事で、紙に描くわけにはいかなかった。自らの絵の具の重さで落ちて来てしまうからだ。木材の板を張り合わせた物を使うのだが、経年して板が反らないように専門業者が2年以上乾燥させた木材を利用して、あまり重くならないように薄めの板に切り出してもらった。張り合わせもミリ単位の精密さで発注した。
出来上がった板材のキャンバスは枠をつけて大学構内の美術学部の大きめの部屋に持ち込まれ、床に置かれた。縦横12mの巨大なキャンバスが床に横たわり、その上に人が入っていけるように足場が組まれ、空中にアルミの橋桁をかけられるようになった。
チームは3つに分けられた。塚田教授のチームは左側の厳しい強い龍を描き、佐多准教授のチームは右側の優しく見守る龍を描き、橋本准教授を中心としたチームは主に雲や風雨を中心に描き上げる。
佐多のチームのメンバーは助手の稲本と講師の奥田の3人だった。下絵を元に佐多が大まかな輪郭線を引き、稲本と奥田は鱗などを精密に描き、龍の顔は佐多が他には任せなかった。特に目は細心の注意を払い、優しく見守る慈悲の心を目の表情で表した。色付けは一つ一つ場所ごとに細かく色指定がなされ、コンピュータ上で色を下絵に乗せて確認しながら作業を進めて行った。塚田教授の怖そうな龍は体の色を青に色付けし、佐多准教授の優しい龍は赤で彩色することになった。
同時に作業が進む塚田教授のグループの進捗状況が気になり、時々見学して教授と話しながら進めていった。教授のグループも時々佐多のグループの作業を覗き込んでいた。全体のバランスをとって進めていくにはこの話し合いが大切だった。左右のバランス、特に龍の大きさは同程度にしないと不均衡になってしまうので、輪郭を描きながら教授の作品にも注意を払った。
作品制作は熱を帯び、3つのグループが打ち合わせを重ねながら慎重に描き上げていった。下絵の段階からすごい作品になることは予想できたが、単なる龍の天井画ではなく2艘の屏風のように対照的な2頭の龍が左右に並び、厳しく監視されると共に優しく見守られる天井画は新しい天井画の出現となる。製作段階から取材に入っているNHKのクルーは新しい文化の創造を記録していく気概で頑張っているようだった。しかし完成が近づいてくると、塚田と佐多の競合は表面化してきた。
最初に顕在化した問題は作品のタイトルである。作業の手を停めて研修室の脇のテーブルでコーヒーを飲んでいるときに、以前から考えていたのか塚田教授は意を決して
「歴史的大作としては国宝級の作品の例に習って『青龍赤龍天井画』とするべきだ。『紅梅白梅図屏風』や『風神雷神図屏風』のように相対する2つの題材を並列させたネーミングが大切だ。」ときっぱりと言言い放った。それに対して佐多准教授は
「青龍とか赤龍とか区別するのではなく、天から来た双竜として作品名は『天来双竜天井画』というほうが全体をあらわしていると思いますがどうでしょうか。」とこちらも譲らなかった。
もっと大変だったのは作者の名前をどうするかだった。塚田教授は『塚田研究室スタッフ共作』としたかったが佐田淳教授は『塚田健二・佐多芳正』として自分の名前をどうしても出したかった。
制作現場の東京芸術大学美術学部第1講義棟の大研修室で制作の最終段階の手を停めて塚田教授は佐多准教授に
「この作品は君と僕だけで作り上げたんじゃなくて研究室のスタッフ全員で完成させたんだ。全員の名誉のためにも名前は研究室の名前にすべきだと思うけどね。」と薄笑いしながら話すと佐多は
「それも良いかもしれません。しかし教授はすべての名誉をお一人で独占しようとしているのではありませんか。鎌倉時代の運慶は金剛力士像を作った時に、吽形像は快慶の作だと銘々させています。弟子に名誉を譲っているのです。作業そのものは工房の職人たち全員でやっているのでしょうが、その後のことを考えて弟子の名前も残したんでしょう。教授にもそんな大きな心を持っていただきたい。教授はすでに歴史的な日本画家になっているではありませんか。」と懇願した。
しかし事はそう簡単に収まる問題ではなかった。教授と准教授の関係は師弟関係と言うよりは会社の上司と部下の関係に近い。人事権は握られているかもしれないが、あくまでも研究論文が学会でどのように評価されるかが大切で、年老いた第一線を退いたような教授よりも、学会で注目を集める新進気鋭の准教授の方が力がある場合もある。しかし芸術系の大学では幾分師弟関係が残っている場所でもある。その関係を打破しようと佐多准教授は反旗を翻しているのだ。上司で師匠である塚田教授が主張することでも彼にはおいそれと受け入れることは出来なかったのだ。
困惑した表情の佐多准教授は怒りをあらわにしている塚田教授に
「話し合いは平行線ですね。合意点は見つけられそうもありません。ここは発注者である増上寺の貫主様に決めてもらったらいかがでしょうか。」と解決策を提案した。この提案に塚田教授は苦々しい思いで表情を曇らせたが
「仕方がないかもしれないな。無理やり進めるわけにもいかないかもしれない。それでは増上寺サイドにその旨をお話ししないといけない。まずは文化庁の玉川次官にお話しして、玉川次官から増上寺側にお願いしてもらうのが筋だろうな。」と佐多准教授の提案を渋々受け入れた。
それから数日後には大学作業室での制作作業はほぼ終了して、絵の具を乾かす段階に入った。30日の感想期間を置いて作品の納入となっている。佐多准教授は平静な生活に戻り授業と研究活動と作品作りの生活に戻った。佐多准教授の受け持ちの授業は「西洋近代美術史」だった。今年の受講生は20人、美術学部の2年生が中心だった。今日はオランダのフェルメールを扱うことになっていた。
準備されたスクリーンには教科書にも掲載されている「真珠の耳飾りの少女」という作品が投影された。
「この絵は見たことありますね。」と佐多が質問すると学生たちは頷いている学生が多かった。
「フェルメールの作品です。彼は17世紀オランダの画家です。この絵はオランダのモナ・リザとも呼ばれる名画です。この絵の少女は画面左側の窓から強い光を浴びています。彼はこの少女を描きたかったのかもしれませんが、強い光をどう表現したらよいかに挑戦しているんです。瞳や真珠、下唇に反射する光の表現は彼が確立した光の表現です。彼の後に出てくる画家たちはこの手法を模倣することで光を表現しています。」そこまで説明すると今度は別の絵が出てきた。レンブラントの「夜警」である。美術専攻の生徒たちにとってはおなじみの絵だ。
「この絵はフェルメールよりも26歳上のオランダのレンブラントの作品『夜警』です。こちらも光をどう表現するかを追求した画家として有名です。「光と影の魔術師」とか呼ばれています。光を表現するために敢えて影の部分を強調しているのです。フェルメールも「光の魔術師」と呼ばれますが彼が強い光を表現するために反射する場所に白い点描を入れたのとは対照的です。しかし2人ともというその後の西洋美術史に与えた影響の大きさは計り知れません。」と言ったところで再びフェルメールの絵に戻った。今度は「生乳を注ぐ女」が映された。「真珠の耳飾りの少女」に比べると画面全体に青が多い印象を受ける。
「この作品もフェルメールですが『生乳を注ぐ女』という絵です。この絵も左側の窓から注ぐ強い光を表現していますが、この絵ではテーブルに敷かれた布や女性のスカートの青い色が目に付きます。この青はラピスラズリという顔料を用いています。この顔料はとても高価で一部の画科しか使う事ができませんでした。フェルメールには大富豪のパトロンがいたので購入できたのではないかと思います。この顔料を使った青色のことをウルトラマリンブルーとか群青とか言います。この青をフェルメールは多用しているので特別にフェルメールブルーと呼ばれることもあります。でもこのやり方は富豪的なやり方だと思いませんか。フェルメールは生前中から有名画家でしたから高価な顔料を買うだけの余裕があったかもしれませんが、ゴッホのような貧しい生活の画家にはこんな贅沢な画材は買えなかったでしょう。画家の世界でも格差社会がすでにあったんでしょうかね。」と締めくくった。
話しながら佐多准教授は石川県立美術館で塚田教授がラピスラズリを大量買いして他の画家にその色を使えないようにしたことを誇らしげに語っていたことを思い出した。ただ歴史的な作品を製作するというのはどんなに高価であっても、使う事で成果が得られるならば使うべきかもしれないなとも感じていた。
増上寺に作品が納品されたのはそれから20日ほど経った日だった。東京芸術大学の構内に大型のトラックが入ってきた。日本通運の美術品輸送専門スタッフが専用のトラックを美術学部の建物に横付けし、クレーンも用意された。縦横12㎡の天井画は横に4つに分けられるように設計されていた。3m×12㎡の長い作品が4枚を慎重にスタッフによって運び出されていく。作品がよじれたりしないように、同じ大きさの固いケースの中に入れられている。建物から出てからはクレーンでトラックの乗せられた。さすがは美術品を運ぶ専門スタッフである。海外から大型の美術品が運び込まれたときにも羽田空港に着いた飛行機から、作品を傷つけないように細心の注意を払って運んでいるのを、ニュースで見たことがあるが、今回の作業も大胆細心でさすがのプロの技だった。トラックの後を製作者たちが自家用車で続いた。
トラックは台東区上野公園内の大学敷地からゆっくりと芝の増上寺まで進んだ。12mの作品を運ぶとなると大きなトラックでも後ろからはみ出てしまう。そのため極力速度を落とし、曲がらなくてもいいように根津から本郷を通り、水道橋近くから日本橋、さらに皇居前を通って直線で進む道のりを選択した。
増上寺ではトラックの到着を多くの人たちが出迎えてくれた。敷地内に入ったトラックは本堂前まで進み、停車した。堅いケースに入っている4枚に分割された作品はクレーンで持ち上げられ降ろされると、今度は作業スタッフの手に渡され慎重に運ばれていく。
本堂の中に運び込まれると1枚づつ天井に持ち上げられていく。天井にはこの天井画を受け止める鉄骨がすでに設置してあった。万が一にも落下して参拝者に被害が出ないようにとの配慮が伺われた。
設置作業は半日で終了した。配送スタッフと設置スタッフが撤収すると周りに紅白幕が張られ、式典の準備が始まった。いっしょに会場に入った杉下がその様子を見ているとイベントスタッフと思われる職人たちが看板を運んできた。本堂の正面中央の高いところにその看板を設置しようとしている。その時、看板に掛けられていたカバーが外され、中に書かれている文字が斜めだが見えてきた。
『増上寺創立400年記念本堂天井画 双竜天来』と見えた。杉下は思わずほくそ笑んだ。自分の意見が採用されたのだ。近くで同じように看板を見ていた塚田教授が、その瞬間舌打ちをしたことを杉下は見逃さなかった。
会場の整備が進み、時間が迫ってくると招待されちゃ関係者がたくさん集まってきた。天井画には布が張られ覆い隠された。おそらく式典の途中で除幕式があるのだろう。
しかしのアナウンサーが式典の始まりを告げると増上寺貫主がマイクの前に立った。
「みなさん、本日はご参集いただき有難うございます。この増上寺が江戸幕府の命を受けてこの地に建立されて早400年。将軍家の菩提寺として皆様にかわいがっていただき今日に至ります。今回400年を記念して本堂に天井画を製作いたしました。日本画の第一人者で東京芸術大学の美術学部教授で大学の学長でもある塚田先生にお願いいたしましたところ、杉下准教授を始め研究室の皆さんで制作に取り組んでいただき、すばらし双龍図を描き上げていただきました。この後除幕させていただきますが、厳しい目つきで睨みつける恐ろしい龍と温かい目で見守る優しい龍が左右に並ぶ、今までにない龍の絵だそうです。厳しい左側の龍の作者が塚田健二教授、優しい右側の龍の作者が佐多芳正准教授です。お二人も日本画壇の第一人者で東京芸術大学で日本画を教えていらっしゃる先生方です。お二人に師事する多くの学生さんや講師さんたちが制作に携わっていただきました。まさに歴史的芸術品と言えるでしょう。このあとの除幕式をお楽しみにしてください。」と挨拶して貫主がさがった。
司会のアナウンサーが
「ではお待たせしました。除幕式に移らさせていただきます。天井から紅白の紐が5本ぶら下がっていますが今からお名前をお呼びする方は中央に出ていただきます。増上寺貫主様、文化庁事務次官様、増上寺門徒総代内川様、東京芸術大学学長塚田様、東京芸術大学准教授杉下様お願いいたします。」と言うので5人が中央の天井画の下に出た。司会のアナウンサーは
「それでは私の1,2,3の合図で紅白の紐を引っ張ってください。紐に手をかけてください。それでは行きます。1.2.3 お願いします。」と言うと5人が一斉にひもを引っ張った。天井画に掛けられていた白布がひらひらと落ちてきた。すると天井に設置された双竜図が姿を現した。
会場に集まった来賓と一般参観者総勢100名ほどが一斉に感嘆の声を上げた。2頭の龍がフロアにいる全員を見ている。何処から見ても2頭に見られているように見える。一頭は今にもかみついてくるかのように大きな口を開けて恐ろしい目で見つめている。もう一頭は口を閉じて優しそうな目で見ている。いや、見守ってくれているように見える。来場の参観者は2頭の龍に目をうばくぁれて、言葉も出なかった。新しいタイプの構図で左右の龍のデザインは金剛力士像を連想させていた。
左右の対照的なデザインの物が描かれたものとしては「紅梅白梅図」や「風神雷神図」など国宝級の物が多い。参観者はそれらも含めて国宝級の作品のお披露目のタイミングに立ち会えた喜びを感じていた。