4、塚田の意欲
塚田教授のもとに新たな制作依頼がくる。文化庁を通じて増上寺の天井画を作るという歴史的芸術作品制作だが、塚田研究室ではその制作にあたり取り組み方でもめることになる。はたして塚田研究室はどうなるのか。
皇居宮殿松の間の六艘屏風の制作で成功した塚田健一は意気揚々と教授会に向かった。
「塚田さん、今や時の人ですね。マスコミに随分出演してますね。」と廊下を歩きながら洋画科の坂下教授が話しかけると塚田教授も
「それほどではありません。たまたま宮内庁のオファーが僕の所に来たからですよ。」と幸運だったことを強調したが、テレビ番組にいくつも出演したことを悪い気はしていなかった。
会議室に入ると学長が挨拶して会議は始まった。いくつかの協議事項について話し合いをした後、学長から大切な話があった。
「3か月後は次期学長と学部長選挙があります。個別には立候補の動きがあるようですが、期日までにきちんと体勢を組んで、選挙には民主的な方法で臨んでください。私は今回は辞退しようと思っています。新しい学長の選出をお願いします。」と言って会議を閉めくくった。
会議室を出て行く教授たちは小声で話しながら小さなグループごと作戦を立てているようだった。塚田教授の元には洋画科の坂下教授だけでなく彫刻科の杉山教授や工芸科の彫金などの教授たちも集まってきて聞き耳を立てている。
「塚田さん、学長選に出馬すべきだ。皇室に六艘屏風を献上して時の人となっている今こそ、日本画や洋画の分野から学長を出すべきだと思いませんか。ここ最近は音楽学部の学長が続いて、美術学部、特に絵画関係は平山郁夫先生以来出てないのが現状です。絵画関係の教授が力を合わせて、学長選での塚田先生の勝利を目指しましょう。」と耳元でつぶやいた。周りに集まった教授たちも聞き逃さないように耳を傾けて、流れに取り残されないように必死な形相だった。
当の塚田教授はそんなこと考えたこともなかったが、みんなから推薦されると悪い気もしないようで
「みなさんが押してくださるという事は、今がチャンスなんですかね。みなさんの意見を代表して学長選に出ることは芸大の美術学部絵画系の繁栄に寄与することになるんですかね。」と意欲をにじませた。
研究室に戻った塚田は直属の日本画教室の准教授や講師、助教などを部屋に集めた。突然の呼び出しにメンバーたちは驚いていたが、全員が集まったのを待って塚田から訓示をした。
「実はみなさんにお願いしたいことがあります。このたび学長選挙に立候補しろと多くの方に推薦されています。でも私一人で票を集めることは不可能です。日本画教室の皆さんの力をお借りして、チームで勝利に向けて頑張っていけないかと思っています。暫くですが皆さんに選挙運動に取り組んでいただきたいんです。みなさん、異論はありませんか。」塚田が静かな声で語り掛けると部屋の中には沈黙が広がった。異論ないかと言われてありますと言える雰囲気ではなかった。大学の研究室は旧態依然とした徒弟制度の世界で、准教授が教授に楯突けば翌年には職を失いかねない。人事権をすべて握られているし、美術界での地位も教授がどのように活躍の場を用意してくれるかにかかっているのだ。理系の世界では研究論文が学会で認められれば他の大学から引き抜きがあるかもしれないが、美術の世界では教授にどう評価されるかがすべてと言っても過言ではなかったのである。
沈黙を保ちながら教授の話を聞いていた佐多芳正准教授は教授のためとはいえ、選挙運動をさせられることに辟易した感情が沸き上がってきた。しかも皇室献上の六艘屏風の制作も手伝わされ、手柄はすべて塚田教授一人の物になっていたのだ。
『いい加減にしてくれ。』と「言いたかったが、それを言ってしまったら大学内での立場もなくなってしまうことはわかっていた。ぐっと我慢して自分が教授になるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせて笑顔で
「教授、みんなで頑張りましょう。教授が学長になることで日本画美術界の発展に大きく貢献できることになります。我々も全力で応援します。みんな、そうだよな。」と全員に話しかけると周りのチームのみんなも
「当然だよ。教授、頑張りましょう。」と声を上げた。日本がチームが形式だけでも、一つに慣れた瞬間だった。
学長選挙は音楽学部の現代音楽科教授の石川達郎氏と美術学部の塚田教授の一騎打ちとなったが、佐多准教授たちの献身的な勧誘活動で大差の勝利となった。塚田教授はまたしても世間の大きな関心を集めることになった。取材も増え、テレビ番組出演なども多くなっていった。
日本が研究室としては喜ばしい事だったが、学長としての仕事が増え、日本画研究室の指導的役割は准教授2人に重点が移ってきた。
今日も塚田教授は講演会で京都に出かけているし、明日はそのまま大阪で美術館のギャラリートークと財界人とのレセプション、東京に帰ってきても教授会や理事会が控えている。重要な制作作業はここのところほとんどやっていない。
佐多准教授はそのことを危惧していた。日本画科である塚田教授は芸術家であって政治家ではない。絵を描くことで今の地位を確立してきたが、今の教授は絵を描いていない。このままではいけないという気持ちが溢れそうになってくるが、教授に意見することは許されない。塚田教授が退官して自分が教授になれれば自分の気持ちに従って行動できるだろうが、今はまだ教授の気持ちが優先される立場だ。そう考えると佐多の心は閉塞感でいっぱいになっていた。
学長になった塚田は学内においては最高の地位を獲得した。歴史的芸術家であった平山郁夫に学内の立場では追いついたことになった。しかし塚田の野望はとどまることがなかった。
学長室で執務にあたっていた塚田のテーブルの電話が鳴った。毎日10本以上の電話があるので、珍しいわけではなかったが、塚田のインスピレーションがなぜか働いた瞬間だった。
「もしもし塚田ですが。」と言うと電話の相手はやけに落ち着いたトーンで
「塚田学長ですか。私は文化庁の事務次官をしております玉川と申します。塚田教授を当代一の日本画科と見込んでお願いがあるんですが、よろしいでしょうか。」ともったいぶった言い方で話し始めた。塚田は少し訝しげだったが日本一と言われて悪い気はしなかった。しかも玉川は文化行事があるたびに来賓や執行部サイドとして同席することの多い顔見知りだった。
「玉川さんがお願いだなんて、少し怖いですね。こちらからお願いするときは予算のことばかりでしたが、玉川事務次官のお願いと言うと何でしょう。」と低姿勢に聞き返した。すると玉川は咳払いをして呼吸を整えると
「実は芝の増上寺で文化財である本堂の阿弥陀如来像の修繕記念の除幕式に行ってい来たのですが、その増上寺の貫主様から阿弥陀如来がある本堂の天井に天井画を作りたいが、どなたか描いてくださる方を紹介して欲しいというご依頼を受けたんです。そこで真っ先に頭に浮かんだのが塚田先生の研究室だったんです。先生はお忙しいかもしれないのでお弟子さんでも結構です。どなたか描いていただけないでしょうか。日本を代表するお寺で、江戸幕府徳川家の菩提寺として上野の寛永寺と並ぶ大寺院です。後世に名を遺す偉業になると思います。ご推薦いただけませんか。」と電話口ですらすらと話してきた。塚田は歴史に名御残す偉業と言う言葉に続々とした感情を覚えた。皇居の松の間に六艘の松島の屏風を奉納し、大学では学長にまで上り詰めた。あとは万人が目にすることのできる歴史的建造物の中に造形物を残すことで、運慶や快慶、狩野永徳、平山郁夫などに並ぶ事ができるのではないか。自分も歴史的芸術家として教科書に名を残せるかもしれない。以前から学生たちに話し、自分でもそうなることを夢見ていた地位に近づいているのだ。唇が震えているような気持ちがしながら受話器に返答した。
「素晴らしいお話で、私たち塚田研究室としてもこの上ない名誉です。是非お受けしたいと思います。」と声を震わせながら答えた。受話器を切ったが顔が紅潮しているのがわかった。
しばらく呆然として学長室で興奮を冷ましていたが、頭の中には中学や高校の歴史の教科書の中に出てくる文化史の作品類を思い浮かべた。
運慶快慶の作と言われる東大寺南大門の金剛力士像、狩野永徳の唐獅子図屏風、西洋ではルネッサンスのレオナルド・ダ・ビンチのモナ・リザ、ダビデ像のミケランジェロ、そのほかにもたくさん出てきたが、その中の一人に増上寺天井画を描いた塚田健二が掲載されているページを頭の中に浮かべて、思わずほくそ笑んだ。
翌日、塚田研究室のメンバーが教授室に集められた。ソファーには2人の准教授と2人の講師が座り、4人の助教は壁際に立ったまま塚田教授が学長室からこの部屋に来るのを待っていた。准教授の佐多と橋本はどんな話なのかを小さな声で話していたが、事前に何も聞かされていないので不安を隠せなかった。
しばらく待っていると廊下を歩く靴音がして、扉を開けて塚田学長が入ってきた。ソファーに座っていた准教授たちはすぐに立ち上がり、起立の姿勢で塚田を迎えた。塚田は自分のデスクの椅子に座るとみんなの方を向いてしばらく間をおいて
「じつは文化庁事務次官からお話を頂きました。芝の増上寺の本堂の天井画を誰かに書いてほしいという依頼です。誰か適任者を推薦して欲しいという事なんだけど、みんなはどう思いますか。」と静かに話し始めた。講師たちはどうせ塚田教授の名のもとに、全員参加で昔の工房の仕事のように皇室奉納の六艘屏風制作に準じて作業するのだと考え、黙って周りの様子をうかがっていた。
最初に口を開いたのは佐多准教授だった。佐多准教授は言葉を選びながら
「教授、私は教授を中心に私たち塚田ファミリーで制作に取り組むのがベストだと考えますが、文化庁や増上寺の意向は、塚田教授がやられるという事ではなく、本当に誰かを推薦するという事なんですか。」と言葉を選びながら慎重に質問した。塚田はみんなが自分を押してくれるものだろうと予想していたので佐多の反応は少し驚いたが
「私の名前でやらなくてはいけないというわけではない。あくまでもどなたかを推薦して欲しいという事だよ。どうだい、みんなの気持ちは?」と他の准教授や講師たちの意見を求めた。それまで沈黙を貫いていた橋本准教授は隣に座っている立花講師と顔を見合わせた後に口を開いた。
「増上寺の本堂と言うと重要文化財の阿弥陀如来像がある事でも有名ですし徳川幕府の菩提寺として多くの観光客を集める名刹です。その天井画を描くとなれば歴史的な大事業です。私たちのような修行中の身の者が采配を振るうのでは、現在や未来の多くの国民たちが許さないでしょう。やはり国民的な日本画家になられた塚田教授の采配で、私たちはお手伝いをさせていただくのが理にかなっているように思います。」と塚田をたてた発言をした。立花講師も同意見であるという気持ちを首を縦に振ることで示している。そのほかの塚田門下の教員たちは従うしかなかった。大学とは言え、徒弟制度に近い芸術系の学部では人事権をすべて握る教授の意見は絶対なのだ。塚田は満足げに笑顔を見せている。
しかし佐多准教授は少し違っていた。日展に出品した作品で高価な青絵の具を買い占められたことや、皇居松の間の六艘屏風の制作の時の制作者の名前が塚田教授一人の者になっていたこと、がぅちょう選挙以来、塚田が日本画家としてよりも政治家のごとき活動ばかりしていることなど、直属の上司ではあったが完全に尊敬できる存在ではなくなっていたのだ。
「教授、私は教授の元で30年、修行を積んでまいりました。これまでに多くの事業で先生のお手伝いをさせていただきました。おかげで大きな歴史的事業に挑む時の経験もたくさんさせていただきました。僭越ではございますが先生が学長になられたので、本来の定年年齢を過ぎても日本画研究室の教授のまま御在職ですが。私たちもそれぞれ年齢を重ねて本来ならば教授となって今回のような御依頼を受けても不思議ではないはずです。出来ましたら私たち門下生に今回のお話を任せていただけないでしょうか。」と思い切った提案をした。話してしまってから佐多准教授はやや後悔したような表情も見せたが、苛立ったような表情の塚田教授の顔を見ているうちに反感の気持ちからか気持ちを持ち直し、きりっとした表情を戻した。
塚田教授は佐多准教授に対しイライラを隠さず
「お前がやりたいならそれでもいいよ。でも発注者である増上寺がどういうかだな。画力にさほどの違いはないかもしれない。でもね、ネームバリューが必要なんだよ。国民が納得する名前がね。わかるだろ。とりあえず向こうにはうちの准教授もやりたいと言っていると伝えるけど、あくまでも発注者は増上寺だからあちらのご意見に従うしかないからな。」と言うと椅子から立ち上がり速足で歩き出すと、ドアを開けて出て行ってしまった。おそらく学長室に戻ったらしかったが、残されたメンバーは唖然としたままだった。
塚田研究室では学長になった塚田に制作を後輩に任せるように進言するが塚田教授は平山郁夫のような歴史的芸術家を目指していたため、さらなる名声を目指す。果たして塚田研究室はどうなるのか。乞うご期待。皆様のご感想をお待ちしております。