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3、皇居松の間、六艘屏風制作

塚田教授のもとに皇室から6艘屏風の制作依頼が来る。皇室松の間の屏風となれば歴史的芸術作品となるが、その制作を任されたとなればその名は後世まで残ることになる。塚田の研究室を上げて制作に取り組むことになる。

 その依頼は突然だった。塚田が大学の自分の研究室で頼まれた原稿を書いていると、固定電話が鳴った。大学内の事務室経由の外線だが、初めに取り次いだ事務室の方が、

「塚田先生ですね、宮内庁からです。お繋ぎします。」と言うと外線につながった。

「もしもし、塚田先生ですか。こちらは宮内庁です。折り入ってお願いしたいことがございます。本日どこかでお時間はいただけませんでしょうか。」とかしこまった言い方をしている。塚田は今日は授業は午前中だけで他には特に何もなかったので

「午後でしたら時間を空ける事ができますが。」と答えた。すると宮内庁の担当者は

「それでは今日、3時ごろにそちらの研究室へ伺わせていただこうと思いますが、いかがですか。」と提案してきた。塚田は何の事だろうと訝しげだったが

「わかりました。では部屋でお待ちしています。」と言って電話を切った。それから宮内庁が何の用事なんだろうといろいろ考えたが、答えは出なかった。宮内庁の所蔵庫にある芸術品の鑑定なら専門家がいるだろうし、奈良時代の古美術の修復にしても修復専門の職人が大勢いる。塚田の作品が気に入ったので皇居に飾りたいので買わせてほしいというのなら名誉なことなのだがと考えた。


 午後になり時間がきた。3時少し前に塚田教授が自分の研究屋で待っているとドアをノックする音がした。

「はい、どうぞ。」と言うとドアを開けて背広姿の男性が3人入ってきた。初めの2人は一緒に来た警備の人のようだった。最後に入って来たのは貫禄もあり丁寧な物腰で仕事机に向かって座っている塚田の近くに歩み寄り、右手を出して握手を求めて来た。塚田も椅子から立ち上がりその人に向かって右手を出して握手をし、応接セットに座るように右手の手のひらをソファーに向けた。彼はソファーに座り、残りの2人は彼の後に回って立ったまま警備の体勢をとった。座った宮内庁の人は落ち着いた雰囲気で

「先生、お初にお目にかかります。宮内庁書陵部の吉川です。突然のお電話で失礼いたしました。先生は東京芸術大学の美術学部日本画科の教授という事で、日本を代表する日本画家だと聞き及んでおります。そんな第一人者だからこそ先生でなければいけないと思い、宮内庁長官や陛下ともご相談して参りました。私の部署は宮内庁の所管する美術品や陵墓など歴史的なものも含めて管理しております。今回のお話は先生に六艘の屏風絵を発注したいと考えております。皇居の宮殿松の間はよく内閣総理大臣の任命式や宮中行事で利用される部屋ですが、その天皇のお席の背景に立てられる屏風を新調することになりました。現在の物は昭和初期に横山大観先生が書いた物を利用していましたが、いつも同じものなので、新しいものを発注することになって、今回は日本画の世界で最も偉大な貢献をされている塚田先生にお願いすることになりました。歴史的な事業でしっかりと精査して人選して参りましたので、是非お引き受けしていただきたいと思います。」と説明した。さすがに宮内庁の注文を受けるのは初めてで、尊敬する平山先生もこんなチャンスにはめぐり会っていないという思いが塚田の頭をよぎった。そして

『歴史的作品を製作するということはいつも学生の前で私が講義していることじゃないか。こんなチャンスもう二度とないかもしれない。』

独り言のように口元でつぶやいてしまった。

そしてさらに宮内庁の吉川課長に

「天皇家の調度品を私のような物が手掛けさせていただいていいんでしょうか。」とへりくだった言い方をして見せた。すると吉川課長は宮内庁の威厳をその笑顔に含めて

「歴史的に見ても宮内庁の調度品で日本画が描かれた屏風類や襖絵は、狩野派のものか、横山大観先生、東山魁夷先生くらいです。平山先生には発注するチャンスがなかったんですが、塚田先生にはそのチャンスを逃さないようにと考えていたんです。どうかお願いします。」と最敬礼してきた。

 しかし塚田は自分が桃山時代の狩野永徳や江戸時代から明治時代の狩野派の猛者たちと肩を並べる事にはやや気が引けた。

「自分でいいのだろうか。自分は歴史に名を遺す日本画家と言えるのだろうか。」

そんな疑問が頭を行き来し、かつてお世話になった尊敬する平山郁夫先生のことも脳裏をよぎった。

 しかし塚田は選ばれたことに感謝し、その期待を裏切らないような作品作りをして選んで頂いたみなさんの恩に報いたいと考えて

「では吉川課長、そのご注文をお受けいたします。ただし皇室のお仕事ですので、製作料を頂こうとは思いませんが、最高の材料を揃えたいと思ってますので、必要経費だけはお願いいたします。」と即決し追加の依頼を頼み込んだ、すると吉川課長は材料費がどれくらいかかるかわかっているのか分からなかったが、笑顔で襟を正して

「最高の材料を使って最高のお仕事をしていただきたいと思いますが、製作費を取らないのはいかがでしょう。これから詳細を詰めていきましょう。とにかくご承諾いただいて有難うございます。」と喜んで立ち上がりまた握手をして帰って行った。


 翌週から塚田は仕事を調整して宮内庁の仕事の段取りに入った。まずは何を描くかと言う題材選びからだった。准教授の佐多芳正を含めて講師や助手など塚田研究室の関係者数人で、まずプロジェクトチームを作り、皇居宮殿松の間に相応しい題材を選考することから始めた。

 会議室に集まったメンバーで皇室と宮殿松の間についての調査結果の分析から始めた。佐多准教授の説明では

「松の間は各種任命式の場としても使われるが、大切な宮中行事、中でも即位の礼なども行われる大切な部屋である。」ということだった。塚田教授は

「皇居の中でも最も大切な部屋という事なんだね。外国からの国賓も入ったりするのかな。」と聞くと佐多准教授は調査した資料を見直し確認して

「歓迎レセプションは豊明殿を使ったり赤坂の迎賓館を使ったりしますが、国賓の謁見を受けるのはやはり松の間になります。」という事を述べると塚田教授は皇居の間取りの地図を見ながら頷いた。そして

「今、使われている屏風が横山大観先生の物と聞いたけど、どんな絵が描かれているのか資料はあるのかい。」と聞いた。するともう一人の准教授である橋本憲政は資料を眺めながら

「皇室収蔵物の文化財が掲載された図鑑で調べましたところ、美保の松原と評されています。写真で見ますと大きな松と砂浜と背景には富士が描かれています。スクリーンに映します。」と言ってコンピュータを操作してボタンを押すと会議室の壁に設置された大きなスクリーンに巨大な絵が映し出された。近景には砂浜があり、中景には大きな松の林が描かれ、遠景には富士山が雄大な姿を見せていた。

塚田先生は

「この屏風が置かれるからこの部屋の名前が松の間と呼ばれるように思えてくる。両サイドの部屋が梅の間と竹の間なので、部屋の名前の方が先につけられ、その名前にちなんで横山大観先生はこの題材を選んだのだろうが、あまりにも見事な絵なのでこの絵にちなんで松の間と呼んでいるような気がしてしまった。」と感想を述べた。そして顔を上げて

「それでは今回、松の間の6艘の屏風には何を描けばいいと思うかな。」とみんなに問いかけた。すると講師の立花さおりはゆっくりと手を上げて

「私なんかが提案するのはおこがましいんですけど、謁見したり任命したり、天皇陛下が上の段から見下ろすような場面が多い気がするんです。だから威厳を示すような題材がふさわしい気がします。江戸城にあがった大名が将軍に拝謁する前に待たされる控えの間には、虎が描かれて四方から睨みを利かせ、将軍に拝謁する前から威嚇したという話を聞いたことがあるんです。だから獅子と松なんかはどうでしょうか。」と提案した。塚田教授は唸りながら

「ライオンか。いいんじゃないかな。虎はありふれているからね。でも松林に獅子はいないかもしれない。ライオンは草原だから、松は合わないよ。獅子で行くなら松は忘れよう。」と候補の一つに挙げた。

 准教授の佐多芳正は塚田教授の一番弟子としての責任感からアイデアを出さなくてはと考え、アイデアを絞り出してきた。

「僕は立花さんと同じような考えからですが、実在する動物ではなく想像上の龍を描くのはどうかと考えています。5本指の龍は中国皇帝しか持つことは許されませんでしたが、その属国である朝鮮やベトナムは4本指の龍が許され、日本など遠隔の僻地は3本指の龍しか許されなかったと言われています。でも鎌倉時代以降は4本指で書かれています。現代では中国とも対等に付き合ってきているので、5本指にしてはどうかと思います。ただ皇室に飾るわけですから国際問題に発展しないとも限りません。」と述べた。塚田教授は龍に興味を示していたが

「国際問題は避けたいね。小さなお寺に奉納するなら問題ないかもしれないけど、皇居だからすぐに中国が問題視しそうだ。せめて4本指が妥当だろうね。」ととりあえず候補に加えた。

「2人とも良いアイデアを提示してくれてありがとう。もう少し時間をかけて考えたいから、来週までまた考えて来てもらいたい。ただ題材が決まったら塚田研究室総出で、チームとして取り組んでもらいたいからよろしく頼むよ。鎌倉時代の運慶快慶の工房のように良い作品を世に送り出そう。きょうはこれで解散しよう。」と塚田教授の一声で会議は終了した。


 それから週一回の会議は数週間続いたが、最終的には塚田教授自身が新しいアイデアを提示して決定した。その日の会議では准教授や講師が新たな提案をするつもりで準備してきたが、会議が始まるとすぐに塚田教授が全員を見渡して

「みなさん、今日は私のアイデアを聞いてください。」と言って準備してきたパワーポイント資料をスクリーンに映し出して話し始めた。

「松の間で認証式や謁見といった儀式が行われるという事。そして以前からあるものが横山大観先生の三保の松原の絵であることを考慮して、私は日本で一番美しい風景を考えてみたんだ。横山先生が選んだ三保の松原は日本三景の一つだろ。残りの二つは宮城県の松島と京都府の天の橋立だろ。三カ所とも松の名所だし、2枚製作すれば日本三景がそろうことになる。みんなで力を合わせて屏風絵を2枚作ることにしよう。」とニコニコしながら提案した。教授の提案に反対できる人もなく、あっさりと決まってしまった。


 翌日からは制作段階に入るために綿密な計画を立案した。まずは基本となる小さな縮小図を教授が作ることになり、その絵を元に台紙に下絵を描くのが助教授の二人。下絵が出来たら色を塗るのだが、パソコンで元絵をスキャンして略図に教授がそれぞれの場所にどの色を落としていくのかを決めて指示書を作り、講師や助手も加わって手分けして色を塗って最終的に屏風の枠に表装することにした。

 2週間後に制作を開始することにして、元絵となる縮小サイズの絵を描くために塚田教授は宮城と京都へスケッチ旅行に出かけて行った。


 塚田研究室は2週間の平穏な静かな時間が過ぎて行ったが、塚田が帰ってくる日が近づくにつれて、准教授の佐多はこれから来る塚田の激しい指導と叱責に身震いが来た。今までの地方公共団体からの仕事でも厳しい叱責が佐多の神経を痛めつけてきたが、今回は宮内庁からの歴史的作品である。塚田のプレッシャーも大きいだろうし、その分佐多に対する激しい叱責が予想された。翌日の月曜日には塚田教授が戻ってきて会議が再開される予定だったが、佐多は月曜日が憂鬱になってきて、夕方のサザエさんの時間には少し頭痛がするような感じがしてきた。


 月曜日の9時に塚田研究室のメンバーが研究室の隣の会議室に集まった。最後に入ってきた塚田教授はみんなに挨拶するとすぐにパソコンを立ち上げて、準備したUSBをつなぐと作ってきた縮小図の画像を準備した。そしていつでもスクリーンに投影できる状態にして

「みなさん、お待たせしました。2週間取材旅行で美しい景色を見学させていただき、心も体もリフレッシュしてきました。まずは松島の写真から見てもらいます。」と言ってリターンキーをたたいた。すると会議室のスクリーンに海岸の近くの水面近くの高さからのやや上向きの視線の写真の松島の写真が映し出された。次に教授がパソコンのリターンキーを力強く音を立てて叩くと映像が変わり、先ほどの写真と教授がスケッチしてきた絵が並べて写された。准教授の佐多は落ち着いた雰囲気で

「先生、これは良いですね。視点の置き方が斬新で、低い位置から見上げているので臨場感がすごいと思います。それに写真では感じるよりも先生の絵の方が松の枝の力強さがより強く感じます。中央に位置する枝ぶりの良い松がクローズアップされていて、主人公らしく存在感が出ていると感じます。」と言うと塚田は

「そう見えるかい。かなり意識してアングルと明るさを調整し、描きたい対象を何にするかを考えたんだ。宮城の松島周辺を何日も歩いてスケッチを繰り返しながら、皇居宮殿松の間に相応しい場所を探し続けてきたんだ。それじゃあ次の絵も見て欲しい。」と言ってまたリターンキーをたたいた。すると今度は最初から写真と絵が並んで出てきた。天橋立の絵と写真だというのはすぐに分かった。しかし普段よく見る高台からの風景ではなく天橋立の砂州の入口近くからの視点で、松の木が大きく描かれているが、絵の奥の方で小さく橋立の先の風景が描かれていた。遠くの砂州の左右が海になっていることでここが天橋立である事を理解できたが、それよりも画面中央に大きく力強くくねくねと節ばった感じで折れ曲がった松の枝ぶりが、松の威圧感をあらわしていた。この絵にはもう一人の准教授である橋本が少し興奮気味に

「この絵もアングルが計算されつくしていますね。先生でないとこの発想は出来ません。先生のオリジナリティが感じられ、歴史的な一枚に相応しいんではないでしょうか。」と絶賛した。周りで見ていた講師たちは笑顔を見せていたものの准教授たちが見えすぎた美辞麗句を並べているような気がして、口元がやや引きつっているようにも見えた。

 しかし当の塚田教授は准教授2人から褒められたことに上機嫌で、

「そうだろう、徹底的に計算してアングルを計算して松が力強く且つ美しく見えるように工夫したんだ。あとはここにどんな色を入れるかなんだけど、絵の具は最高級の物を使って、他の絵と比べ物にならないような高級感を出すつもりだ。早速、天涯堂に連絡して絵の具を注文するために来てもらうよ。」と満面の笑顔で語った。

 ここからは順調に作業が進んでいった。デジタル化した縮小図を細かく分割してそれぞれの場所に塗り込む色の番号が絵の外側に例示されたものを天涯堂の協力で作成するのに1か月かかったが、色が決まればチームスタッフ全員が2つのグループに分かれて、協力して色を入れて行った。しかも政策に携わるのは全員東京芸大の専門家集団である。鎌倉時代の運慶・快慶の職人集団とひけをとらない。各チームのリーダーは佐多准教授と橋本准教授が務め、製作総指揮は塚田教授が目を光らせた。使われた絵の具は塚田教授が必要経費を宮内庁が出すという事で、金額を気にせず天涯堂と相談しながら集めた貴重な絵の具ばかりであった。東京芸大のスタッフとは言え初めて使う絵の具も多く含まれていた。


 下絵の制作が終了したのは1か月たってからだった。六艘の屏風にするためには表具やで屏風に張り付けてもらわなくてはいけない。皇室に搬入される屏風となると最高の作品を扱う表具専門店という事になる。塚田教授が選んだのは銀座に店を構える「清水表具店」で創業は1525年、室町時代後半に京都の室町で商売を始めたが、明治維新に天皇が東京に移った時、一緒に東京に移動してきた老舗中の老舗である。大きな和紙に書かれた絵を6艘に分割して、それぞれを寸分たがわず貼り付けなくてはならない。完成した下絵を天涯堂がトラックを出して上野公園内の東京芸術大学から銀座の清水表具店まで運んでいった。


 完成した6艘の屏風2本が塚田教授のもとに搬入されたのは、約一か月たったころだった。銀座の清水表具店は最高級の作品しか扱わない高級店だが、その威厳通り納められた木製の箱も超高級品だった。材質は乾燥させた杉を使い、漆を3重に施し黒光りした大きな長持ちのような箱が2つ運び込まれ、その中に完成した6艘の屏風が堂々と納められていた。

 塚田研究室で中身を検品した。スタッフ全員と宮内庁の吉川さんが集まり、息をのんでその箱の一つを開けた、箱の中からはこの外側と同じように黒光りした漆の屏風のフチが見えた。箱の内側は白木の模様が見え、杉材であることを確認できた。准教授の佐多と橋本が漆を汚さないように白い手袋をして箱の中に手を入れ、落とさないように気をつけながら六艘に折れ曲がった屏風の塊を丁寧に持ち上げ、外に出すと細心の注意をしながら一段高くなった教壇の上に毛布を敷き詰めたところに立てかけた。

「それでは開いてください。」と塚田教授もやや緊張して声を上ずりながら言うと2人の准教授が恐る恐るゆっくりと屏風を開いていった。一番最初に目に入って来たのは金箔の眩しい光だった。余白の部分に金箔をはることを注文しておいたので、清水表具店に金沢から取り寄せた最高級の金箔をはりつめてくれていたのだ。そして次々と開いていくと善計が見えて来て、海辺から見る松島の絶景と中央に松島の象徴的な松が見事な枝ぶりを見せている。力強さと美しさを見るものに印象付け、周りの金箔がその高級感を引き立たせている。全員が息をのんで見つめている。塚田教授はその完成した様子にまだ満足できるかどうか疑問を持っていたが、宮内庁の吉川さんはその見事さに感動して

「すばらしい。塚田先生、これは松の間に相応しい大作です。今後数百年日本の皇室を見守ってくれることでしょう。もう一つも開けてください。」と言うと2人の准教授は松島の屏風を一旦閉じて壁にもたれ掛けさせて置くと、もう一つの箱から先ほどと同じように丁寧に取り出し、教壇の上に立てかけ、ゆっくりと屏風を開けた。金色の光が眩しかったが、どんどん広げていくと天橋立の松が悠然と現れた。

「こちらの作品も素晴らしいですね。先ほどの松島の松が崖の上に立つ男松田とすれば、この天橋立の砂州の上に立つ松は優雅な女松と言ったところでしょうか。どちらにしても現在松の間で使っている三保の松原図と3曲合わせて日本三景の完成です。塚田先生が横山大観先生の作品を3部作に拡張させたんですね。」とその歴史的偉業を満面の笑みで称えた。塚田教授はようやく笑みを浮かべながら、

「吉川さんに認めていただけてこの上ない喜びです。あとは陛下に喜んでいただけると嬉しいんですが。」と天皇に思いを馳せた。


 約一か月塚田教授による最終的な仕上げ作業とマスコミ各社の取材を受け、その後皇室の宮殿に納入された。テレビ局各社がその様子を報道し、作者である塚田教授のインタビューを放送した。


 塚田教授への評価は日ごとに高まり、日本を代表する日本画科と言う名声は平山郁夫の後継者として形容され、日本画壇での地位は確固たるものになり、美術界のことをよく知らない人たちからも知名度は高まっていった。



皇居松の間の6艘屏風を作り上げた塚田教授は日本画の第1人者としての地位を確固たるものにする。まさに

歴史的芸術家と呼ばれるようになったわけだが、その偉業を快く思わないものもいた。歴史的芸術家というのはどのように作られていくのか。  皆様からのご感想をお待ちしています。

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