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荒野の塔へ至る道をひとりで歩くのは奇妙に怖いものだった。子羊はもういない。道連れになってくれる者は今後誰もいないのだろう。
ラウラはひとりで進んでいかなくてはならないのだ。
泣きたかったが涙は出なかった。そういうことを、している場合ではない。
荒野の道なき道はなぜだろう、どこを通ればいいのかわかった。先ぶれの狼はもはや必要ではなく、ラウラは自分がユルカイアの一部となれたのかもしれないと思った。謎は謎のまま、不思議は不思議のまま、人間が仰ぎ見るしかない領域の法則は、あくまで推測の域を出ない。
風は強く、前髪がちぎれそうだ。後ろからずっとグティエルが呼んでいる気がした。肩に力を込めていなければ今すぐ駆け戻ってしまいそうだった。彼は追いかけてくるだろうか?――来ないだろうことをラウラは知っている。
ユルカイア人にとって辺境伯称号はあくまで称号であり、おそらくグティエル本人にも自分が貴族であるという自覚はない。それはラウラの耳が尖っていないことに驚いた、初対面の頃から変わらないだろう。ならば彼の拠り所は本当にユルカイアの守護者であること、ただその一点のみである。グティエルはユルカイアを愛しているのだ。これからずっともっと危機に晒されるだろう故郷を放って女の尻を追いかけるなんて無様は晒さないだろう。それは貴族の矜持にとてもよく似ている。
塔の中の大穴は塞がれていた。この塔は生きているように自己修復を行う。ラウラは鞄を机の上に出して、中身を次々取り出した。赤い表紙のマヌエラの手記、ピンクとオレンジの小花柄のルイーズの刺繍の図案帳、青い革張りのミネルバの日記。それから石の花。あらゆる色彩が机の上に溢れ、丸い塔の中、螺旋階段の一段一段までを塗り変えるかのようだった。
石の花は相変わらず生まれ損なった動物のようにごちゃまぜだった。白いキラキラした石の筋、紫色と黄色と薄い青色が透明に混じり合う自然の不可思議の体現。
ラウラは席に着くと石の花を膝に乗せた。脚のあらゆるところ、つま先まで痛かったが休んでいる場合ではなかった。ラウラはユルカイアを知らなくてはならない。いつまでも爪弾き扱いに拗ねている場合ではない。グティエルがこれ以上暗いところに落ちてしまう前に、せめてどちらに光があるかを知りたかった。
マヌエラの書き文字には慟哭があり、ルイーズの走り書きはふわふわと夢の中を漂うよう、そしてミネルバの日記は極端に字が少なかった。これは貴族身分の女性の日記によくあることで、文字から秘密の恋人や秘密の子供の存在を悟られないようにするためだ。文字の代わりにリボンやレースの端切れ、押し花、芝居のチケット、封蝋、絵の具で心を表す。本人と、見る者が見ればわかるように。
ラウラはミネルバの青い本に集中し、そしてわかったことはといえばグティエルの母親はマヌエラのように狡猾でルイーズのように純真で、そして息子を愛していなかったということだけだった。ミネルバの遺したかったことはどうやら女主人のその日のご機嫌だけだったようだ。
ラウラはがっかりしたが、元々こんなものだったかもしれない。女たちの心の一部に誰もが知らない秘密が隠されており、それこそが現状を打開できる何より大きなカギになるのだと、物語のようなことはそうそう起こらない。
上の階から音がしたのはそのときだった。ラウラは顔を上げた。疲労のあまりぱっちりと冴えた目、文字を見つめ続けすぎて傷んだ目が、ますます開いた。
二階の、踊り場にある扉の先はおそらくアンティーヌの部屋だったところだ。毛足の長い上等の絨毯と暖炉、安楽椅子とフットマンがある。その部屋の扉はまるで誘惑するかのように開いていたが、ラウラは顎を上げてその前を素通りした。
一度も開いているのを見たことがない、三階へ続く階段の裏にひっそりとある小さな扉が半開きになっていた。黄色く塗られた白木づくりの扉はドアノブがなく、手をかけるためのくぼみがあるだけ。ラウラはそこを持ってそっと扉を押した。抵抗はなかった。
小さな書斎、あるいは図書室と呼べる部屋だった。刺さっているのはいずれも背表紙がなかったりごく細い糸でまとめられただけの冊子で、研究に関する考えを纏めるために利用された小部屋だろうとラウラはあたりを付けた。
棚に触れると何も起きない。棚の一部の板に蝶番があり、開くと文机になっていた。ラウラがその面に触れると脚の一本が折れた。他の三本、そして机の面自体が棚に癒着していたので傾くことはなかったが、ここは素直に部屋の警告を受け入れなければならないようだった。
机と小さな丸い椅子には決して触ることなく、彼女は作業を開始した。冊子のタイトルをひとつずつ確認し、役立ちそうな情報を探す。時間はあっという間に過ぎた。
冬は更けていく。雪が荒野を埋め尽くし、ひとつの冬の間、ラウラは声を発することはなかった。背中は曲がり、黒髪はうねりを収めてだんだん元気をなくした。身体の節々が痛み、歩き方がどんどんおぼつかなくなっていった。顔はかさかさに乾燥し、皺まみれになった気がする。鏡を覗くことはなく、また紙で手を切ったところを舐める以外で顔を上げることもなかった。
一階の竈には常に火があった。そこで焼く薄い味気ないパンと、甘いジャムを食べ、それだけが栄養だった。
それは自罰のような、あるいは忙しくしていれば罰から逃れられると信じ込んだ殉教者のような鬼気迫る日々だった。ラウラはユルカイアのために何もできることがなかった。探しに探したあらゆる選択肢はことごとく失敗した。だから、もう後がない。ここで失敗すればグティエルは永遠に損なわれてしまう。
石の花だけが彼女の冬を眺めていた。
そうしてラウラは真相にたどり着く。アンティーヌが生涯をかけて見つけた真実、そこに付け足されたいくつかのことに。
「そっかあ……」
と、ようやく声を発したのははたしてどれぐらい後のことだったろう?
「グティエルは狼になれないのね。きっとそうなりたいだろうに」
「――呼んだか?」
そっと腕が伸びてきて、彼女の頭は後ろから彼に抱き寄せられる。ああ。彼は山の闇の匂いがした。宝石と、魔石と、それから血と魔物の死体が持つ麝香のようなかぐわしい香りが入り交じった……。
ラウラは瞬きした。もう百年も瞬きしていなかったような気がした。三時間以上連続して眠れない日々が何年も続いたような気も。
そのときふたりは塔の一階にいて、大穴が塞がれた上に座り込んでいた。床はもう音楽を奏でなかった。子羊は永遠に姿を現さず、狼が様子見にくることもなかった。誰も何も言わない空間がそこだった。ラウラは散らばる紙片の中、インクで汚れた指をグティエルに伸ばした。
彼の黒い髪が、なぜだろう、後ろで括れるくらいに延びている。顎の線がしっかりして、まなざしはより険しく猛々しい。背中を支えてくれる身体も、覚えているより一回り大きいようだった。
「グティエル? あなたなの?」
「――お前が塔に入って十年が経った。世界は様変わりしたよ」
ラウラは瞠目する。グティエルはほっとしたように笑う。
「お前が塔を囲って、誰も入れなくしたから。逆に魔物が入れない結界が荒野を覆った。回廊のように、他の土地からユルカイアまで一直線に。だから今、ユルカイアは人で溢れている。あの閉塞したユルカイアはもうどこにもない」
彼は立ち上がり、妻に手を差し出した。
「長い話をしよう。ようやく。俺はお前にユルカイアを捧げるために来たんだ」
彼女は夢を見ているのかと思う。失った魔力嚢がひしゃげた痛みを発し、それで我に返る。
ラウラは知らなかった。グティエルは伝えなかった。その必要がないことだった。
石の花は魔石のかたまり。他ならぬエンバレク家のグティエルが探し出した一級の魔力源である。それが媒介となり、山の力を塔に伝え、塔はその存在意義として結界の起点になったこと。その古い魔法は百年以上前からこの土地に仕込まれており、ラウラが見つけた真実はそれがユルカイア人の使命であることを示す。
山は本当に宇宙船の残骸だった。あまりに大きすぎて人が住むには適さず、墜落から生き残った人々はこの惑星じゅうに逃れた。研究は散逸し、神話はバラバラになり、だがいくつかは残った。例えばアンティーヌが建てたこの塔のように、それらを収集するための魔法の場所があった。
クォート皇家の血統魔法はすべての魔法の支配。ラウラが自分でも気づかないうちに父から相続した魔法がすべてを完結させたことを、彼女は知らないままでいる。




