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竜と恋と石の花  作者: 重田いの
荒野の魔女のはじまり

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壁に叩きつけられたルイーズは声にならない悲鳴を上げた。喘鳴が漏れ、涎が垂れ、肺がひゅうっと伸縮する音がする。


子羊は跳ね上がり、ラウラの前に出た。陰に溶けたままなりゆきを見守るエトナがいた。ラウラは黙ったまま夫の腕に飛びついた。生まれて初めて経験する本物の恐怖に目を見開くルイーズは、もうすぐ十六歳の愛らしさだった。

「――おやめなさいまし」

「キャイン!」


ラウラと子羊は同時に声を上げた。驚きのあまり大声を出すことができず、胸の奥にまだ残っていた血のかけらが口から飛び出た。げぽ。変な音も出た。ラウラは恥ずかしさをこらえてグティエルを睨み続ける。


「恥ずかしいことを。騎士が小娘に手を上げるとは。お放しなさい……」

「お前を傷つけていた」

「ルイーズはマヌエラの養い児です。あなたの妹のような娘で、私が来なければ花嫁になっていた娘です!」


グティエルの手がわずかに緩む。ルイーズの目はただでさえ大きいのにさらに大きく見開かれ、涙でいっぱいだ。その奥に本能的な絶望に満ち満ちた闇がある。その深さはどれほどだろう、彼女は確かにグティエルを愛していたのに、信頼していたのに、その兄のように慕った男は今彼女の喉に籠手を押し当てて壁に身体を固定している。窒息させられかねない状態で動きを封じられ、屈辱に感じない人間などいない。


「その血は」

「もうすんだことです。話はつきました」

「お前はいつもそう言うなあ……」

疲れ切った声音だった。グティエルは背が高く、体躯も大きい。その彼が二回りは縮んで見えた。


ラウラはいつの間にか年若い彼のことを頼りにするようになっていたが、それでも若すぎるからふたりだけでは大人たちの老獪さに勝つことはできない。


「私たちは協力すべきです。どう考えても力が足りません。味方が少なすぎます。ルイーズは今でこそ幼いですけれど、そのうちきっとあなたの忠実な臣下になります」

「――クォートの皇女だった人よ、ユルカイア人は宮廷人ほど忠誠に富んでも誠実でもないよ」


ラウラは絶句した。言うに事を欠いて宮廷人を誠実だとは!――ラウラに言わせればユルカイア人たちの朴訥で内輪の警戒心が強く団結する気風は宮廷人の何倍も人間らしく、好ましい。自分がその輪に入れないことと彼らを称賛することは、まったく別の話だ。


何かがおかしかった。たぶん、ラウラはグティエルのもっとも重要な部分を見落としていた。誰も教えられないから自分で気づくしかない部分を。

「俺はこれほど近しい人間さえ警戒しながら生きていかなければならないのか?」

グティエルの黒い目に涙が盛り上がり、それはルイーズの涙の温度と似て非なるものだった。彼は老人のように疲れ切り、幼子のように抵抗するすべを持たず、そして妻に本当に理解してもらえなかった夫として苦しみ抜いていた。


ラウラは最初から最後までわからず、そしてユルカイア人たちも心の奥底で理解しつつも言葉にできなかった一つの真実がそこにある。魔王エトナは絶望の中から生まれ、そしてこれまでの長い長い年月の中同じような人間はいくらでもいたこと。これまでは山が全部飲み込んでくれた。だが百年前からこっち、ことわりが壊れた世界で人間は自分たちでなんとかするしかない。


ルイーズが足をばたばたさせる。ラウラは金切り声を上げてグティエルの腕にしがみつき、なんとかその膂力を止めようとした。彼は少女の細首を壁に押し付けたのとは反対の手で、まさにルイーズの喉笛を掴んでいた。

腕と、手と。二つの力を同時に加えられ耐えられるはずなどなかった。


「やめて、やめて! ルイーズはあなたのために働けます、彼女にはまだ利用価値があります。価値あるものを殺してはなりませんグティエル! いけません、ダメ!」

ラウラは喉が張り裂けんばかりに叫んだが、曇った目で見るもの、塞がれた耳で聞くものはすべて水の中から見上げる水面の向こうのようにぼんやりとする。


陰の中、かつて魔王と呼ばれた狼が蹲って嘆きを押し殺す。


ラウラは絶叫した。


「だめだめだめだめだめッ!!」

ばきん。とあっけないほど軽い音を立ててルイーズの首の骨が折れた。か細い手足がだらんと垂れ下がり、命の輝きがまなざしから掻き消える。

「あああああああ……」


ラウラはどさりと膝をついた。子羊は彼女の腕の中に戻ろうと、あるいはグティエルから彼女を守ろうと、右往左往する。そのうちにはたと、気づいたように白い毛皮を震わせて立ち尽くした。


「そうだよ、獣。戻るときだ」


エトナの声は低く深く響き、陰から現れる仕草は狼というより山猫か鼬のよう。体重を感じさせない足取りで膝をつくラウラとグティエルの間に入り、その間決してしっぽは動かなかった。

「本来のやり方はこのようにして失われていくものなのだろう。さあ、己の主の心に還れ。俺は間に合わなかった。けれどお前はまだ間に合う」


そのときやっとラウラは理解した。エトナは最初から自分の血族の方しか見ておらず、ラウラはただのおまけだったのだと。いい加減わかるべきだった――ユルカイアに入り込んできた異物であるラウラのことを、誰も自分の真ん中に据えたりしない。


彼女が勝手に傷ついて絶句しているうちに、グティエルは静かにルイーズの死体から目を離し、

「ああ、よかった。ラウラ」

と微笑んだ。


ぞっとするほど美しい笑顔だった。黒い目は暗く、黒髪は幾重にも折り重なった闇に見え、左右均等に引き上げられた唇は噛み締められた結果血のように赤い。堂々とした体躯、すらりと立ったままの足の運び、全部が効率的な戦う者のかたちをしていた。


――彼は美しい。目は大きくないし唇も薄い。やつれているし、くたびれている。だがらんらんと輝く闇の色の目ばかりが目を引き、はっとするほど輝かしい姿である。


無意識に、彼女は一歩引いた。そういう美しさを持つ人のことを知っていた。とてもよく。この上もなく。グティエルは瞬く間に空いた距離を詰めた。

「どうして怯える? お前を傷つけたから消えてもらった。怖かったか? すまない」


心底悩まし気に彼は謝り、ちょっとした手違いを悔いるように眉を寄せる。エトナの言ったことなど聞こえていないかのようだった。子羊が震え、徐々に無数の紐のような白い物体に分解されていくことなど見えていないかのようだった。

「俺はお前をきちんと守りたいんだ。もしこれから先、敵対してくるような奴がいたら教えてくれ。小娘だろうが老人だろうが構わないから。な?」


いっそあどけない少年のように闊達に彼は微笑む。ちょっと照れたようにラウラの二の腕を掴んだ手は、あくまで優しく彼女を傷つけないよう手加減され、だからこそほんの些細な間違いで彼女の骨を折るだろう。

「俺はお前とユルカイアを変えたい。俺が作るのはお前のためのユルカイアだ、ラウラニア。いらないものは全部、なくしてしまおう」

そうして子羊はか細いカン高い悲鳴を上げる。上げ続ける。


ラウラはもうどこを見ていいのかわからない、ただ膝ががくがくして座り込んだ姿勢のまま夫の腕の温かさを感じていた。そこには血が通い、触れたところから何度も抱き合ったときと同じ安心感が溢れた。


子羊は無数の紐と糸に分離した。ラウラは呆けたままそっちに手を伸ばす。

「あぁ……」

「あ、」

グティエルが小さく呻くと同時に、光り輝く白い線と化したものたちが彼の身体へ吸い込まれていく。

「このようにして結局は同じ結末に収束していく」

と言ったのはエトナだったが、ふたりともすでに死んだ男の呟きを気にする余裕もない。


子羊はこの世から消えてしまった。いいや、最初から彼はどこにもいなかったのだ。分身体はグティエルに吸収され、一人と一匹はひとつになった。彼は少しよろめいた、だがそれだけだった。ほうっとため息をついて黒い目を伏せ、開けたときにはすでに彼の中に子羊がいた。


(名前を)

ラウラは思った。

(名前をつけてやればよかった)


我が子を失った母親とはひょっとしてこんな気持ちなのだろうか? 近しいのはペットに先立たれた飼い主だろう、だがラウラにとって子羊は心の拠り所であり一番の友達であり、生活を共にした仲間だった。ともに荒野を渡った小さな親友……。


「そうか」

彫像のように座った姿勢から動かないエトナの冴え冴えとした目に見つめられながら、グティエルはラウラに手を差し出した。

「こういうことのためにあったのか、ユルカイアは」


ラウラはその目を知っている――男たちが母カティアを見た目だ。とろんと理性をなくし、彼女のためならなんでもしますと陶酔しながら告げる、あの目。

「ラウラ。俺はこの土地がなんのためにここにあるかを知ったよ。あの山がどうして他ならぬここに突き立ったかも知った。俺が俺として生まれた理由も、わかった気がする」


グティエルは純真な少年のような笑みを浮かべた。それはもはやあの山猫の笑みの狡猾さも警戒心もない、彼がラウラにすべてを預けてもいいと思っていることを示す、あまりに無防備で可愛い笑顔。


――ラウラはグティエルを完全に破壊してしまった。


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