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グティエルはタコができた指の関節でラウラの頬を撫でた。
「よく眠れたか?」
彼女は首を横に振った。最近は非常に夢見が悪く、眠りも浅い。
「心配ごとばかりですもの」
「そうだな」
困ったような笑いで布団の中は満たされる。冷たいつま先を触れ合わせて話をするとき、ふたりの心は平穏だった。だがユルカイアには、悪いことばかりが起きた。
魔物は荒野を横断してクォートを襲った。大聖堂の結界は強固で、その侵攻を阻んだ。だが魔物はひたすらに都を、それを守護する大聖堂の結界を攻撃し続けた。腕が潰れたオーガは頭突きで結界を壊そうとし、それが死ぬとその上に仲間が上がって同じことを続けた。ワイバーンは空から幾重にも体当たりを仕掛け続け、コウモリの翼のはえたトカゲのようなその死骸が太陽を遮るほど結界の上に積み重なった。
そしてあぶれた魔物どもは近隣の街や村を襲いはじめた。クォート帝国はこれをユルカイアが魔王の呪いを克服できなかった証拠だとし、大聖堂もそれを支持。ユルカイアを討伐するための遠征隊が組まれた。諸悪の根源、ユルカイアを斃し魔物の波を止めるのだ。
遠征隊はそれぞれが簡易化された結界魔法を編み出す魔石を所持し、小さな移動する結界となってユルカイアへの北上を始める、らしい。
「何か中央の動向は掴めましたか?」
「いいや、何も」
と首を横に振るグティエルの言う通り、ユルカイアは帝国からいわば指名手配されたわけだったが、その宣言があってからまったく動きがない。どうやら皇族武人や貴族諸侯や大聖堂の有力者たちが揉めに揉めているらしいとわかってラウラは呆れ果てたものだった。
「今この間も魔物は平民たちの街や村を襲い、焼き払っているというのに……」
貴族は国が疲弊したときこそ人々をまとめ上げなければならない。だがおそらく宮廷人たちは政治を優先し、これ幸いと恨みのある敵を陥れようとしているのだろう。ユルカイアを本当に滅ぼしたい者はおらず、遠征軍の結集を隠れ蓑にもっと別の目的を達成しようとする。
「国にとって一番大事なのは民ですわ。どうして人々のために一丸となれないのでしょう。貴族たる者、皆地球の青い血が流れているというのに」
と、ラウラは理想論を言う。綺麗事を言う。憧れた物語の高潔な尼僧の文言を真似する。それが真似だという自覚もなしに。
彼女の浮世離れしたそれらの発言がますますユルカイア人たちの反発を招くのだとグティエルはわかっているが、彼は高潔で勇ましいことを言うラウラを見るのが好きだった。自分が得られなかった清らかなものが形を取っているのを見るようで。ラウラの何かに憧れる顔は、かすかな記憶の中の母が遠くを見る目に似ている。
「民が疲弊しているならまずは私財、国庫を投げ打ってでも助けてやるべきです。彼らの収めてくれる税で私たちの生活は成り立っているのですから、彼らが死に絶えては我らも共倒れです」
「その通りだよ」
と呟いてラウラを見、グティエルはふっと笑った。嘲笑と微笑ましいの間のような笑みだった。
「お前にとって平民は、自分の持ち物なんだな……」
「えっ……?」
ラウラは目を見開く。それの何がおかしいのだろう?
「俺はユルカイアの持ち主で保護者だが、平民はユルカイアの愛し子だと言われて育った。たとえ俺が嫌でも人々がいいと言うならそれを尊重してやるべきだと。この土地はみんなのもの。俺一人のものではないと」
「それでは……貴族のいる意味がなくなりますよ。何のためにあなたが身体を張って山で戦ってらっしゃるのかわからなくなります」
「それは俺の役目だから。庭師は庭師の、洗濯女は洗濯女の仕事をするだろう。それと同じだ」
グティエルが言い切るとラウラは不服そうに眼を細めた。
「でも、最後に彼らを守ってやれるのは私たちですから。彼らが働くのも死ぬのも私たちのためでなくてはなりません」
グティエルは笑って身を起こした。疲れは残っていたが、動かなくてはならない時間だった。
彼はラウラの額にキスをして、妻の美しい顔をとっくり眺めた。彼女の愚かさも世間知らずも冷酷さも、まとめてグティエルは愛していた。それは驚くほどの深さだった。たぶん最初に顔を見たときから。一緒に薬を作り、そして塔で再会したときも、五体の死体を見られたときだって彼は彼女に幻滅されたくないと思っていた。確かに父のようにはなるまいと、マヌエラの思い通りになりたくないという思いから始まった感情だったが、それは思った以上に大きくなってグティエルの心の真ん中に根を下ろしていた。
「もうちょっと寝てろよ。俺は次の山行きの支度をする。あと、村を回ってくるから」
「ご一緒します」
「いいから」
ラウラと周囲のずれは日増しに大きくなっている。彼女は再び診療室に陣取ってクズ魔石の加工を始めていたが、タネが割れた今となっては人々はたとえ死にかけてもその石を使わないだろう。もし使えばユルカイアを裏切るのかということになって、どの道ここにいられなくなる。人を襲う魔物が地表に溢れる今、他の土地へ移動することは死を意味する。
閉塞感と絶望が人々に蔓延する前に、グティエルはラウラを荒野に逃がしてやるべきだった。あそこなら彼女は安全だろうから。だができなかった。
ユルカイアの人々はグティエルを大事にし、一番いい狩りの獲物と一番よく焼けたパンをくれる。笑顔でやんやともてはやしてくれる。――だがもし山から再び魔物が湧き出てきたら、責任を取らされるだろう。彼は逃げた父親とよそ者の母親から生まれ、もはやマヌエラの庇護もない少年である。
グティエルのことを本気で心配してくれているのはラウラだけだった。その理由が定められた夫だから、というものでも構わなかった。彼は拠り所を必要としていた。おそらく本人が思っている以上に。
グティエルはラウラを残して城の外へ出た。城の中は暗く、うっすらと張り詰めた雰囲気が漂う。村へ降りると広場に焼け跡があった。彼は肺の中がひんやりするのを感じた。
人気の少ない村の中心で彼は叫んだ。
「何を燃やした!? 人か、それとも!」
答えはなかった。朝の空気は靄を運び、それが露となって垣根や建物の屋根から滴っていた。
――彼の知っているユルカイアは人々が貧しくも寄り添い、助けあう場所だった。だが魔物が大移動を開始し、それに伴って少なくない犠牲が出た今、人々の輪は暴走しかけていた。はぐれ弱った魔物を見つけ捕まえては火炙りにする、のはまだ理解できる。
ユルカイアは貧しく、混乱の時代が目前にあることは誰に目にも明らかで、誰もが金目のものを欲しがっていた。魔物の襲撃により、小さな町や村は壊滅したものもあった。それらの避難民を受け入れたと見せかけて殺し、その持ち物を奪おうと考えるユルカイア人がいるとは、グティエルは考えたくなかった……。
だがこれが現実だった。彼は村長の家に向かったが、出てきた老婆は息子は狩りに出て不在だと言った。ささやかな針葉樹の森の中で解体されているのは、獣だろうか。それとも?
グティエルは声を抑えて礼を言い、森に向かう。つまり人々はこう考えたのだった――グティエルのように年若い辺境伯では、中央の征伐軍になんの抵抗も出来ないだろう。ならば自衛のため、できることをしなくては。金を貯めなくては。奴隷を集めなくては。
これまでずっと北の辺境はそのようにして自らを守ってきた。魔石の採掘地となる以前のユルカイアの主要産業は傭兵の輸出、そして略奪だった。
頭が痛かった。ラウラが心配だった。雪が降り始めていた。冬がやってくる。避難民は増えるだろう。
グティエルはラウラの目からユルカイアの暗部を隠し通し、彼女が憂いなく生活できるよう守ってやるつもりだった。自分の力が足りなくても、誰も言うことをきいてくれなくても、そうするつもりだった。
冬の空は暗く、魔物の溢れる暗黒の時代がすぐそこまで来ている。




