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ラウラは夢を見た。また悪夢だった。
彼女は回廊を走っており、胸がゴロゴロして呼吸が苦しかった。走っていることによる負担はまったく身体に感じられなくて、ただ大きな不安と恐怖がのしかかっているのが夢に現れるのだった。追手は誰だったのだろう、それはわからない。ただ冷酷なまでに一定の間隔で追ってくる足音があり、それがとても怖かった。
彼女は目を覚ました。布団の上に重みがあった。見上げるとグティエルの頭だった。
「あなた」
と小さく呼びかけてみたが反応はない。まるで抜け殻だ。寝息さえ小さすぎて聞き取れないほど静かに、グティエルは眠っている。ラウラの腹の上に頭を預け、床に膝、ブーツも上着も脱がないままで。
きっと山から戻ってきてすぐにここに来たのだろう。ラウラは薄いため息をついたが、嫌ではなかった。
彼を起こさないようにベッドを降り、衣服と靴を脱がせてやり、みっちり筋肉が詰まった重たい身体をどうにか横たえてやる。その間も起きないのだから大したものだ。
疲労困憊、全身に軽く汗をかいてその隣に滑り込むと、手探りで腕が伸びてきて引き寄せられる。抱きしめられてラウラは赤面した。うぶなものである。男とキスしたことがあるし、侍女たちの助けを借りて着替えているところに大勢で乱入され裸を見られたこともあるというのに。
主賓室と呼ばれるそこそこ豪華な客室だった。前にフォルテが来た時もここに泊まったのだという。
正妻の間は……もうだめだった。マヌエラの血と体液、引き摺り回されて皮膚ごと抜けた髪の毛、ちぎれた腕。それから数々の傷がつき、砕け、へこみ、ぐちゃぐちゃになり、もう使い物にならない。ラウラが指示を出し、侍従たちで取り急ぎ部屋を掃除した上で閉鎖した。従ってくれたのはそうすることでラウラに全責任を被せられると彼らが思ったからだった。それは実際、その通りだったし、そこから逃げる気もなかったのにそれから数日は厳重に監視され、辟易したラウラだった。
グティエルはマヌエラが消えて、さらに三日後に帰ってきた。
「ああ、お帰りなさい。残念なお知らせを伝えなくてはなりません」
と決意を込めて言うラウラに、夫は静かだった。取り乱したり大声を上げたりはしなかった。ラウラが気づかなかっただけで、元々静かな性分なのだろう。
「わかってる。マヌエラが死んだんだな?」
「ご存じで……」
「山の中で親父に会ったよ。彼女の首を咥えていた」
もはやそれだけで説明もなしに何もかもわかった。
「さんざんしゃぶったり齧ったりしたんだろう、皮がほとんどなくて。だが髪の毛が少しばかりへばりついていたからわかったんだ。あれはマヌエラだった」
そうして鎧を脱ぎ捨てながら自室へ消えていった。ラウラは後始末を使用人に命じ、後を追った。彼をひとりにしてはいけないと思った。
グティエルは空っぽに等しい質素な自分の部屋で兜を脱ぐと、力任せに床に叩きつけた。ガツンと音がして金属はへこみ、絨毯ごしにきっと石の床にも傷がついたことだろう。
ラウラは部屋の戸口で黙っていたが、やがてゆるゆると彼に近づいてその背中に手を当てた。拒否されなかった。
「親父が母上じゃなくマヌエラが好きなことはわかっていた。マヌエラが口では俺の母親ぶるくせに、ちっとも俺を好きじゃないのもわかってた。父上もだ。マヌエラが愛してくれないのなんて知ってた癖にあんなに献身して――あの女は結局、自分のことだけが可愛かったんだのに!」
激昂というのは奇妙なもので、これほど抑えた低く呻く声であってもその激情は伝わるものである。ラウラは彼のチュニックごし、汗をかいた肩甲骨の間に額を預けて小さく祈った。夫の魂に平穏があるように願った。
彼は振り返り、ラウラのつむじを見下ろし、そのまま顎が掬い上げられキスされた。熱くとろけるようなキスだった。ほのかに火酒と干し肉の味がした。それからその奥に、愛されない痛みと苦しみの涙の味がした。
ふたりはルイーズが呼びにくるまでずっと舌を絡めあっていた。まだ拙いキスだったけれど背骨がぞくぞくするには十分だったから、ルイーズが来てくれなければそのまま終われなかったに違いない。ラウラは初めて他人の粘膜が気持ち悪くないことを知った。ルイーズが金切り声で非難するのも気にならないくらい夢中だった。
そこそこ満足するまで互いを離すことができず、ぷりぷり怒ったルイーズの前で笑い合ったのは記憶に新しい。それからグティエルはラウラが新しい私室に据えた主賓室に住み着くようになった。
まだ夜明け前である。マヌエラが枕元に見つけた日からこの数日、まるで夢のように日々は過ぎた。グティエルは山のことが気がかりで、ラウラには冬支度のため城の面倒を見なければならなかった。互いに忙しかったが暇を見つけては取り止めのない話をした。それが楽しかった。社交という目的なしに男と話すのが、後で話した内容を触れ回られないとわかっているのが、これほど楽なことだとは思わなかった。
彼女の腕の中で夫がピクリと痙攣した。ラウラが分厚い肩を撫でると震えは治った。ここでこの手が他の女のものでも同じ結果になっただろうか? ラウラはいつか夫が自分以外に救いと癒しを求める日が来るのがすっかり怖くなっていた。貴族の生まれであれば当主の愛人、妾なんて当たり前にいるものである。ラウラもいつか夫がよその女に産ませた子供に財産を分け与えようとしたら戦うつもりだったが、果たしてその日が来た時、自分が耐えられるかもう自信がない。
かつて、グティエルと抱き合う前にあった強さが消えてしまった感じがして、だが代わりにこの平穏がある。ラウラが夫の頭を抱き抱えると、もう一度痙攣が起きて今度は彼の目が開いた。黒い目と灰白色の目が視線を絡め合う――それから自然とキスがあった。
「お腹空いてますか」
「まだ、大丈夫だ。山の中で軽く食べたから」
「保存食でしょう。身体に障りますよ。温かいものを召し上がらなくては」
「そうだね」
グティエルの指先、肩、首筋、それから膝も、関節のあるところじゅうに細かい魔石の鱗粉が付着していた。洗わないと取れないのだ、これは。きっと今頃ラウラも全身がほのかに発光していることだろう。
山の中からごっそり魔物が消え、彼らの生体活動によって抑え込まれていた魔石鉱脈の算出量が増えていた。山全体がもつ魔力は石の姿で結晶化して地表に出てくるが、これまでは魔物たちの往来によって自然と削れていた。
削れた魔石のかけらは再び寄り集まってクズ魔石や魔石になったり、だがほとんどは空気に溶けて再び山に還る。グティエルはそれらを浴びて、山の中からラウラの元に帰ってくるのだった。
ラウラは眉を寄せながら彼の全身を確かめにかかった。さっき肌着以外を脱がせてしまったので、太ももだの腹の横だの、普段隠れているところもよく見えた。
「魔物と戦っていた時より傷が多いです。やはり人を訓練して山に伴った方がいいのでは」
「みんな嫌がる。寿命が縮むし変になった子供が生まれると言ってな。無理強いはできないよ」
魔物が消えて山の循環が乱れた今、カビのように後から後から湧いてくる魔石を駆除する必要が出た。そしてそれができるのはグティエルくらいだった。彼は自分の魔力をぶつけて魔石を砕き、あるいはそうしきれないものを採取して持ち帰ってきた。鉱脈が枯れたというのはいったいどこの誰の流したデマだったのか、ユルカイアは今でも立派に魔石の採取地である。
「みんなが恐れていたのは魔物じゃなく山そのものだった。こんなになるまで気付けないなんてな」
ラウラはグティエルの胸元に抱きついて、鎖骨に頭を擦り付ける。
「あなたばかりこんなに働かせて、本当に平民ときたらしょうがない……」
「お姫様、また嫌われるようなことばかり言って。しょうがないのはお前もだぞ、ラウラ」
「まあひどい。お味方しようと思った旦那様にそう言われては立つ瀬がありません。荒野に帰らせていただきますわ」
ふたり、忍び笑いに笑い合った。際どいことを言って状況を笑うのが、それを躊躇なくふかっけられるのが楽しかった。グティエルと話すとラウラは自分自身を見つけられるような気がするし、グティエルの方もラウラに会えない日々は寂しいのだという。そんなふうに甘えた愛の囁かれ方をしては、遠くないいつかにラウラはだめになってしまうかもしれない。




