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竜と恋と石の花  作者: 重田いの
荒野の魔女のはじまり

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「あ。だって愛されていたのでしょう? 他の子供たちの誰よりも――」

「そりゃね。でも愛されてさえいれば万事解決ってわけでもないのよ」

「そう……」


ラウラにはわからない。愛されているというのは嬉しい状況のことを言うらしいというのは知っているが、体験したことないからわからない。心がふわふわして、足元が柔らかくなったような気がして、毎日が楽しくなる、愛されると日々が幸福になるらしいのだ。


とはいえ一生わからないままだろうラウラが何を思ったところで、それはマヌエラにとって子供じみた妄言に過ぎないだろう。

「ねえ、タイリー様はどうだったの」


ふと、ラウラは思いついたままの疑問を口にしてしまった。彼女は知らなかったが狼たちはユルカイアの亡霊であるので、誰かがその名を口にして、思い出してくれなければこの世に現れることはできない。子羊はグティエルの心そのものであり、常に身内のことを思っていたからこれまでエトナもタイリーも狼として現れることができたのである。子羊は本能だけの生き物で、嘘も建前も必要としない。


その彼は今、ベッドの下でくうくう寝ていた。女二人の火花散らす会話などいざ知らず、幸福な二度寝である。

「どうだったって?」

そろそろ会話に疲れてきた、とマヌエラは煩わしげにラウラを見る。気だるい視線は色っぽく、ラウラは思わず笑い出しそうだった。


そうか、マヌエラは――マヌエラもまた、自身の能力すべてを使って欲しいものを手に入れようとし、格下の誰かを踏み台にして立ち続けようとした、たくさんの女たちのうちの一人にすぎなかったのだ。かつてローデアリアの名もなき王女の一人に過ぎなかった母がクォート皇后にまで成り上がったように。


マヌエラもまたただの女だと知れば、もう怖くはなかった。


「タイリー様も心がなかったの? さっき、グティエルは父親と同じだって言ったわ」

「何考えてるんだかわからない男だったわ。私に惚れてたの。ふん。私はエトナ様の忠実な僕だって、何度も言ったのに」

「ひどいことを。彼が聞き耳立てているかもよ?」

「タイリーはここへは来ないわよ」


マヌエラは勝ち誇った、小馬鹿にした目つきをした。到底侍女が主一家の血を引く者に取れる態度ではないが、そう、彼女にとってタイリーはまさしく格下の親族なのだろう。グティエルも同じく。


「私が来ないでと頼んだから、彼はここに来ないの。だから私はこの部屋でエトナ様と何時間も一緒に過ごせたの。当然よね? ここは私の部屋なんだから。私の言葉の結界にタイリーは逆らえないわ」


夢見るような顔だった。

ラウラは首を傾げた。

「タイリー様はこの部屋へいらっしゃいますよ。お会いしたこと、あったもの……」

「え? ありえないわ。私は来ないでって頼んだわよ」

「ええ? でも、確かに……」


彼女たちは戸惑った。齟齬は確かにそこにあった。結論を言えばマヌエラは迂闊だった、ラウラのように。一度支配したものが歯向かってくるとは思いもよらなかった。そのくらいユルカイアは彼女の思いのままだったし、女たちは彼女に敗北し、男たちは跪いてきた。マヌエラにはそれらの負け犬たちを一顧だにせず何もかも奪いつくす権利があったはずだった。だって――彼女を愛で支配した父も同じことをしたのだから!


「タイリーは私の奴隷よ」

マヌエラは誇らしげに言い放った。胸を張り、堂々としていた。

「私がほんとの領主なんだもの。民たちは私の方を選ぶわ。彼らに金を貸しているのも私、相談事に乗ってあげるのも私。ヴァダーもタイリーもグティエルもしたことと言えば魔物と人間を殺したことだけ」


首を横に振り、顎に人差し指を当て、可愛らしく唇をすぼめ、頬に寄った小皺さえ愛らしい。マヌエラは完璧な貴婦人に見えた。少なくともラウラには。クォートの宮廷にいたって都育ちの他の婦人と遜色ないだろう。


ああ。


ラウラは懐かしさのあまり心臓が一瞬動きを止めたのを感じる。彼女は目を見張り、突然全身を襲った寒さに身震いした。マヌエラは気づいていない様子できらきらと目を輝かせ、自分が手にしているものを再確認していた。


「そうよ。頑張らなきゃ。私がいないと、ユルカイアはだめなんだもの!」

「あなたは――」


私の母と同じタイプの女性ね……ラウラはそう言いかけて、マヌエラの後ろ、部屋の隅の暗がりの中に佇む悲しみで項垂れた狼を見つける。毛並みは黒。それは美しい、山の中の道そのものの黒色。グティエルの髪には魔石のきらめきが入るが彼には入らない。タイリーはユルカイアの闇そのもののような人生を送り、狼となったから。余計なものが入る余地はなかったのだった。


警告を発することはできたがラウラはそうしなかった。そうする権利はないと思ったのもあるし、突然の恐怖に身体が動かなかったと言い訳することもできる。だが本当に、一番に思ったのは、

(これは正統な復讐だわ)

という、ただそれだけの願望だった。わくわくした心臓が再び動き出した頃には、タイリーの巨大な牙がマヌエラの首と肩の間のところを貫通していた。


悲鳴はなかった。タイリーの下顎の牙が喉笛を切り裂いたから。がぼがぼと溢れてくる自分の血に溺れながら、マヌエラは信じられないとばかりに黒い狼を見つめている。


つまりはこういうことだった。


マヌエラはタイリーが生まれたときからその傍らにいた。マヌエラにとってタイリーは異母弟ヴァダーの子であるから甥である。アンティーヌはその頃すでに身体を壊していた。寂しいタイリーはマヌエラを慕って育った。魔法と巧みな言葉さえあれば、幼子を依存させることはたやすい。マヌエラはそのようにした。おそらくは彼女とエトナの約束を、ユルカイアを守るために。


そしてタイリーは成人して嫁を取り、産褥で妻子をなくし、次もそうなり、その次は花嫁に逃げられ、その次……五人の妻を失った。最後の妻がグティエルを産んだが、グティエルの言う通りなら彼女は男と一緒に逃げた。タイリーはグティエルとほとんど接触もせず、マヌエラは幼いグティエルを思い通りにした。そしてタイリーは山の中に消え去り、グティエルが辺境伯を継いだ。


(愛で縛って、動けなくして、人生を吸い尽くして、ああ、それでも足りないから次を見つけて、前のはボロ切れのように捨てて……)


ラウラは目を閉じる。もう見ていられなかった。狼はその爪と牙で女性の身体を引き裂き続ける。野生動物ならば息の根を止めたら止まるはずである。だがタイリーは動物ではない。


自分が犠牲者であることがわかっていただろうに、それでもユルカイアを守ろうとした。彼はマヌエラの殉教者だった。


タイリーはその太い前脚で難なくマヌエラを押さえつけると、牙で臓物を引き摺り出し始めた。残酷なことに指がまだピクピク動いていた。意識のあるなしは、わからない。かすかな魔法の起動の気配をラウラは感じたが、その呪文は完成しなかったらしい、風のひとそよぎも起きなかった。


食われて血を流し青ざめたマヌエラの肌はまるで陶器のように滑らかで、じりじりと明けていく早朝の冷たい光によって青白く輝いた。恐怖に満ちた彼女の整った顔立ちが、半分になって血を吹く首にあわせプランプラン揺れる。


最後にタイリーは動かなくなったマヌエラの顔を丹念に髪、皮を剥がし、顔面を削ぎ落した。ユルカイアの法としきたりに則って。裏切り者、罰を受けるべき者は顔を剥がれるべきなのだった。


「タイリー様」

ラウラは呼び掛けた。

「もう十分だと思います。それ以上のことをなされば、私刑の謗りを受けましょう」


「構わないさ!」

谷底に沸く澄んだ湧き水のように深い声で、いっそ明朗快活なほど割り切った決意をタイリー示す。

「俺は俺が奴隷だったとわかってスッキリしているよ。ああラウラ――」


彼は大きな顎でこと切れたマヌエラの身体を掬い上げた。暖炉の火が乱闘の影響で消えてしまい、彼のしっぽの動きに合わせて灰が舞う。

「グティエルを頼むなあ」

「――心得ております」


そうして太い前脚がドカンと壁を割って、まだ新しかった修復された山へ続く道が現れる。ラウラがそこをくぐったのはいったいどれほど前だったろう?

消えていく黒い狼と女性の姿を見送って、ラウラは枕に頭を沈めた。ズキズキ頭が痛くてたまらず、朝だというのに疲れ切っていた。


だが彼女は手を伸ばして鈴を鳴らし、使用人を呼んだ。

グティエルが帰ってくる前にこの惨状をどうにかして、そして彼にどう話すべきか考えなくてはならない。


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