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彼女は自分の離宮の前の車寄せに座っていた。大理石の階段はお尻をきんきんに冷やした。父が訪れてくれるのを待っていた。その日も母にしょんぼりするまでいじめられたあとだったので、台所で使用人が作ってくれるシチューのおいしそうな匂いに目もくれず、ただ父を待っていた。
父に親近感を持っていたといえば、普通の子供なら当たり前だが皇族としてはなかなか珍しいことである。年齢が十歳を数えれば自然と、親であれ兄弟であれいつか敵になる可能性があることに気づき心の距離を離すのが宮廷で育った子供の常だった。
宮廷は広かった。子供の数だけ離宮を建てても土地が余るほど。中央にそびえる内宮は帝国の政治を司る場所で、許された者だけが入れる不可侵の聖域――だったのは今は昔。母の愛人が変わるたびその一派が出入りし、侍女たちは襲われ、侍従たちは殴られ、もっと下級の使用人はもっとひどい目にあう。だから皇女が行ってはならない。そう言われる場所になっていた。
当時のラウラは聖なる場所を穢し続ける母を憎んでいたが、今となってはああして地方有力者の機嫌を取ることで帝国を維持していたのだとわかる。許す気はないが、母は確かに帝国の犠牲者だった。
遠くの尖塔のさらに向こう、都の街並みが広がり、さんさんと太陽の光が当たっているのが見えた。本来なら離宮の屋根にでも上らない限りそんなものは見えない。でもこれは夢だから。
夢の中で見る夢のような景色だった。陽光に照らされた都は淡い紫色から茶色がかったオレンジ色に変化し、やがて息を呑むほど鮮やかな金色がきらめいた。ガラスの窓や装飾された屋根のきらめき。影になったところの濃い群青色が徐々に緑がかったより深い青い色に変化していく様子……。
「見てよ、フラウ。街を見て。きれいでしょう?」
当初の目的も忘れて彼女は妹を抱き上げた。ラウラの腕の中、赤ん坊の妹はすやすや眠っていた。彼女をこんなふうに抱きしめたことはない。彼女を愛したかったが、愛することを許してもらえた覚えはない。
だからこれは夢だった。美しくおぞましい夢。
「色がいっぱい」
と妹はきゃらきゃら笑った。
「きれいね、ラウラ」
「そうね」
心が弾んだ。妹はこっくりした黒い目でラウラを見上げた。やがて妹の目は成長と共に美しい澄みきった青に変わって、それを見た母は彼女を溺愛しはじめる。自分と同じ色を持った子供だとわかったから。そしてラウラは彼女たちから取り残された。ラウラは醜かった。
だがグティエルは美しいと彼女を評価した。それは宮廷人にとって、クォートの名を冠する者にとって、存在自体が報われたのと同じことだ。
彼らは誰かの心を癒す美しい人形としてプログラムされて生まれた。自我を得てもなおその強迫観念は文化として、もはや言葉にする必要すらない社会の根底として根付いている。
眠りながらラウラは泣き、そして笑った。もし誰かが見ていたら不気味に思ったに違いない。
夢の中の空から花々が降ってきた。ラウラは赤ん坊の妹と一緒にその下で踊った。
「きれいね、きれい」
「きれいだもの。きれいだもの」
鮮やかな色の花びらが地面に舞い落ち、色とりどりの道を作る。
やがて生花は石の花に変わった。かたまりになって落ちてくる融合した宝石がひとつ、ふたつ……いつつ。むっつ。ななつ。
地面に落ちた石の花は生首に変わった。顔を削がれた死体の首だった。
ラウラはそんなことに構わなかった。妹も気にしていないようだった。彼女は空中に浮遊する青い宝石を掴むと、うねる黒髪をかきあげ耳のすぐ後ろに飾った。ピンもないのに宝石は彼女の耳に張り付いた。
小さな濃いピンクのアパラチアが無数についたバロックパールのかたまり、クローバーのかたちをしたアメジスト、金と合金がどろどろに混ざり合った奇妙なかたちの何か。生首がほよほよ花の上に跳ねて、その動きは子羊を思わせた。
やがて石の花も地面に跳ねはじめ、色の洪水の向こうに男の影があった。父が……迎えにきてくれた……。
腕の中で妹がもがくので、ラウラは彼女を床に下ろした。一瞬だけ男の方を向いてから手を繋ごうと伸ばすと妹はもういなかった。
汗みずくで目を覚ました。腕の中で子羊が心配そうにメエと鳴き、彼女の顔を覗き込んで鳴きそうになっていた。
「魘されてたわよ」
とマヌエラは言った。
ラウラは弾かれたように顔をそっちに向けた。子羊がまったく警戒していなかったので、まさか彼女がここにいるとは思わなかった。
繻子張りの椅子に腰かけ、マヌエラはぼんやりとした目つきで暖炉を眺めている。たっぷりと蓄えられた薪が赤い光を反射する。
窓の外の暗さを見る限り明け方らしかった。マヌエラは女中服ではない、複雑な仕立ての貴婦人の服を着ていた。胸元の大きなリボン、腰にも同じデザインのリボン、そして袖口にも。詰襟と相まってそれらはマヌエラを縛るもののように思われた。
距離ならば数歩の近さなのに、これほど遠くにいる女がこの世にいるとは不思議だった。ラウラはゆっくりと上半身を起こし、汗で張り付く寝間着に顔をしかめた。
「ここは私の部屋だったのよ。お父様は一番かわいい私にここをくれたの」
マヌエラは誇らしげに告げる。そのときばかりは肩がきゅっと持ち上がる。
「お母様はここで暮らせなかった。正妻が頑として譲らなかったの。あの女! 愛されてもない癖にいつだって偉そうだったわ。今思い出しても腹が立つ」
――それはその人が正妻だったからであって、何も間違っていない。ここは代々の正妻が暮らす部屋なのだから。権利は受け取るべきと位置付けられた人のためにある。そうでなければ貴族が平民を支配するという地球時代からの伝統の示しがつかないではないか……と、ラウラは反論したかった。だがあまりにも頭が重たくて、頭が揺らいだのを同意の頷きにとられたのだろう、マヌエラはにんまりした。そうすると彼女の顔は奇妙にグティエルに似て見えた。
マヌエラの髪はまっすぐな金髪だが影になる金茶の部分が闇のように深く、絹のように滑らかである。彼女が無意識にその髪を指先で弄ぶたび影る部分がグティエルの黒髪に見えた。ラウラは枕を立て、頭を預けた。もはやマヌエラの前で取り繕う気も起きなかった。
「あなたが来るまで私がこの部屋を使っていたの」
「まあ、グティエルは何も言わなかったの?」
「いうはずないわ。ずっとそういうものだと思わせて育てたもの」
彼女は無邪気に笑う。ラウラはその目元にグティエルとの共通点を発見する。一つ見つけると次々出てくる、二人の血がつながっている証。ラウラは胃液がせり上がってくるのを必死に飲み下す。
マヌエラの瞳は深い海の青を思わせる黒。グティエルの目は山の中のきらめきを集めて閉じ込めた闇と魔石の神秘の黒だ。感情が高まったマヌエラはきらきらと頬を上気させ、小娘のように見えた。目尻の皺は笑いの中に消え、すんなりした指先が金髪をいじる。
「ユルカイアは私のものよ。お父様が私に残してくださったもの。私はぜったい譲らないわ。誰にも」
「グティエルにも?」
ぴたりとマヌエラは動きを止めた。
「――いいえ。あの子は正統後継者。私もいつかは認めなくてはならないでしょう」
うとうとしているように見えてくれと願いながら、ラウラは腕で目元を隠した。歪んだ唇が欠伸をこらえたのだと、見えてくれ。
「なあに、何か言いたいことが?」
マヌエラは尖った声で言う。
「言いたいならお言いなさい」
「大聖堂にあなたみたいな人がいたわ」
笑顔を作ったマヌエラが何かを考え込むときその目元に現れる軽い皺は、グティエルが真剣に何かを見つめるときの目元にそっくりだった。
ラウラは目を上げ、弱々しく遠くを見つめながら言葉を選ぶ。




