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竜と恋と石の花  作者: 重田いの
荒野の魔女のはじまり

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ラウラは椅子から投げ出された。グティエルはとっさに彼女の腕を引いて支えたが、そのせいで肩に鈍い痛みが走ったことにラウラは気づかないふりをする。老婆のようで恥ずかしいから。


躍り上がった子羊が彼女の身体に覆いかぶさり、守ってくれようとするのがいじらしかった。ラウラは子羊を抱え、身体を起こした。


揺れは収まってもまだ地面のはるか下で蠢く何かがあった。小屋全体が揺れて軋んでいた――五体の死体もぶらぶら揺れていた。


グティエルに手を引かれて外へ転げ出る。裏口ではなく表の少しましな玄関から。地面は小刻みに揺れ続ける。遠い時代の記録のおかげでラウラは地震というものがあることを知っていたから、ひょっとしてそれかと思った。だが実際はまったく別の、もっとひどいことが起きようとしていた。


振り返ったときにはすでに小屋の基礎部分が崩壊を始めていた。頑丈な石が地中に埋められていたはずだったのに、土の部分から地割れが起きて地面が歪む。それは恐ろしいほどゆっくりと起きた。ラウラの想像していたものとはなにもかもが違った。

「こっちだ、急げ。森の中へ」


グティエルはラウラの肩を抱え込むようにして道のないところを走る。何度目かもわからない鳴動が収まると、小屋のあったところはちょっとした崖になっていた。建造物は飲み込まれ、もちろん死体も。まるで幻だったかのように何もない。ラウラは息を荒げながら夫に身を擦り寄せた。感情的になって、誰かが彼女を笑うかもしれないという恐れはどこにもなかった。子羊の身体が緊張して、今にも飛び出そうと四つ足に力を込めている。ぜったい手放さないぞとラウラは腕の力を強める。


見上げるグティエルは眉をひそめて小屋があった方向を睨み、そして木陰にラウラの身体を押し込んだ。

「静かに。何があっても声を出すなよ」

彼女はただ頷く。どうしたことだろう、グティエルの顔がとんでもなく美しく頼もしく見えたのは?


何度見上げても変わらない。元々夫となる男性の美醜に文句をつけないよう仕込まれた。だから何も気にしていなかったはずだった、グティエルの黒い髪も黒い目も、北生まれらしい白く抜けるようなしみひとつない肌も、ごつごつした手、剣ダコ、足取り、馬の口をぽんぽん叩いて声をかける様子まで。全部を受け入れてきたはずだった。


彼の目はきらきらと幾重にも黒の層が重なって、それらが一体となっていた。青味がかったそれぞれが微妙に違う黒の共演。髪も同じだった。一色だけの黒ではなく、もっと複雑で色合いがあった。頬の輪郭、高い鼻梁、口元にわずかに歯を食いしばったあとが浮き出るところ、それからすっきりした目元の骨、そこに落ちる睫毛の影。


グティエルがこれほどまでに美しいことに、ラウラはどうして気づかないでいられたのだろうか。今になって気づいた意味は何? まったく、よりにもよって今。死体いつつと山の異変と敵を発見した夫。これだけ条件がそろわなければわからなかった。ラウラは人が人を愛することがあると知っていたし、実際にグティエルのことが好きだったが、まだそれだけだった。自分が感じることのできる愛にはより深いところがあり、そこに浸ると戻れなくなるということを知らなかった。


彼女がしゃがみ込んで身を隠しているうちに、グティエルは穴から流れ出てきた魔物と対峙している。あ、と反射的にラウラは魔力を練ろうとした。身を守るためではなく夫を助けるために火の玉や雷鳴を呼ぼうとした。そして心臓の隣に走る痛みにそれがもうできないことを思い知らされる。彼女は呆然とした。


(それじゃ私はこれから先もずっとこんなふう?)


隠れているだけ、守られているだけ、なんの役にも立たないで。猛然と腹が立った。ラウラは少なくとも、足手まといでしかない存在ではなかったはずだった。


だが今の彼女にできることは何もなかった。心配して顎を舐めてくれる子羊の舌さえ今は痺れるように痛い。


グティエルは三体のグールを危なげなく殺し回っているところだった。グールは緑の腐りかけた肌をした人間によく似た魔物だった。目も鼻も耳も腐り果て、身体全体がどろどろと崩れそうになっている。


グティエルが短い叫び声を上げたのでラウラは腰を浮かしかけたが、彼はその声により目の前の敵を威圧してひるませた。びくっと一瞬動きを止めたグールを彼は刺し殺す。剣ではなく刃渡りが腕より短い短剣だった。ラウラはハラハラしたが、目を逸らすことはできなかった。だが心配は不要だった。


グティエルは無表情のまま、残りの二体の間に割って入った。一方の首を跳ね飛ばした。くるりと振り向きざまもう一方も同様にした。日常のささやかな動作の一部であるといわんばかりの慣れた動きだった。


彼は短剣を服の裾で拭き、鞘に戻す。ベルトにそれを挟みながらラウラの元へ戻ってくると、一切息を切らすことなくかすかに微笑みながら言った。


「地下から出たばかりで動きがのろくて助かった。――おいで。城へ行こう。ここはもうすぐ魔物が溢れる。お前が通ってきた地下道に奴らは溢れている。先行した奴が死んだあと、次が押し出されるまですぐだ」

「え、ええ」

「籠城戦が始まる。魔物は人間を見境なく襲うから」


ラウラは彼に従って走りかけながら、舌を噛まないよう気を付けながら言う。

「ねえ! それならマヌエラが魔物を操って、人を襲わないようにしてくれるんじゃ?」

「何の話だ?」


山から城へ続く小道をできる限りの速さで走り抜けながら、回復が追いつかない足に舌打ちしながら、ラウラはかいつまんで話した。彼女が先祖返りのエルフだということまで。グティエルの顔に走った痛みは、ラウラの持つ言葉では言い表せない。


「俺はそんなこと知らない。彼女は本当に、俺に多くを隠してるんだな」

「ごめんなさい」

「謝るなよ。お前のせいじゃない。彼女は俺を信用してない」


小走りに彼らは坂道を駆け下りた。見張り塔はすぐその全貌を表した。グティエルは古い時代の城壁の名残りを飛び越え、向こう側からラウラに手を差し出す。

「焦るな。でも急げ」


スカートをこれほど邪魔だと思ったことはなかった。ラウラは上がらない足をそれでも必死に上げて、石組みの一番低いところをどうにか乗り越える。腕から飛び出した子羊が、一足先にグティエルの足元で跳ねていた。アオンアオンと犬みたいに焦って吠えている。


ヒュンと空気を切る音、見張り塔の上階から兵士が顔を出した。まだ若い彼は片目をつぶって次の矢を放った。それは遠くまで飛び、何かに刺さる振動が空気を伝わってラウラの背中に届く。彼女は振り返らない。恐ろしくて振り返ることができない。思えば毒でも暗殺者でもない敵と相対するのははじめてである。


必死に残りの足を引き抜き、ラウラはユルカイア城の領域内に入った。そのまま足が折れて崩れそうになるのを夫に抱き留められる。


「キャリー、うまいぞ。そのまま打ち続けろ!」

「だけども若様、ああ若奥様も! お早くしてください、矢にも限りがあるもんで!」

塔の上と下とで大声の会話が交わされ、ラウラは半ば攫われるような形で塔の一階に入り込んだ。


塔からは古い城壁より頑丈な石壁が伸び、次の見張り塔へ繋がっている。男が三人肩車しても届かないだろう高さのある壁だ、魔物に対しても効果があるだろう。


子羊がすり寄ってくるのを抱き寄せ、ラウラはぐったりとへたり込んだ。それを後目に、グティエルは扉の内側に閂をかけ重石を転がしては積む。数人の兵士が駆け寄って来て彼を手伝った。いずれも年を取って目つきが陰険な男たちだった。彼らはラウラが肩で息をしているのを見、ぼそぼそと何事かを囁き合った。


自分がユルカイアの正式な一員ではないことを強く自覚するのは、こんなときである。

「若様、ご無事でよかったんですがなんでこん人もいるんで?」


と不愛想な白い髭を蓄えた兵士が聞き、残りも頷いて同意する。扉の向こう、激しく塔を叩く音がする。湧いて出てきた魔物が攻撃しているのだろうか。上の階からはキャリーと呼ばれた若い兵士の毒づく声。


「俺の妻なんだから俺と一緒にいて悪いことがあるはずないだろう」

グティエルは煩わしげに手を振った。


「集まったのはこれだけか?」

「へい。マヌエラ様がいないもんで誰も指揮を取らないんで……」

「ああもう。どこもかしこもだ。――ラウラ、立てるか?」


ラウラは頷いた。彼女が頼みにできるのはこの手だけだった。

ふたり、頷き合うと上へ向かった。まずは見晴らしのよいところから事態を把握し、統制し、ユルカイアを守らなければならない。


うねる黒髪と質素なドレス、足元には子羊。再び舞い戻ってきた若奥様の噂はユルカイアに瞬く間に広がるだろう。エルフの魔女が使い魔を従えて戻ってきた。マヌエラ様とグティエル様は我々を彼女から守ってくれるだろうか、と。



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