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「母はユルカイアに来たかったわけじゃなかったんだと思う。その証拠に俺を産んだらすぐ男と逃げようとしたから」
「え……」
妻が夫の所有物であり法的にも慣習的にもなんの権利も持っていないというのは神が定めた法律である。地球にいた頃から彼らはその不文律に従ってきたし、それを破ろうとする者は例外なく社会や僧院によって迫害されてきた。
グティエルの母が本当に夫以外の男性を選んだというのなら、それは彼女の死を意味したことだろう。
ラウラはユルカイア人たちの保守的なところを知っていた、少なくとも彼女自身に対する彼らの態度によって知らされてきた。彼らはよそ者を受け入れない。それが戒律を破った女性であればなおのこと、命の危険は相当なものだったろう。
「男は都からついてきた武装侍従で騎士だった。恋人、だったんだろうな」
「それは……それを知ったとき、あなたはおつらかったでしょう」
「いいや。マヌエラがいたから。ルイーズもいてくれたから、辛いというよりフウン、だから実の母親はいないのかって納得したという感じだった。知らない人がもういないことを聞いてもそうかとしか思えなかったな」
グティエルは苦い笑みを浮かべた。
「俺を軽蔑するか?」
「いいえ、いいえ」
ラウラはやみくもに首を横に振る。手の中で冷めていくカップを放し、夫の手を代わりに握った。彼の手は冷たく乾燥してすべすべと清らかだった。
「続けてください」
「父の差し向けた追っ手に母の恋人は殺され、彼女は永遠に夫を許さなくなった。俺のことも触れもしなかった。義務を果たしたのに見逃してくれなかったことを恨んでいたとマヌエラは言った。そんなばかなことがあるかと俺は思った。夫婦の結合は神聖なものだ。義務とか権利とか、それらとは別格の神のご意志によるものだろう? 母はそれを蹴って逃げ出した、だから罰が……落ちたのだと思う」
吐息交じりの深いため息のような声である。彼は疲れ切っていた。おそらく最初から。年齢や立場や育ち方になんら関係なく。ラウラと同じように。
「母は山に呼ばれた。そして戻ってこなかった。父は追っていったが手ぶらで帰って来て、おそらくそんな真剣になって探したわけでもなかったんだろう。ユルカイアの血を継がない母が狼になれたとは思い難い。山の養分となって吸収されてしまったんだろうな。彼女としては不本意な結末だったろう。この土地に還りたくなんてなかっただろうにな」
グティエルは目元を手のひらでこすると、そこが赤くなった理由をあえて晒すように顎を上げてラウラを見つめた。
「お前を母と同じにはしないと思ってた。俺の妻となる女は山にやらないと」
「――光栄です」
ラウラはようやくそれだけを言う。
「あなたの思っていた花嫁のようになれていたら、よかったのですが」
「お前は俺の思っていた妻そのものだったよ」
グティエルの声は静かで深い。山の中にある湖のように凪いで穏やかだった。
「お前と一緒にいられた時間が、俺のこれまでで一番楽しかった」
「そうです、か」
沈黙が肌に痛かった。ぴりぴりと噴火を待って鳴動する山のように、あの山は火山ではないのにそれに備えて怯える人々の心のように、ふたりの間には何か特別に警戒すべきものを待つための余地があった。それが彼らが本能のままに愛し合うことを阻止し、本当のことを話しても話してもどこか空虚な、足りないような気持ちにさせるのだった。
「それからあなたはマヌエラの手によって育てられたのですね」
ラウラは無理に言葉を重ねた。沈黙が怖かったのだ。言わなくてもいいことが口から転がり出て、彼を傷つける気がした。母カティアや宮廷人達の前ではいくらでも黙ることができたのに、グティエルの前ではだめだった。いくらでも言葉を尽くして叫びたかった――私があなたのためならなんでもするということを。
死体がぶら下がる軒下で、痛む全身を引きずり半べそかきながらもラウラはグティエルを目にした瞬間そのすべてを忘れた。彼がそこにいて、抱擁をくれたことで心は浮かれ、もう理性ある言葉は浮かばないかもしれないくらいふわふわしていた。子羊の体毛と同じくらい。小さな身体を腕に抱きながら同時に羊毛に埋もれて窒息してしまいたかった。こんなにも穏やかで偽りのない空間をこの先経験できるかわからないのだから。
「父は俺に興味なかったから、蒸発したその日まで顔もあやふやだったくらいだった。だから、そう。マヌエラが俺の親といえば、親なのかもしれない」
グティエルの口調は自分の中を探るよう、目線はもはやラウラを見ていなかった。子羊がのそのそとラウラのみぞおちに額を擦り付け、その本体だという十七歳の辺境伯を白目のない目で見つめる。真っ黒な目の真っ白な子羊。
「俺は彼女に言われるがままに人を殺してきた」
ぽつんと投げ出された告白をラウラは受け止め切ることができたのだろうか。
「ユルカイアの敵だからと。今になって考え込むようになってしまった。俺のしてきたことは正しかったのか? ユルカイアのために魔物も人も殺してきたけれど――俺はただの人殺しなのかもしれない」
「いいえ」
ラウラはグティエルの手を握りしめきっぱりと言い切る。
「あなたは強要されたのです。マヌエラは使用人たちみんなを支配していました。あなたの周りの環境すべてはマヌエラの手の中にありました。まだ子供だった頃から。あなた一人でどうして逆らえたでしょう?」
それは彼女にとって自明のことだった。母カティアは有していない権限を振り回し国政に介入した。父ゴドリアは呆然とそれを見ているだけ、彼は暗殺を恐れ日々の祈りに逃げた。母がもしもう少し度胸がなく優柔不断だったら、クォート神聖帝国は瓦解していただろう。母が有能な女性であったから帝国はぎりぎりの状態で保たれたのだと、理解している。だがラウラはその母の捌け口のひとつとなって破壊されたのだ。それは母を心から尊敬して慕う人々がたくさんいることは何の関係もない。
光のあるところには陰がある。一人の高貴なる人物が光としてそこにあるためには、その足元で陰として黙りこくる人間が必ずいるものなのだ。
ラウラは続けた。言葉よ、届けと願った。涙で目の端がチクチクした。子羊の湿った体温、鼓動でさえも今は痛かった。
「あなたは血と汚泥に塗れていい人ではありません」
グティエルの黒い目の奥、何層にも重なった坑道の青い闇が揺れる。
「あなたに咎はありません。誰にも本当の悪なんてないんです」
暖炉の火がパチと大きく跳ねた。
「そうだね」
やがてグティエルの唇がゆるゆると吊り上がり、やがてその端正な顔立ちにあの山猫の笑みが広がった。ラウラは自分が失敗したことを悟る。何もわかっておらず、何も届けられなかったことを知る。彼に自分を嫌わないでいてほしかったのだ。そのことが伝わったかどうかさえ、わからない……。
「俺は悪くなく、マヌエラも悪くない。お前もだ。――お前は美しい」
絶望は思いがけないことを言われてしばし、霧散する。
「え?」
「クォートがどうだかは知らないが、お前は綺麗だよ。たぶん俺の母もお前みたいに美しかったんだろう。うん。そうだな……俺は悪ではないし、そうなりたくもないから。思うがままに生きてみても、いいかな」
「え? え?」
グティエルは目を伏せた。
もっとも大きな地響きはそのときに起こった。彼に共鳴したのだろうか? 本当のところは誰にもわからないままだ。
ユルカイアの山は北壁と呼ばれている。北の果て、世界の果て、一年じゅう雪と氷に閉ざされた人類を拒むこの大陸でもっとも大きな山。
クォートの宮廷として使用されている宇宙船の残骸はただの脱出ポットの名残りであり、本当の移民船はこの北壁と呼ばれる山全体だったという伝説は本当だろうか? 口伝は言う。物語は言う。民話は言う。坑道も魔石も魔物も、地球からやってきた失われた文明と技術の成れの果て。山の内部だと人が思っているものは土に埋まった宇宙船の内臓をかき分けて発掘しているだけ。大聖堂はそれを否定する。僧も尼僧も教えないことを教えない。だから忘れられつつあるだけで、本当は――
魔物とは移民船の護衛団たるキマイラどもの子孫であり、それらのコントロールキーは一定の血族の遺伝子の中に潜んでいる。ユルカイアの支配層としてこの土地に残ったクィントゥスの息子たちの末裔だけが、魔物を真に従わせることができるのだと。
本当だろうか? 本当だろうか? ラウラにはわからない。
わかっているのはその日、山は完全に目覚め、魔物たちは坑道を通って地表に吐き出されたということだけだ。
第二次魔王戦役。ユルカイアに再び降臨した魔王と人類の戦争は、冬の気配が忍び寄ったこの日に始まる。




