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足はぼろぼろになった。ラウラはそれでも子羊を手放さなかった。彼は何度も彼女の腕から降りようとしたが、もがけばもがくほど細い腕の力は強くなり、どうしようもなかった。
ラウラは今手放したら子羊が永遠に彼女の味方でなくなることを知っていた。グティエルがそうだったように。夫が仮に彼女を妻として心から愛してくれるようになったとしても、彼は本質的にはユルカイアの守り人で辺境伯で、ユルカイアのものだった。
彼女だけをひたすらに愛してくれる人などこの世のどこにもいない。みんなそうだ。愛する人以外にも大切なものがあり、大切な人がいる。ラウラとフォルテが心から憎みながらも母を愛したように、相反する感情をふつふつと心に抱えて生きる者もいる。
子羊はラウラだけを頼みに生きる小さな可愛い彼女のおもちゃだった。決して離れたくなかったが、もし彼が本当にグティエルの心の一部なら、夫に返してやりたくもあった。魔法はどのようにして子羊を人間の男に吸収させるというのだろう? ラウラにはわからないことばかりだ。
道は平坦に延々と続き、視界にうつる魔石の輝きが変わることがなければうっかり寝入ってしまったに違いない。ラウラの腕の中には温かくしっとりした子羊がいて、彼女に気を遣って動かずにいてくれる。それがたまらなく嬉しかった。
「ありがとう、私はあなたがいたから荒野でも平気だったの」
羊毛に顔を埋めながら囁くと、彼は嬉しげに身を震わせ前歯でそっとラウラの前髪を噛んだ。
「このままずっと一緒にいたいわね」
叶わないのは知っていたがラウラはそう囁いた。
逃げて迷い込んだときはあれほど広大だった荒野の地下は、だがこうして歩いてみると室内履きに穴が開く程度の距離だった。ほっとしたのか拍子抜けしたのか、ラウラは苦笑を浮かべる。道の終わりにあったのは鉄扉だった。かすかに開いており、向こう側の空気が流れ込んでくる。
押し開けるとどっと山の清涼な空気が流れ込んできた。あの見捨てられた村に似た、おそらく休憩所である場所だった。丸太小屋がひとつ、ぽつねんとあって井戸が掘られている。井戸の口は空いており、木桶はまだ濡れていた。小屋から煙は立っていないが、明らかに人の気配がする。
(グティエルが使っている、ところ?)
首を傾げながらラウラはうんとのけぞって伸びをした。本当にすぐそこに、ユルカイアの城の見張り塔があった。あそこから兵士が敵に矢を射かけるのだ。
すべてが非現実的だった。子羊を降ろしてやる。やっと地面に足がついた彼はぶるぶる身を震わせ、たっとラウラの周りを円を描いて回った。
微笑んで撫でてやるうちに、耐えきれないほど喉が渇いていることがわかった。ラウラは礼儀知らずにも井戸に近づき、水を汲み、子羊と分け合って飲んだ。乾いた喉が潤されると心臓も落ち着くようだった。山のうなり声のような地響きが、足の裏に伝わる。
ラウラは井戸に腰掛け室内履きを脱ぎ、裸足になった。彼女の足の裏は柔らかい。木の小枝だの小石だので皮膚はすぐ破れてしまうだろう。
城の方角は小屋の裏手だった。見ればそこから小道が続いており、すぐにでも城の塔まで辿り着けそうだった。そこまで急な坂道でもない。ラウラは子羊の首に手を当てて合図すると、そっちに回ろうとする。
「え? だめなの? どうして?」
ラウラは落ち着いた声で子羊を再度、撫でる。彼は四つ足を踏ん張り、ラウラのスカートの裾を咥えて離さない。まるで行くなと言っているよう、実際口がきけたらそう叫んでいただろう。
「あなたの本体に会いに行こうとしているの。消滅は、怖い? ええ、私も怖いわ、死ぬのは。でも分身体は死ぬわけではないのだから。伝説にも言うわ、途切れた縁が再び巡り会うだけだって。ええ? 本当にダメなの? 困ったわねえ……」
子羊は地団駄を踏む。フウフウと細い息がラウラの膝にかかる。彼の言うことだ、叶えてやりたい。けれども。
「ごめんなさい。私……私はグティエルに会いたいの。彼に会って、どうすべきか話し合いたい。私の話を笑わず聞いてくれるのは彼だけだもの。お願い、行かせてちょうだい。お前がいやなら、このまま私と一緒にいられるようにできないか方法を探してみるから」
ラウラは謝り続けながら子羊を抱き上げた。獣の顔にそんな表情があればだが、彼は絶望した顔をする。かつてラウラもそんな顔をしたのかもしれない、誰も何も話を聞いてくれなかったから。
ラウラはそれでも小道へ向かった。彼女は本当に城へ向かいたかった、グティエルに会いたかった。いっぺんにいろんなことが起きて、そしてああ、何より、マヌエラとの口論がじくじくと古傷の口を開けて、忘れていた痛みに心が呻いていた。宮廷ではあんな口喧嘩は日常茶飯、男たちが見学に来なかっただけましだったに違いない。おお、女のナワバリ争いだ。ああ、女が男を巡って喧嘩してるぞ。
耳元で幻聴が聞こえてきそうだった。女たちを取り囲んで囃し立てるとき、男という生き物は本当に生き生きとした、嬉しそうな動きをする。ラウラは子羊をしっかりと抱きしめながら小屋の裏手にまわる。そう、男たちっていうのはこんなふうに騎士らしい上質なチュニックとすっきりしたズボンを履いて、宝石と金でできたバックルがついたベルトと香水の香り、そしてーー乾いた血のにおい。削ぎ取られた顔面。だらりと地面すれすれにぶらつく腕。
爪は全部剥がされている。無意識に握りしめていた室内履きが土に落ちる。子羊がひときわ大きく鳴く、メエエエエ……。
それは宮廷の侍従のお仕着せだった。彼らはフォルテに付き従ってユルカイアへやってきた護衛だった。いち、にい……五人。顔面を削がれ、手足の爪を剥がれ、腹を切られて絶命していた。ぞろりと流れるように地面に垂れた臓物、腐敗しないよう施された魔法陣が地面に血で刻まれているが、すでに乾き切った死体は獣を呼ばないだろう。
そんなことさえできないほど、尊厳ごと殺された死体だった。
ラウラは悲鳴をあげた。子羊も同時に嘆きの声を上げた。彼はラウラに知られたくなんてなかったのだ。
こんなことをしたのはグティエルしかいない。山の中に入り込み、小屋を使うのは彼しかいないのだから。彼女は必ず正解に辿り着くだろう。子羊はそれがこんなにも、悲しかったのだった。




