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グティエルは人と話をした。した。した。
人々のほとんどは彼のことを魔物を倒す剣として見ていたから、本当に考えていることを教えてくれる者を見つけること自体が困難だった。だが身分違いの相手に心から本音で話す人間などというものが存在するだろうか? 彼が知りたかったのは真実だった。人々のうち彼に過去を話してもいいと考えたのはもう先のない老人たちだった。彼らの話す内容は耄碌と誇張と妄想に入り乱れていたが、全員から聞くうちに真実をえり分けることができた。
老人たちの父母の世代、百年前に魔王と呼ばれたエトナの治世。グティエルの聞いた話とはまるで違い、それは春の時代だったらしかった。エトナは公平で慈悲深く、魔物を操る魔法を使う女性とともに人々の訴えをよく聞いて、中央の圧政に抵抗したらしい。
突然気が触れた魔王が魔物を人類にけしかけて、世を乱したのではなかったのだという。
「お父さんは死ぬ前にエトナ様に謝りたいと言っていました……」
と呟いた老婆の顔を、グティエルは忘れることができない。自分の言うことを誰も信用しないだろうと知っている者の顔だった。それは妻が時折見せた横顔に似ていた。
彼は城に戻った。マヌエラが立ちふさがったのは私室へ向かうごく狭い廊下で、眉を顰めてもなお優しい笑みを絶やさない彼女の顔に不快感を覚えた。
「これまで魔物の討伐でしか外に行ったことのないあなたが、突然遊び歩くようになりましたね? おかしいことです。奥様に悪い影響でも受けたのでしょうか?」
「俺が彼女からどう影響されると思うんだ?」
言外に軽蔑が籠った。息の掃き出し方や、目つき、握った拳などに。マヌエラは表面上ラウラの失踪を悲しみ、心配してみせたが、その実彼の妻のために何かをすることはなかった。例えば人々に頼んでその足跡を探すということですら、指一本動かさなかったのだ。グティエルはラウラを失ってようやく、これまで見えなかったものを見ようとするようになったのだと思う。マヌエラが人々にいうことを聞いてもらえるのはその優しさゆえではなく――反抗も考えられないほど人々の心を支配しているからだということに。
「まあまあ、怖いこと。奥様が心配なのですね。私も心配しておりますよ」
「思ってもいない嘘をつくなよ」
「ルイーズと話してみてはいかがですか? あの子に悩みや不安をこぼしてごらんなさい。きっとよく聞いてくれることでしょう」
「……俺は今までルイーズに心を開いたことはなかったよ」
妹のようでかわいかったけれど、彼女に何か言ったらあちこち触れ回られてしまう。グティエルはたとえ五つのときだってその程度のことはわかっていたし、口をつぐむことが一番の防御なのだということも理解していた。
鋭く息を飲む大仰な音に振り返ると、壁にひっつくようにルイーズがいて目に涙を貯めている。演出じみたタイミングのよさにグティエルは一層いらいらした。彼は彼女たちを愛している。ユルカイアを愛するのと同様に。しかし彼はまだ十七歳の少年であり、妻を失った原因が彼女たちにあるということもわかっていた。マヌエラは人々を止められたはずだ、彼女が本当にそうしたいと思えば。
マヌエラは侍従の男たちに金を貸している。農民たちの畑に撒く肥料を貯め込んでいる。彼女は人々の親の親の親の話を知っている。
どうして気づかずにいられたのだろう? どうして誰も話題にさえしなかったのだろう。彼女がいつからユルカイアに生きているのか、誰も知らないのだ。老人はマヌエラのことを、三十年前に誰かの紹介でやってきた侍女だったと言った。別の老人は六十年前に同じ女を見たと言った。そのときの彼女も同じ名前で、代々親と同じ名をつける家なのだと笑ったと。
グティエルがもう少しだけ何かに気づけていたら現状は違っていたかもしれないのだ。
泣き出したルイーズにマヌエラは近寄って、癇癪を起した幼子を嗜める目でグティエルを眺める。
「遅く来た反抗期かしら? ちょっと前まであんなにいい子だったのに」
彼は何も言わずに踵を返した。私室はただっ広く味気ない部屋でラウラと過ごした診療室の何倍も居心地が悪い。だがこのままこの廊下で角突き合わせているよりましだった。彼の言葉を聞こうともしない女たちと。
マヌエラが聞こえよがしなため息をついた、ちょうどそのとき。山が蠢いた。
地響きに似ていたが地表は揺れなかった。ただ山の中で何かがカチリと音を立てて変化したのがグティエルにはわかった。マヌエラもまたそれを感じ取り、ルイーズはきょとんと眼を見開ききょろきょろする。
「何? 何、今の? あたしに誰か何かした?」
マヌエラはルイーズを後ろに突き飛ばした。きゃっと悲鳴を上げる養い子に目もくれず、
「まさか、どうして? 荒野は塔が守っているのに――」
と言いかけ、理解の色を浮かべる。彼女はグティエルをはっと見つめた。
「あの塔は……見つからないはずよ。どうして!」
グティエルは駆け出した。一日、山の中を駆けずり回って疲れ切った身体だとか、どうにもならないことに腹を立てていたこと、ありとあらゆる物事をいったん忘れた。
「――ラウラ!」
彼は荒野の塔を見たことがない。ラウラが生きていることを知り、そこで暮らしていることを知った。それだけである。だが何かが起きたとき、決定的に何かが変わったのを悟ったとき、彼が一番に目を向けるのは彼女のことだった。
自分でも気づかないうちにそうなっていた、ラウラのことが心配で、大切だったのだ。彼は城の古い石組みを乗り越え、窓から回廊に飛び降りる。城の基礎がごり、と音を立ててずれていった。そこから山の風が吹いた。使用人たちは飛び出し、あるいは城の中に飛び込んだ。動くこともできず棒立ちになる者もいれば、マヌエラを探して金切り声を上げるメイド、グティエルから逃げようと飛びのいた庭師、何が起きたか知っているらしい者といない者がいた。
静かな――魔法ではない本物の地響きと共に山が蠢動する。季節は夏。虫と魔物が目覚めた頃。
走るグティエルの目の前に狼が現れた。黒く大きな狼である。彼はその姿の父に会ったことなどなかったのに、それが誰かを知っていた。
「お前の心の一部は子羊の姿を取ってラウラのそばにいる」
とタイリーは言った。全身が緊張し、牙を剥き出し、毛を逆立てた狼はグティエルでなければ恐れのあまり逆らうことなどできなかっただろう。
「あの娘はお前の一部を持っているというのに、どうして義務から逃れることができると思うのだね?」
「――あんたも逃げただろうが!」
ほとんど生まれてはじめて、グティエルは自分自身のために吠えた。
「あんたが逃げたから俺が後始末をして回っているんだろうが、人生をかけて!」
山は跳ね回り、地割れに石畳とタイルが飲み込まれ、庭木は傾き狼は踏ん張る。静かなため息が漏れ、絶望の声でタイリーは囁いた。
「そうとも。だから、今、ここにいる。お前が本当の怪物になってしまわないようにここに来たのだ、それが親の義務だからね……」
その日、北の果てのユルカイアの地において長年沈黙していた山が火を吹いた。その火と煙は遠くクォートの支配する結界に囲まれた都からも目視できたという。
ラウラはそれを荒野の塔で見ていた。塔のてっぺんまで昇ったのはそのときが最初だったが、無我夢中で螺旋階段を駆け上がってでも灰白色の目で見たかったのだ。――グティエルがいる方角から聞こえた音だったから。
「なんてこと……」
そして彼女もまた感じていた。彼女の脚に身を寄せる子羊を通し、その異変が何を示すかを潰れた魔力嚢で感知していた。
山にかぶされた蓋が外れ、百年の封印が解かれる。




