37
子羊が前へ行ったり戻ってきたり、下草を食んだりするのを眺めながらふたりは黙っていた。
少しばかり大きな、馬体程度の岩が転がっている場所をラウラは知っていた。ちょうどその下からささやかな湧き水が湧いているのも。グティエルはそこで馬の身体を拭いてやり、水を飲ませた。ラウラは岩に腰かけながらそれを眺める。
不思議な感じがした。時が巻き戻ったように心が跳ねる。あの診療室で黙々と作業を進めているとき、ラウラは大聖堂にいた頃より落ち着いて、何も怖いものはないと思ったものだった。心はその落ち着きを取り戻していた。
「どうやって……ここに?」
だからラウラはいっそ温かいお湯に浸かっているような気持ちで、グティエルに問いかける。
グティエルは馬の首を叩きながら呻くように言った。
「お前の遺体を、持って帰らないと思った」
呆然とここではないどこかを見つめ、
「城を飛び出したときは何も考えていなかったが、ずっと気になっていた。いなくなったと聞いた時に探しにくるべきだった。生きていられないとわかっていたのに、見捨てたから。せめて山裾に埋めてやろうと」
ラウラは立ち上がった。グティエルがとてつもなく孤独に見えたからだった。そして彼の心理状態にラウラは覚えがあったから。彼女は歩み寄り、グティエルの手首を握った。細い指が回らないくらい太く、まだ若い皮膚が張り詰めていた。
「自分が何をすべきか、したいのかさえわからなくなるときというのはあるものです。あとから思い返してようやく、義務を果たさずにいたことに気づくのです。ご自分を責めないで。私は――探しにきてくださって嬉しかったです」
「見捨てた。そんなことするはずじゃなかったんだ」
馬が湧き水から顔を上げ、口の周りの水を跳ね飛ばして首を振った。グティエルはラウラを振り返る。顔に刻まれた後悔が五つも六つも彼を老けさせた。大きな体格と相まって、まるで滅びた国を見る老王のようだ。
ラウラは彼を抱きしめたかったが、汚いもののように振り払われたらと思うとそうできないでいる。第一皇女が母親と一緒になって嬌声をあげる恥さらしだということは宮廷じゅうの暗黙の了解だった。だって淫欲皇后カティアはいつだって酒に酔うと仲間と一緒になってラウラの部屋に入るのだ。遊びの誘いに行っているに違いない。
代わりにラウラは彼の手を取って手の甲に口づけた。ユルカイアにその風習があるかわからないが、それは貴族にとって忠誠の誓いだった。ラウラは彼の妻として、愛されるより信頼されたかった。
「そんなふうには思っておりません。またお会いできて嬉しい。それだけで十分です」
グティエルはくしゃりと泣きそうになり、あっという間に幼い男の子の顔になる。だが彼は泣かなかった。そうなる前に、おそらくは骨の髄まで叩き込まれた厳しい躾によって持ち直した。
彼は馬の轡を外し、彼が自由に草を食めるようぽんと尻を叩いて解放した。馬は子羊の方へふらふら寄っていき、大小の四つ足が鼻先を触れ合わせて挨拶するのをふたりは見守った。
「……あの狼。あの羊も。普通の生き物じゃないな」
「お気づきになりましたか」
「魔物には縁深いからな」
疲れたため息を彼は吐いた。六十歳の老人のような。
岩に背中をもたれかけ、彼はずるずると草の上に座り込む。白い砂が風に舞い、枯れ枝が転がる。細い木が一本、葉もつけずに岩のかたわらに傾いて生えていた。ラウラは夫の隣に座った。
「正体をとやかく探ること自体が危ないんだろう」
「おそらくは。狼と言いますと、黒い大きな狼ですか?」
「いや。もっと茶色い、鉄錆のような色をしていた。ああ、黒い狼? 一体何があった? どうして生きているんだ? 何もかも話してくれ」
ラウラは頷き、知っていることをひとつずつ話し始めた。自分でも意識しないうちに動揺していたらしい、
「黒い狼がいて……あなたのお父上だそうですよ。あの子羊はあなたなのですって」
「はあ?」
から話してしまったものだから、理解以前に黙って聞くこと自体がグティエルには辛いようだった。
だが彼は口を挟まず、ラウラにすべてを話させた。話すうち、彼女も冷静さを取り戻した。
黒い狼との会話を軒並みラウラは説明し、魔法の塔があること、そこに暮らしていることを話した。
かつて魔王と呼ばれたエンバレク家のエトナのこと。彼が死して形を変えたのがあの狼ではないかということに話がさしかかると、グティエルは眉をひそめたが否定はしない。彼がすでに知っていることも、知らなかったことも話には含まれていた。ラウラは最後に黒い狼との会話を細かく伝えた。
「ユルカイアには禁忌術があるのではないかと私は聞きましたが、否定されました。かつて魔王は魔物を従えて軍勢を作り、人間を襲わせたと聞きます。分身体を作る血統魔法と関係があるのではないかと思ったのですが」
グティエルは頷いた。ラウラは意気込んで話し過ぎた自分がはたと恥ずかしくなり、押し黙った。頬が熱い。身体に体温があるということを意識したのは、荒野に来て初めてのことだった。
「まず、話してくれて礼を言う。ありがとうラウラ。俺が疑問に思っていたことのいくつかが、解決したかもしれない……」
「ようございました」
ラウラはほっとしたように笑う。灰白色の目に灰色の荒野が映り、彼女は白黒だけで構成された絵画のようになめらかに美しかった。
「俺は血統魔法を持っていないと昔、言われた。父が所有していた魔法使いが立ち去り際に俺を鑑定していった。これから先も発露することはないだろうと。だからあの子羊の存在が俺の分身だというのは信じきれない」
彼は顎に手を当てながらラウラを見つめた。
「手元に置くのは不確定すぎないか?」
「たとえそうでももう私の家族のようなものです。確かにあれがあなたの分身だとは信じ切られないところはありますが、かわいくて。これまで何も危険なことはありませんでした、これからもきっとないと信じています」
「……わかった。黒い狼と会いたいな。くそ。だが本当に俺の父なら俺の前には絶対出てこんぞ。確信できる」
「仲が悪かったのですか?」
「単に関わりが薄すぎて親子の自覚がないだけだ」
ラウラはちょっと目を見張った。
「あ、わかります。会話が続かないんですね」
「俺の好きな食べ物も知らんからもういいとなる」
「うちはきょうだい間でもそうでした」
「引き離されて育ってもそれなりに仲がいい貴族家もあるというのになあ」
微苦笑が互いの顔に浮かんだ。なくてもいい共通点もあったものだった。




