後編
はい、みなさん、話の続きを話します。
米海軍のドーントレスの編隊は、ハルゼー提督から「1隻でも多くの敵空母の飛行甲板に爆撃を命中させろ」と命令されていました。
飛行甲板が使用不能になれば、空母はただの鉄の箱になってしまいます。
ドーントレスの編隊は大きくて目立つ「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」を目標にしました。
攻撃は成功し、空母3隻の飛行甲板は使用不能になり、原提督が負傷しました。
短時間に第一航空艦隊では指揮官が二人も戦闘不能になりました。
指揮権を継承した空母「飛龍」に座乗した第二航空戦隊司令官山口多聞提督は、戦闘可能な2隻の空母「飛龍」「蒼龍」で反撃を開始しました。
ようやく発見したハルゼー艦隊に猛攻し、「エンタープライズ」「レキシントン」を撃沈しました。
山口提督は「猛将」の名にふさわしい戦果を挙げました。
ハルゼー提督は沈む前に「エンタープライズ」から退艦し、生還しています。
日本側の損害が空母4隻中破、沈没艦無し。アメリカ側が空母2隻沈没という結果で、数字だけ見ると日本側の勝利のように見えますが、空母戦では実質的にはアメリカの勝利と言っていいでしょう。
なぜなら、ハルゼー提督は空母の数で2対6と劣勢でありながら、日本空母4隻を戦闘不能にし、残った2隻「飛龍」「蒼龍」も艦上機を消耗してしまったため以後の戦闘は不可能となりました。
日米ともに空母は以後の戦闘には参戦できなくなりました。
さて、日米の戦艦同士の艦隊決戦に話を移します。
戦艦「長門」に座乗する山本提督は、空母戦の結果に不満でした。
山本提督の考えでは空母の数で6対2なので、航空攻撃で米海軍の空母2隻を撃沈し、米戦艦も3・4隻は撃沈できると考えていたのです。
しかし、米戦艦は無傷で6対8の劣勢で戦艦同士の決戦をすることになってしまいました。
しかし、山本提督には次善の策がありました。
キンメル提督は「長門」を先頭に単縦陣で突撃してくる戦艦6隻を見て「ヤマモトは堂々たる戦艦同士の砲撃戦を望んでいるのだな」と考えました。
水雷戦隊も突撃しているのは見えていましたが、米海軍の基準では魚雷の射程外だったので、取り敢えず無視していました。
日本海軍は長射程の酸素魚雷の開発に極秘に成功していましたが、演習により最大射程距離では命中率が低いということも分かっていました。
音響誘導魚雷も開発していましたが、この戦争には間に合いませんでした。
酸素魚雷はこの時点では目標に近づかなければ命中は期待できない兵器でした。
水雷戦隊が搭載していた新兵器は当時「空中魚雷」と呼ばれていた初歩的な艦対艦ミサイルでした。
空中魚雷は発射された艦からの無線誘導で目標に向かいます。
誘導員による目視で誘導装置を操作するので射程距離は戦艦の主砲より短かったのです。
山本提督は戦艦部隊を言わば「オトリ」として米戦艦の砲撃を引き付け、水雷戦隊の空中魚雷と酸素魚雷に期待していました。
米戦艦の砲撃により「長門」が前部砲塔二基を喪失し、「陸奥」も弾薬庫が爆発寸前になるのを緊急注水が間に合い沈没はまぬがれましたが、砲撃不能になりました。
日本海軍最強の戦艦である2隻が砲撃力低下、砲撃不能になったのに対して、米戦艦は損傷を受けているものの全艦が健在でした。
キンメル提督は「このまま行けば勝てる」と思いましたが、その瞬間に日本水雷戦隊は空中魚雷と酸素魚雷を発射しました。
白煙を噴射して飛翔する空中魚雷は米戦艦からも視認できましたが、対応は不可能でした。
砲撃戦により、米戦艦の対空砲も対空機銃もほとんどが破壊されていたからです。
空中魚雷は敵戦艦の艦橋と煙突を狙っていました。
米戦艦は8隻とも艦橋か煙突が損傷、艦長が戦死するか速力が低下しました。
キンメル提督が座乗する戦艦「ウエストバージニア」は艦橋に被弾し、幕僚が数人負傷しましたが、キンメル提督は無事でした。
しかし、水中を酸素魚雷が突進していました。
米海軍の見張り員は、空中を白煙を噴射して飛翔する空中魚雷に注目していたため、水中を進む酸素魚雷の発見が遅れました。
戦艦「ウエストバージニア」「コロラド」「アリゾナ」に酸素魚雷が命中、浸水により速力が低下して、艦が傾いたため砲撃も不正確になりました。
そこに日本戦艦部隊が砲撃をして3隻を撃沈、残った4隻も損傷を与えて撤退に追い込みました。
キンメル提督も沈む「ウエストバージニア」と運命をともにしました。
山本提督は艦隊決戦に日本が勝利したので、当然、米陸軍部隊を乗せた輸送船団は撤退すると考えていました。
しかし、輸送船団は意外な行動に出ました。
船団を解散すると1隻ずつバラバラになって新北海道を目指しました。
陸軍部隊の指揮官は米本土を出発前にルーズベルト大統領から直々の命令を受けていました。
「海軍が艦隊決戦に敗北しても輸送船団は新北海道を目指せ、船を海岸に乗り上げて使い捨てにしてでも一人でも多くの兵士と物資一つでも上陸させろ」
ルーズベルトの命令通りに輸送船団は行動しました。
日本海軍は対応が遅れました。
水上艦隊は艦隊決戦で損傷していて、比較的無傷な艦で艦隊を再編するのに時間が掛かりました。
潜水艦は哨戒のためバラバラに配置していたので対応できませんでした。
それでも輸送船の7割を撃沈か洋上で降伏させましたが、3割が新北海道にたどり着きました。
陸軍部隊は新函館に籠城することにしました。
新函館は重要な港湾施設があるので、それが破壊されるおそれがある力攻めは日本はしないと計算したのでした。
新北海道の鉄道のレールの幅は日本本土の1067ミリではなく、国際標準軌である1435ミリでした。
将来を見越して、輸送力を増強するためでした。
そのため日本本土では運用が難しい重戦車が新北海道には配備されていました。
ドイツで計画段階だった重戦車の設計図を買い取り、ライセンス生産した物を新北海道に配備していました。
情報秘匿のため「チハ」「97式」などの名称は付けず。書類では単に「重戦車」と記載され、現場ではドイツに習って「虎戦車」と呼ばれていました。
新函館での籠城を選択した米陸軍でしたが、味方の士気を上げるために戦車を中心とした部隊を出撃させました。
戦車はM4でした。
後にイギリスに輸出され「シャーマン」という愛称が付けられたので、その名が有名です。
米陸軍が手に入れていた日本戦車の情報は、97式中戦車が最新型との情報だったので「日本の戦車は豆鉄砲でブリキ缶」だと馬鹿にしていました。
それなので、新札幌から鉄道で新函館近くまで輸送された虎戦車を米陸軍が見た時は仰天しました。
虎戦車とM4の戦闘は、M4の方が「豆鉄砲でブリキ缶」であることを証明しました。
その光景にショックを受けた新函館の米陸軍は降伏しました。
日本政府は大使館を通じてアメリカ政府に「紛争状態の終結」を持ち掛けました。
日本政府は「不幸な武力衝突」ということにして、アメリカ政府に謝罪や賠償は求めず。求めたのは「アメリカ政府による新北海道が日本の領土であることの公認」でした。
アメリカ政府は、ほとんどがこの条件を受け入れようとしていましたが、ただ一人強行に反対していたのがルーズベルトでした。
議会で大統領弾劾の動きもあり、それが精神的ショックだったのかルーズベルトは脳卒中で倒れ、そのまま死亡しました。
倒れる前にルーズベルトは奇妙な言葉を残しています。
「何故、みんな分からないんだ!国を焼け野原にされても、復興し、経済を成長させ、日本製品がアメリカを席巻し、アメリカの不動産を買い占めるのが日本人だ!新北海道という資源豊富な土地を得ては、ますます手に負えなくなる!今の内に日本は潰さなければならないんだ!」
これはルーズベルトの妄想だと言われています。
2023年現在まで、日本製品がアメリカ市場を席巻したことはなく、日本人がアメリカの不動産を買い占めたこともないからです。
ある歴史学者は「新北海道が存在しなければ、日本は自給自足ができず。輸出のための新商品の開発技術に投資し、国際市場を席巻していたかもしれない」という説を唱えています。
日本は現在でも経済力でアメリカに勝てませんが、アメリカのようにマネーゲームの失敗で大量に失業者を出すことはなく、大企業がコストカットを名目に低賃金で非正規労働者を雇用するということもありません。
名目上のGDPの数値と個々人の幸福どちらが重要かは言うまでもないでしょう。
ルーズベルトが死亡した後、副大統領だったヘンリー・アガード・ウォレスが大統領に昇格し、新北海道が日本の領土であることをアメリカ政府は認め、紛争は正式に終了しました。
それ以後、日米間で武力衝突は発生していません。
欧州で発生した第二次欧州大戦には、日米ともにイギリスに援助し、欧州に大兵力を派遣して、ナチスドイツの打倒、ソビエト連邦の崩壊による終戦をもたらしました。
さて、最後に、この紛争が「太平洋戦争」と呼ばれるようになった理由について説明します。
日本政府は公式には「新北海道で昭和16年12月8日に発生した武力紛争」としており、アメリカ政府も公式には「新北海道で1941年12月8日に発生した武力紛争」としています。
紛争発生当時に、アメリカのある新聞が読者の目を引き付けるために「パシフィック・ウォー」と見出しにつけました。
新北海道のみで行われた紛争を「パシフィック・ウォー」と呼ぶのは誇大広告ですが、それが定着しました。
日本の新聞やラジオもそれを直訳し「太平洋戦争」という名称で報道したので、それが定着することになったのです。
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