第4話 蒼い月と畑仕事を手伝う鬼姫
人々が夢の世界に旅立った頃。妾は布団の中で目を覚ました。
隣では旦那様が先ほどまでの乱れっぷりが嘘のように、穏やかな表情でスヤスヤと眠っている。
まったく、普段はあんなに格好いいというのに、いざとなると途端に可愛くなるのだ。そこもまた旦那様の魅力の一つではあるが。
「ふぅ、相変わらず旦那様は可愛い寝顔で寝ておるな」
そう呟いてから、妾はゆっくりと上体を起こす。
そして旦那様の頬に手を当てながら、彼の唇に自分のそれを重ねた。
「んっ……」
旦那様が少しだけ身動ぎする。妾は慌てて口を放すと、自分の口を手で押さえた。
「危ないところじゃったのぅ」
もし今起きられたら、別の布団で寝ろと怒られてしまうかもしれん。
それだけは勘弁じゃ。再び寝息を立て始めた旦那様を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
「愛しておるぞ、旦那様」
妾は小さく笑いながら、もう一度彼にキスをした。
ふと月が見たくなって、布団から出て縁側に向かい、空を見上げた。
「おお、今日は満月じゃったのか」
見事なまでに美しい満月に、妾は思わず感嘆の声を上げる。
月が高く輝き、夜の空を彩っていた。肌を刺す冷たい風が遠吠えを誘い、草木は静かに揺れる。
「今日は良い夜じゃの。それにしても……どれだけ時が経とうと、星空の景色は変わらぬものじゃな」
妾は独り言を口にしながら、フッと昔のことを思い出す。
「夜になると犬江山から鬼が下りてくるとお父様から聞いて、妾は一人で寝るのが怖くて布団の中で震えておった」
それがまさか、今では自分が酒吞童子などという鬼になるとは思わなんだ。
しかし人の理を外れたとはいえ、今の自分は間違いなく幸せであると断言できる。それもこれも全て――。
「旦那様のおかげじゃな」
彼がいなかったら、妾は犬江山に封印されたまま朽ちる運命だっただろう。こうして心穏やかにこの屋敷でのんびりと暮らすことも無かった。愛する人と共に暮らす日々のなんと素晴らしいことか。
自分を救ってくれたことに、感謝しなければなるまい。
「だからこそ、あの憎き男を倒さねばならぬ。蒼月の奴め、妾から大事なものを奪いおって……」
妾は拳を強く握りしめながら、怒りに燃える瞳で青く光る満月を睨みつける。
朝廷の犬、九条蒼月。かつてあの男は不可思議な術で妾を犬江山に封印し、子を為す臓物を奪い去った。そして犬江山をダンジョンとするキッカケを生んだ、諸悪の根源である。
あの男は今、ダンジョンの最も危険な場所に潜んでおる。今の妾では力不足ゆえ、立ち入ることは出来ぬが……。
「待っておれ、妾は必ずや貴様を倒してみせるぞ」
そう決意を新たにすると、妾は再び旦那様の隣に戻っていった。
◇
次の日の朝。
俺は朱里さんを連れて、家の前へと来ていた。
「うぅ、やっぱり田舎の冬場はかなり冷えるなぁ……」
「まったく。ダンジョンで鍛えておるのに、情けないぞ旦那様。普段の恰好と変わらぬ妾を少しは見習ったらどうじゃ?」
「鬼である朱里さんとは違って、俺はただの人間なんだよ……」
今日も今日とて、いつもと同じ紫紺色の着物姿でやってきた朱里さん。手には俺が去年のクリスマスにプレゼントした厚手の手袋が嵌めてある。
かたや俺はジャージに長靴に手袋。見ての通りの作業着だ。こんな格好だから寒いのは当たり前なのだが、今日は体を動かして汗をかく予定なので敢えて上着は無しだ。
「なぁ、旦那様よ。本当にやる気なのかの?」
「うーん。葛葉様がわざわざこの寒い時期に育てろっていうんだから、たぶん大丈夫だと思うよ?」
朱里さんは半目になりながら、疑い深そうに俺の手に持っていた小さな袋を眺めた。
この布袋の中には、依頼報酬として葛葉様から貰った大豆が入っている。さっそくコイツを蒔いてみようと意気込んで畑に出てきたのは良いものの……。
「すごいな。畑が一面、霜だらけだ……」
「昨晩はかなり冷えておったからの。この寒さでは大豆も凍えてしまうわ」
見渡す限り、焦げ茶色の大地がどこまでも広がっている。一部は大根やホウレン草が植えてあるんだけど、二人じゃ草が生えないように手入れをするのが精いっぱいで、現在では土地の大部分が休耕中だ。
自給自足をするだけなら今のままでもいいけれど、やっぱり現金が欲しい。
都会で働いていた頃の貯蓄を切り崩して生活しているけれど、いずれは枯渇してしまうし……これから農家として本格的に運用するのなら、どうしても機械に頼らなくちゃならない。
「のぅ、旦那様よ。やっぱり今から村長に頭を下げて、トラクターとやらを借りた方が良いのではないか?」
持ってきたクワをザクザクと地面に突き立て、固くなった地面を掘り返して大豆を植える用の畝を作っていると、隣で作業を監督していた朱里さんがポツリとそんなことを呟いた。
「なにを言ってるんだよ朱里さん。あの馬鹿たちに受けた屈辱をもう忘れちゃったの!?」
「それはもちろん、妾も覚えておるのじゃが……」
この村に住み始めて少し経ったころ、犬江村の長――実際には村長親子と大喧嘩をしたことがある。
理由は単純明快で、村で共有管理しているトラクターの貸し出しを拒否されたからだ。
曰く、村の貴重な財産を余所者に貸し出すことはできないとか。
まぁその言い分だけならば尤もだと俺も思う。いくらこの土地に昔からいる一族の末裔とはいえ、俺の両親はここを捨てて都会に出た裏切り者なんだし。
「じゃが妾がこの土地に住んでいた時代でも、農具や家畜というのは村全体の所有物じゃったぞ? それに堂下親子は使用料を払えば使っても良いと言ってくれたのじゃし……」
「違う! あの優斗という男は『使いたければ使用料として金を寄越せ、さもなくばその女を歓迎会に連れてこい』って言ったんだ! 朱里さんに下卑た目を向けて……あまつさえ手を出そうだなんて、許せるわけがないだろ!」
それを聞いた俺がつい感情的になって、村長の息子である優斗に掴みかかった挙句、村長の家で取っ組み合いに発展してしまったのだ。
「まさか、他人の妻に手を出すなんて馬鹿な真似はせんじゃろう――」
「あの野郎、引越しの挨拶で朱里さんを紹介したときも、ハッキリと目の色を変えやがったんだよ。それからだよ、アイツがことあるごとに朱里さんと会いたがるようになったのは。同じ男として断言するけど、絶対に朱里さんを狙ってるね!」
それまで俺に対しては冷めた態度だったのに、急に馴れ馴れしくなりやがって。アイツ、俺と同い年で奥さんもいるくせに……。
思い出すだけでも、怒りではらわたが煮えくり返りそうになる。とうぜん、クワを持つ手にも力が入るわけで――。
ボキッ!!
「あっ……」
振り上げたクワを地面に下ろした瞬間、持ち手の棒が真っ二つに折れてしまった。
「うわぁ……やっちゃった」
「はぁ……何をやっておるのだ。それにお主、額から角が出かかっておるぞ」
「え? あっ……」
言われて気が付いたのだが、確かに俺の頭部からは二センチほどの小さな角が突き出ていた。
これは妖魔化が進んでしまった証拠だ。ダンジョンに出入りしている弊害ともいえる現象で、ダンジョンに漂う妖気に触れているうちに俺も妖魔に近付いているそうだ。
今のところは特に体に不調もなく、むしろ鬼化した俺の体は身体能力が向上している。その代わり、気分が高揚すると無意識のうちに腕力が上がって、今みたいに事故が起きてしまう。
「まったく、仕方のない旦那様じゃのぅ」
「うぅ、ごめん。せっかく朱里さんと一緒に選んで買ったクワなのに……」
「そんなことはどうでもよい。それに……その……妾としては大切にしてもらっているようで嬉しいのじゃ」
「朱里さん……」
そう言って頬を赤らめる朱里さんの姿を見て、俺は改めてこの人を守りたいと強く思った。本当にウチの嫁さんは可愛くて優しい。たまにツンデレなところもまた良い。
「そ、それはともかく今は豆を植えるんじゃろう!? ほれ、ソイツを貸してみい」
抑えきれない幸福感でニヤニヤしていると、朱里さんは俺の手にあった折れたクワを奪い取った。
何をする気なんだろう? そんな疑問を浮かべながら見ていると、彼女はそのまま畑の端っこまで歩いていき、そこでしゃがみ込むと、クワの先っぽを土の中に埋め込んだ。
「朱里さん? そんな折れたクワを使ったら危ないよ?」
「ふふん。こう見えても妾、昔はよく屋敷を抜け出して畑仕事を手伝ったものじゃ。まぁ見ておれ――ほいっ」
軽い掛け声と共に、朱里さんがクワを思いっきり振り上げると、ゴウッという音を立てて前方の土が一気に舞い上がっていく。なんとたった一振りで、二十メートルほどの畝が出来上がってしまった。
「おおっ! すごいじゃないか!!」
「当然じゃ。妾を誰と心得る。大江山を根城にした天下の鬼神、酒呑童子であるぞ。この程度のこと、妾にとっては朝飯前よ」
朱里さんは得意げな顔で腰に手を当てて胸を張ると、俺の方へと振り返った。
「さて旦那様よ。これで大豆を植えられるだけの場所ができたわけじゃが、次はどうするのじゃ?」
「うーん、そうだね。たまたま苦土石灰は二週間前に撒いてあったから要らないとして……マメ科はあんまり土の栄養が要らないみたいだし、少しだけ肥料を撒いてから植えてみようか」
俺はポケットからスマホを取り出し、ネットで大豆の育て方を検索しながら答えた。
「分かったのじゃ。では妾が納屋に行って肥料を取ってくるかの」
「うん、よろしく頼むよ。俺は畝を整えておくから」
こうしてクワが折れるという尊い犠牲はあったものの、そこからの作業はとても順調だった。ダンジョンで鍛えられた二人にかかれば、数十粒の豆撒きなんてものはあっという間。
結局お昼になる前に終わったので、その日は再びダンジョン攻略に勤しんだ。
そして夜になり、昨日に引き続き兎肉の料理をひと通り楽しんだあとのこと。晩酌に出した鬼○しでグデングデンに酔っぱらった朱里さんを介抱しているときに、異変は突然起こった。
「旦那様よ、アイツを倒せるくらいもっと強くなっておくれ。妾はお主との子が早く欲しいのじゃ……」
「ちょっと朱里さん? さすがにお酒の飲み過ぎなんじゃ――なんだ!?」
家の障子がビリビリと揺れるほどの衝撃。そして外から花火のような渇いた破裂音が聞こえてきた。
【Tips】大豆:本来であれば初夏(5~7月)辺りに種を蒔くのがセオリー。発芽するにはある程度の温度が必要です。以前のTipsにも書いた通り、肥料を与えすぎると枝葉や茎ばかり伸びて肝心の実がならなくなってしまうので注意。何事もほどほどに。
ちなみにお節料理などで見掛ける黒豆も大豆の一種なので、育て方の基本は大豆と一緒です。煮豆美味しいよ煮豆。