ヨルク視点 中編
ヨルクが慌てて部屋に戻ると、女神(実際には勿論女神ではないのだが、ヨルクにとっては女神に等しい存在である)は部屋の中央にある椅子に腰掛け、小さくて丸く可愛らしい瞳でヨルクを見つめた。頬がほんのりと赤く、若干目元が潤んでいる。清らかな女神の扇情的な表情に、ヨルクは思わず息を呑む。
何度見ても美しい。娼婦という肩書が驚く程似合わず、実在しない女神だと言われた方がまだ理解が出来る。
再び自身の妄想に耽ってしまいそうになるのをヨルクがなんとか制していると、目の前の女神が口を開いた。
「……どうされました?」
ヨルクは女神の声を初めて聴いたが、凛としたそれにまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。なんということだろう、女神は声まで女神なのだ。頭の中で混乱しながら、それでもこのまま呆けているわけにはいかないとヨルクは自身を奮い立たせた。
女神はそんなヨルクの言葉を待ってくれているのか、微動だにせずひたすらヨルクを見つめている。ヨルクをじっと見つめてくれているという奇跡に、ヨルクは胸を震わせた。
「あ、あの………貴女が、私と一晩過ごして下さると……。そう聞いたのですが、本当、でしょうか」
「そのつもりでこの部屋でお待ちしていたんですが、ヨルクさん――…失礼しました。ヨルク様は、私ではなくて他の方をお望みなんですよね?」
「違います!そうではなくて……その、事前に姿絵等を見なかったので、まさか貴女のような美しい方がお相手して下さるとは思わなかったんです。もし、貴女が良いのなら、……お願い、したいです…」
否定したい気持ちのあまり思わず大きな声が出て、ヨルクはその後の言葉をどう紡げば良いかわからなくなってしまった。もじもじとして、男らしくない。そんなヨルクに、目の前の女神は慈悲深い笑みを浮かべた。あまりに美しい笑みに、ヨルクは昇天しそうな気持を抑えながら呼吸を整えた。つもりだが、整ってなかったかもしれない。
その後、女神は自身が本日娼館に入ったばかりであること、そのために姿絵の準備が出来なかったことをヨルクに告げた。ヨルクは既にマルタから聞き及んでいたし、事前に姿絵など見ていたらそれこそ騙されていたのではないかと思っていたかもしれない。
今度はヨルクの方から、そういった経験がないことを告解した。自身の姿を見れば恐らく検討はついているのだろうとは思ったが、言わずにいるのは不誠実だと感じたからだ。
「勿論、ヨルク様のような素敵な方と出来るなら、私としてはありがたいっていうか。最初のお客様になって頂いて、嬉しいです。ただ、経験はなくはないんですが私もこういうお店で働くのは初めてなので……不作法とか、失礼とか、そういうのがあったらごめんなさい」
ヨルクは経験のなさについて嫌な顔をされなかったばかりか、「素敵な方」「最初のお客様になって頂いて嬉しい」との言葉を掛けられ、有頂天にも昇る気持ちだった。例え世辞であろうと、顔色を悪くせずに話してくれた女は目の前の女神以外にはいなかったし、勿論優しい言葉を掛けられたこともなかったから。
その上で、女神が頭を下げているという事態に今度は血の気が引いた。顔を上げてもらおうと慌てて両肩に触れて、そうして勝手に身体に触れてしまったことに気付いて身体を離す。
「許可なく触れてしまってすみません」
「……、」
「………」
「…ふふ」
何故だか可笑しそうに微笑んだ女神は、その慈悲深い表情のままヨルクを見つめた。そうして、「ヨルク様は今晩、私の身体に自由に触れて頂いて大丈夫なんですよ。許可なんてなく、お好きなように」と綺麗な声でヨルクへ身体に触れる許可を出す。何故そんなことを許すのか、この場所が娼館であるということも忘れてヨルクは目を見開いた。自身の身に起こることが何一つ理解できないというのに、現金な心臓はその事実を認めて太鼓を打ち鳴らしたように激しく動く。苦しくて、息が詰まった。
「あ、でも乱暴なのはちょっと怖いので……優しく、してくれますか?」
「っ勿論です!貴女を傷つけないようにしたいと思ってます」
「ありがとうございます。ヨルク様みたいに優しい方でよかった。……自己紹介が遅くなりましたけど、私、日和っていいます。どうぞ、よろしくお願いします」
「ヒヨリ、殿……」
「呼び捨てで良いですよ。日和、って呼んでください」
女神はヒヨリというらしい。ヒヨリ、ヒヨリ……と漸く知ることの出来た名前を口の中で転がすように何度も呼ぶ。見た目に違わぬ可愛らしい名前だと思いながら、ヨルクが心の中でも何度もその名を反芻しつつヒヨリの顔を見つめていると、ヒヨリがヨルクの方へと近寄った。どんどん近付くヒヨリに固まっていると、今度はヒヨリの白く美しい両手がヨルクの両頬を包み込む。少しひんやりとしている、とどこかで冷静に考えながらも、ヨルクの脳内の大半はパニック状態であった。
何故だか背伸びをしたヒヨリは、少しぷるぷるとしてその体制を維持したかと思うと、諦めたような表情を浮かべた。ヒヨリを落胆させてしまったのだろうかとヨルクが思い悩むよりも先に、ふに、と首筋を柔らかい感触が掠める。それが首への口付けだったのだとかろうじて理解したヨルクは、思わずごくりと息を呑んだ。もう一体なにがなんだか分からない。
「ヨルク様。少し、屈んでもらえませんか」
「え、あ、はい。こ、こうでしょうか……」
ヨルクがわけの分からないまま言われた通り屈むと、よくやったとばかりに頷いたヒヨリが微笑む。より距離の近くなってしまったその美しい光景に見惚れている間に、またもや柔らかい感触が、今度はヨルクの唇に乗せられた。かと思えば下唇を温かく湿ったなにかがぬるりと這って、びりびりと首筋が震える。その感覚に酔いしれていると、さっきまでかさついていたというのに十分に潤った下唇が、柔らかいものに挟み込まれた。
その柔らかいものがヒヨリの唇で、今まさに口付けされているのだと気付いたときには、ヨルクは情けないことに腰を抜かしてしまった。何かが倒れた音がするが、正直それどころではない。ヒヨリに声を掛けられた気もしたが、混乱の余韻の残る耳と脳では理解しきれなかった。
今度は白く美しい手が視界へと入り込む。どうやら、唐突に床へとしゃがみ込んだヨルクのためにヒヨリが手を差し伸べてくれたらしい。急いでその手を取って、けれども万が一にもヒヨリの負担にならないようにと自身の力で立ち上がったヨルクは、すみません、と謝罪の言葉を述べた。
「キスなんて、してもらったことがないので…驚いてしまって」
「…キスも初めてだったんですね?しても良いか聞くべきでしたよね、申し訳ありません……」
「そんな!………謝らないでください」
嬉しかったので、という言葉をヨルクはなんとか飲み込む。自分のような醜い男がヒヨリのように美しい女にキスされて嬉しかったなど、娼館内での出来事とはいえあまりにも図々しいような気がしたからである。ヨルクは世間に疎まれる容姿やその境遇から、あまりに自信のない男だった。似たような容姿であるハリス等は開き直っているというのに情けないことだと、またしても無自覚に他人と比べて卑屈になったヨルクは、心の中で溜め息を吐いた。
どんどんと沈んでいく悪循環に思考を任せていたヨルクの手をヒヨリが掴んだことで、ヨルクはハッと現実世界に引き戻された。誘われるがまま着いていった先には、浴室がある。ヨルク自身も娼館については最低限調べたことがあるし、どのようなことが行われるのか全く無知というわけでもないのだが、かといってそれを身に受けたことはなかったので正直夢物語の範疇であり、噂程度で実際には――特にヨルクのような男には――そこまで良いものではないのだろう、と考えていた。
どうしたら、と声を漏らしたヨルクに、ヒヨリは衝撃の言葉を口にする。
「私もマルタさんにざっくりの流れを聞いただけなので細かいところが合っているかは分かりませんけど、まずヨルクさんの身体を洗わせてもらえたら良いんだと思います」
「洗わせ…っ?!それは、ええと……ヒヨリが私の身体を洗うということですか?」
「………もし抵抗があるようなら、お一人で入浴されますか?」
ヨルクは思わず願望のままに首を横に振った。ヒヨリに身体を、例えば背中などを流してもらえるとするなら、それはヨルクの肌にヒヨリの白魚のような手が触れるということだ。抵抗があるわけがない。あるとすれば、それはやはりヒヨリの方であると思う。ヒヨリはどう思っているのだろうかと考えながらヒヨリの方をちらちらと覗き見ていると、ヒヨリは「では、僭越ながら私がお身体洗わせて頂きますね」と言って笑みを浮かべた。
なんとか頷いたヨルクは、ヨルクの上着の釦を外すためにこちらへ手を伸ばすヒヨリの動作を凝視しながら、改めて今までの自身の境遇を思い返す。成人を迎えてから何年も、家族は勿論使用人すらも置かずに一人で生活をしてきた。ある程度広い屋敷の掃除は大変ではあったが、それでも一般的な屋敷の広さと比べれば狭い屋敷であったし、そもそもヨルク自身一定の場所しか出入りしないので屋敷全体を掃除するのはそれこそ年に二度程。普段は、ヨルクが使う範囲のみの掃除で済んでいた。
食事処等も周りの視線を気にしてあまり入りたいと思わなかったので、仕事帰りに全身鎧で(勿論顔も見せない仕様で)持ち帰りの食事を買うくらいで、あとは適当に作ることが多かった。勿論全身鎧が目立たないわけではないのだが、自分の顔を晒すくらいなら鎧の方がまだマシだ。料理自体もあまり上手いとは言えない腕であったが、ヨルクしか食べないので文句を言う人もいない。自分だけの食事の準備は、正直なところ適当に済ますことがほとんどだった。
そんな生活をしているので、関わりがあるといえば警備の仕事関係の人間くらい。雇用主とは勿論顔を合わせるが、派遣された依頼主に顔を見せることは基本的にはない。身元は雇用主がしっかりと保証してくれているし、職務中も基本的に全身鎧なので、見せる必要がなかったのはヨルクにとってもありがたかった。同じ屋敷の警護に当たった仲間とは流石に休憩時間が被れば顔を合わせるが、全身鎧の仕事をしている人間というのはほぼ例外なくヨルクの同志である。何人かの知り合いは出来たが、仕事以外で話すのは同じような顔をしていながら明るく生きているハリス位であり、そのため友人というのもヨルクにはとんと縁がなかった。
それが、今やヒヨリのような女神にも劣らない(実際に女神を見たことはないので分からないが)女に身体に触れてもらえているのである。浴室でも「ヒヨリがヨルクの身体を洗ってくれる」らしいので、きっと背中位は流してくれるのだろう。ここまでの幸運で、ヨルクはもう身体を繋げたい等という過ぎた願いは捨て去っていた。ヒヨリに背中を流してもらい、そして、可能であればベッドで添い寝をする。そうして人の温かさを知り、それを一生の思い出に(もしヒヨリに拒否されなければまた同じ時間を買わせてもらえたら嬉しいが)してこれからの生活を送るつもりだった。
――そんな考えが(良い意味で)甘かったとヨルクが知るのは、そのわずか数分後であった。