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後編





「……どうされました?」


 動揺を見せないように努めて静かなトーンでそう問うと、顔を真っ赤にしたヨルクが少し荒い息を携えて日和を見つめる。あまりに切羽詰まっているような必死の形相であったため、日和は思わず身体を強張らせた。何故か目の前のヨルクもびくりと身体を震わせる。

 それでもヨルクは言いたいことがあるようで、日和からは目を逸らさない。もしかして先程の逃走を謝ろうとしてくれているのだろうかと日和がヨルクの言葉をじっと身動きせずに待っていると、ヨルクは意を決したように鼻から息を吐き出した。


「あ、あの………貴女が、私と一晩過ごして下さると……。そう聞いたのですが、本当、でしょうか」

「そのつもりでこの部屋でお待ちしていたんですが、ヨルクさん――…失礼しました。ヨルク様は、私ではなくて他の方をお望みなんですよね?」

「違います!そうではなくて……その、事前に姿絵等を見なかったので、まさか貴女のような美しい方がお相手して下さるとは思わなかったんです。もし、貴女が良いのなら、……お願い、したいです…」


 しどろもどろにそう言うヨルクに、日和は一瞬「嫌味か」と思わないでもなかったが、ひとまず焦ったような表情に絆されて先程の逃走については一旦不問とすることとした。そもそも、選べる立場ではない(実際に日和が選んだことには間違いはないのだが、容姿的な意味で)日和にしてみれば、初めての客がこのように美しい男であることは僥倖であるのだ。相手が多少日和に対して思うところがあったとて、日和を一晩買ってくれるのであればそれはそれでありがたい。あとは、プレイがやたらと変態じみていなければ良いと思うが、まあ、童貞なのでそこまで変な性癖もなかろう、と日和は腹を括っている。多少変態チックな願望があるのであれば、度を越さない程度に応じるつもりだってある。

 気を取り直した日和は椅子から立ち上がり、にこりと微笑んでヨルクに向き直った。


「そうだったんですね。実は私、今日このお店に入ったばかりなんです。だから、姿絵とかの準備が間に合わなかったみたいで」

「あ……マルタ殿にも聞きましたが、本当に今日入ったばかりなんですね。…最初が私なんかで、良かったんですか?私、その……一度も、したことがなくて」

「勿論、ヨルク様のような素敵な方と出来るなら、私としてはありがたいっていうか。最初のお客様になって頂いて、嬉しいです。ただ、経験はなくはないんですが私もこういうお店で働くのは初めてなので……不作法とか、失礼とか、そういうのがあったらごめんなさい」


 日和がそう言って頭を下げると、ヨルクは慌てた様子で日和の両肩に触れた。あ、という言葉の後に、日和には目に見えない速度でヨルクが日和から離れる。日和が驚いた表情をすると、ヨルクは「許可なく触れてしまってすみません」と申し訳なさそうに謝罪した。その様子がなんだかおかしくて、思わず日和は「ふふ」と笑みを溢す。これからきっと一時間も経たない内にもっと深くまで触れ合うというのに。


「ヨルク様は今晩、私の身体に自由に触れて頂いて大丈夫なんですよ。許可なんてなく、お好きなように」

「……っ、」

「あ、でも乱暴なのはちょっと怖いので……優しく、してくれますか?」

「っ勿論です!貴女を傷つけないようにしたいと思ってます」

「ありがとうございます。ヨルク様みたいに優しい方でよかった。……自己紹介が遅くなりましたけど、私、日和っていいます。どうぞ、よろしくお願いします」

「ヒヨリ、殿……」

「呼び捨てで良いですよ。日和、って呼んでください」

「…ヒヨリ。ヒヨリ……、」


 そういえば、異世界(ここ)に来て名前を呼ばれるのは初めてかもしれない。日和はそう思いながら、何回も自分の名前を呟くヨルクを笑顔で見つめた。マルタも日和がヨルクを最初の客に決めると、服はこれで隣の部屋に移動して一度身体を清めて緊張したら酒を含んであとは部屋で待機して――と猛スピードで日和のやるべきことを言い渡してから急いでヨルクの元へと向かってしまったので、名前すら確認していかなかった。しっかりしていそうでどこか抜けている人である。もしかしたら娼婦に名前等ないのかと思わないでもなかったが、流石にそれは不便すぎるし、ただ単に忘れていたのだろう、と日和は踏んでいる。


 日和は見知らぬ世界に飛ばされてから初めて自分の名を呼んだ男の元へと近付くと、そのすべすべの頬を両手で包み込んだ。ヨルクは何を考えているのか、身じろぎせず日和を見つめている。シミ一つない肌に少しばかりの嫉妬を覚えながらゆっくりと顔を近付けるも、背丈の違い故に背伸びをしても唇まで届きそうにない。少しは屈んでくれればいいのに、と心の中で不満を漏らしてみたが、なにしろ相手には経験がない(らしい)のだ。

 女に言い寄られるくらいのことはありそうなのだから察してくれても良いとは思うが、まあ童貞には酷だろうと勝手に納得して、ぎりぎり届く喉仏の辺りに軽く口付けた。ヨルクがごくりと息を呑む。日和にはないその隆起が動く様には、艶めかしさがあった。


「ヨルク様。少し、屈んでもらえませんか」

「え、あ、はい。こ、こうでしょうか……」


 ヨルクが遠慮がちに腰をゆっくりと下ろす。漸く目の前にヨルクの顔が近寄ったことに満足した日和は、こくりと頷いてから今度こそその薄い唇にキスを落とした。頬を包んだ両手と唇は離さないままに、薄っすらと口唇を開いてヨルクの下唇を舐める。ほんの少しかさついたそれを潤わせるようにじっとりと舐めてから、はむ、と自分の唇でヨルクの下唇を挟み込んだ。ふにふにと遊ぶように食んでいると、何の前触れもなく目の前の唇――ヨルクが姿を消した。

 同時にガシャン!と大きな音がしたので下に視線を落とすと、そこには真っ赤な顔でしゃがみこむヨルクがいた。なるほど、どうやら消えたのではなく転んで視界からいなくなっただけらしい。ヨルクの横には先程まで日和が座っていた椅子が転がっているから、きっとヨルクが転んだ拍子に倒してしまったのだろう。何もないところで転ぶとはこれ如何に。それとも、中途半端に屈ませていたのが辛かったのだろうか。


「……大丈夫ですか?」


 それ以外に掛ける言葉も見当たらないのでそう問えば、ヨルクはぶんぶんと頭を縦に振った。まるでヘドバンのようだと思いながら、日和はヨルクに向かって右手を差し出す。ヨルクはぼんやりとそれを眺めていたかと思うと、ハッといきなり目を見開いてから日和の差し出した手に左手を乗せた。勿論日和の助け等本来不要なので、特に日和が力を込めることなくヨルクが立ち上がる。


「すみません。キスなんて、してもらったことがないので…驚いてしまって」

「…キスも初めてだったんですね?しても良いか聞くべきでしたよね、申し訳ありません……」


 やってしまった。娼館なのだからキスくらいは挨拶だろうと思ってついしてしまったのだが、思いの外この世界ではキスというものは大事にされるものなのかもしれない。日和のいた世界だって、本命以外とはキスをしない等キスに対して重きを置く人もいる。日和はその限りではないけれど、価値観は人それぞれだ。ましてや世界を跨げば、価値観の違いがどこに落ちているのか等わかったものではない。


 色々と考えを巡らせていた日和の表情がよっぽど深刻に映ったのか、ヨルクは「謝らないでください」と言いながら謝った日和よりも申し訳なさそうな顔をしていた。何故こんなに委縮しているのだろう、童貞だからと言ってこの整った容姿であれば忌避されることもないだろうに。――それでもこんな風に娼館に来て娼婦を買うくらいだ、もしかしたらこの世界の女性というものは余程慎ましやかでここまで雲上の男には手出しが出来ないのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えながら、日和はヨルクの手を引いて浴室へと誘った。いつまでも部屋の中央で立ちながら会話をするわけにも、うだうだとキスをしているわけにもいかない。なにしろ、今晩はヨルクの童貞を捨てさせる(いっそ日和にとっては頂くと言っても過言ではない)ための時間なのだ。その時間を、ヨルクは恐らくかなりの金額で買っている。

 マルタは相手が満足さえすれば本番なしでも良いと言っていたが、流石にそれは日和の良心が痛む。もっと性格の悪い男であったならばそれでもよかったのかもしれないが(とはいえ日和が上手く躱しつつ本番なしに持っていけるかといえばそんな自信は微塵もないが)、ヨルクのように優しく純粋でこちらの一挙一動を気に掛けるような男の出してくれた対価に見合うような時間を、日和は作りたいと思っていた。こんなに良い男に良く扱われれば、絆されるのが女ってものである。


「あの、ヒヨリ……私は、どうしたら」

「私もマルタさんにざっくりの流れを聞いただけなので細かいところが合っているかは分かりませんけど、まずヨルクさんの身体を洗わせてもらえたら良いんだと思います」

「洗わせ…っ?!それは、ええと……ヒヨリが私の身体を洗うということですか?」


 あまりに驚いた様子のヨルクに、日和は自分の認識が間違っているだろうかと少し自信がなくなった。日和だってこの世界の娼館というものがどういうサービスを提供していて、どのような方法で男に接しているか等知らないのだ。マルタから聞いたほんの少しのことを、「恐らくこういうことだろう」と勝手に推測していただけに過ぎない。

 ただ、どうやらヨルクには今まで一晩きちんと娼婦がついたことがないらしいし、このような手順も未経験でどのようなものか知らないのかもしれない。もしそうであるならば、ヨルクがどうして欲しいかを聞きながら進めた方が良いのだろうか。

 そう考えた日和は、「もし抵抗があるようなら、お一人で入浴されますか?」とヨルクに問い掛けた。ヨルクは一瞬目を見開くと、ふるふると顔を横に振る。真っ赤な頬でちらちらとこちらを見る瞳には期待の色が垣間見えて、ああ、嫌なわけではないのだと日和は悟った。


「では、僭越ながら私がお身体洗わせて頂きますね」


 そう言って日和が笑みを浮かべてヨルクの上着の釦へと触れると、ヨルクは尚も真っ赤な顔でこくりと頷いたのだった。










 ベッドに座るヨルクは、上半身裸で下履きだけ履いているという格好のまま呆然とした表情を浮かべていた。入浴が終わってからというものの、十数分はこの表情をしているので、最初は「やっぱり綺麗な顔だな」と見惚れていた日和も流石に声を掛けないわけにはいかなくなってしまった。なんといっても、浴室では前段階を踏んだだけでまだ本番に至っていないのだ。ここでぼんやりと過ごして、一晩を終えるわけにはいかない。

 ヨルク様、と声をかけると、ハッとした顔をしたヨルクが日和を見、ぼふりと顔を真っ赤に染め上げた。


「すみません、呆けてしまっていて……。……その、すごくて……」


 何が、とは聞かないでおいた。なんとなく想像はつくけれども、敢えてそれを掘り下げる程日和自身上手く出来たかどうかの自信がなかったからだ。ただ、少なくともヨルクはある程度満足したらしい。

 日和は「そう言ってもらえて良かったです」とだけ返して、じっとヨルクを見つめた。先程まで呆然としていてこちらを見つめ返さなかった青い瞳が、今度はしっかりと日和を視界に捉えている。日和がゆっくりと瞼を下ろすと、ヨルクが息を呑む気配を感じた。そうして少し待っていると、おずおずと二の腕辺りにヨルクの手が添えられ、数秒後に唇の上に確かに温かな熱が乗る。

 浴室へ入る前であったら、日和が例えキス待ちの顔をしていたところでヨルクからキスをしたりはしなかっただろう。浴室内でお互いの身体に触れ合いながら口付けし合ったことが、ヨルクの自信(と言い表すのが適切かは不明だが)に繋がったようだった。


「ん…、」

「っ、ヒヨリ……!」


 舌同士を絡め合う深い口付けの合間、掠れた声で自分の名前を呼ばれ、日和は恍惚とした気持ちでヨルクのキスを受け止めていた。勿論キス自体とても気持ち良いが、ヨルクのような男に切なげに名前を呼ばれたら否が応でも反応してしまう。日和は人生で一度だってここまで一人の男に求められたことがなかったし、これ程切実に、けれども優しく触れられたこともなかった。

 日和の身体が、どうしようもない程にヨルクを欲しいと泣く。この目の前の男に全てを捧げてしまいたい――そんな思いが全身を巡って、自分の気持ちをどう昇華したら良いか分からない。


「ヨルク…っ、ん、う……」


 思わずヨルクの名を呼ぶと、ヨルクは日和の二の腕を掴んでいた手をずらして腰に添えた。ぐ、と身体同士を引き合わされ、細身でありながら実は綺麗に筋肉がついている生身の身体が日和に押し付けられる。日和はまだナイトドレスを身に着けているので直に熱が伝わるわけではないのに、あつい、と感じる程だった。それだけ、日和もヨルクも気分が高ぶっているのかもしれない。


 気付けば、日和はベッドのシーツへと背中を預けていた。ギシリとベッドが軋む。どうやら、ヨルクに押し倒されたらしい。元々そういうことをする予定だったので否やはないが、いざとなると緊張するものである。顔に熱が集中するのを感じながら、日和はヨルクに向かって微笑みかけた。このまま進んでも良いよ、という合図のつもりで。

 ヨルクは感極まった様子で瞳を潤ませると、再び日和に口付けた。薄い口唇から割って出てくる舌が、日和の舌を追い回すように舐め上げる。舌の裏をざらりと撫でられれば、これから起こることへの期待が背中を這い上がった。


「ヒヨリの身体に、触れても……?」

「勿論です、ヨルク様。自由に触れて良いと、お伝えしましたでしょう?」

「……ああ、ヒヨリ…。もし可能なら、ヒヨリにもヨルクと呼んでもらいたいのですが、駄目ですか?先程のように…」


 ヨルク。男の言葉を受けて日和がそう名を呼ぶと、ヨルクは嬉しそうに笑う。花が綻ぶような、という表現が男に対して使われるものかは分からないが、まさしくそんな笑顔だった。












「ヒヨリ……っ、好きです」

「もう貴女を手放したくない。私のものになってください…っ!」

「私の妻になって。どうか、頷いて…」


 絶世の美青年であるヨルクにコトの最中に吐息交じりで何度も愛を請われて、頷かない女が果たしているだろうか。正気ではない、夢うつつの快楽の世界の中で、きっと日和は何度も頷いた。記憶はないが、恐らく。日和を見るヨルクがやたらと嬉しそうな顔をしていたのも、愛おしそうに日和に触れる指も、ヨルクのすることなすこと全てに反応してしまう日和の身体も、全てが生々しいのに現実ではないようだった。







「ヒヨリ。一晩共に過ごしただけで何をと思うかもしれませんが、私は心底貴女を愛してしまいました。改めて、私の妻になってほしい。……駄目でも、明日以降貴女の全ての夜を買いたい。貴女が他の誰かにと思うだけで、胸が張り裂けてしまいそうなんです。どうか、お願いします」


 翌朝目覚めた日和は、騎士よろしく跪くヨルクにぎょっと目を刮目した。閨での睦言と思っていた――といっても、あまり記憶にはないが――言葉の数々が、朝になっても有効だとは思わなかったからだ。あんなのは一時的に気分が盛り上がって言ってしまったものである筈で、こんなに美しい男がたった一晩で日和のような平凡な女に惚れこんでしまう等、誰が想像できただろうか。少なくとも、日和には想像できなかった。

 言葉の出ない日和に拒否されたと思ったのか、目の前の男がはらはらと涙を零す。良い大人が、と普段であれば思ったであろう日和だが、今このときばかりはそうと思えなかった。ヨルクの泣き顔が絵画のように美しかったので。


「えっと、あの。言ってなかったかもしれませんが、私、攫われてこの娼館に買われてて」

「知っています。マルタ殿から聞きました」

「だからその…、辞めたくても、勝手に辞められないんです」

「貴女を妻に出来る権利を下さるなら、いくらでも払います」

「そんな、私なんかに」

「私の妻になるのが嫌なのでしたら、せめて夜だけでも買わせてください。私に抱かれるのが嫌だと仰るなら、触れなくても構いません。ただ、貴女が他の男に触られないのであればそれだけで」


 これ程熱烈に口説かれて、そういう行為自体を不特定多数としたいと思っているわけではない日和が受け入れない理由もなかった。そこまで請われる女ではないとは思わないでもなかったが、そうして勘違いして日和を救ってくれるのなら、否やと言う筈もない。しかも、ヨルクは妻にしても良いとまで言っているのだ。意味の分からないままに(元の世界には未練一つないが)この世界に連れてこられ、頼る人もいない(強いて言うならマルタ位だが、マルタも頼れるかと聞かれるとまだ判断がつかない)娼館で様々な男に買われるのと、ヨルクの妻となるのでは、天と地ほどの差があった。


「私で良ければ、その。…妻に、してください」


 日和が小さな声でそう返すと、ヨルクは潤んだ瞳で満面の笑みを浮かべ、日和を力強く抱きしめた。こんなにトントン拍子に上手いこといくものなんだなあ、とやはりどこか能天気に考えた日和は、震えながら日和を抱くヨルクの背中にそっと手を回したのだった。







ヨルク視点やその後のお話等も書けたら良いなとは思っていますが、ひとまず短編として書くつもりでいたので一旦完結とさせて頂きます。

最後まで読んで頂きありがとうございました!

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