三河監獄国ものがたり・2
中世北欧神話で、ノルニルは運命の女神たちである。十三世紀の初めに分散的な北欧神話を整理したスノリ・ストルルソンはノルニルが三人いて、名はそれぞれ過去・現在・未来であると語っている。この三人の天のノルニルが世の運命を支配し、人が生れる時には三人ともかならずその場にいて、その人間の一生の定めを下す。ノルニルの三人の名はどうやら神学的な色をおびた上品なつくりもの、もしくは付け加えたものらしい。古代ゲルマン種族はそうした抽象的思考ができなかったからだ。スノリは世界樹ユグドラシルの根元の泉のそばに、三人の乙女を配している。仮借なしに、彼女たちはわれわれの運命を織りなす。
Jorge Luis Borges. -El libro de los seres imaginarios-
さて、渥美半島は田原の海岸沿いの砂浜に乗り上げた船から降りた我々です。
しかし船旅というには、あまりに辛いというか…一時間半ほどの間に我々痴女種ですらげんなりしていたのですから、一般の囚人の皆様たるや。
もっとも、監獄国側も理解してはいたようで、巫女服の比丘尼国女官の方が回復させて回っています。
「いつもこんな感じなんですか…」船頭役の方にお伺いしてみます。この方、実はうちの女官で派遣者です。
「だいやぐらむというものがありまして、だいたいの到着時刻が決められております。何度か試走して決定されました。あ、朝夕の工場便はここまで速く走りませんからご安心ください」
そうです。
たはらとたきがしら寮の住人、朝または夕方の工場行き便はこれに乗って送り届けられるのですよ…歩けばたっぷり一時間以上かかるとかで。
ちなみによしご寮は別系統の船便が行くとか。
確かに地図を確認してみると、たはらとは全く別方向ですね。
さて、特待生の我々は特別扱いと思いきや。
「寮生活の実体験なのですから、一般の囚人と同じ寮に居住するに決まっているではありませんか!」とマリーさんが宣言されます。ううう。
「ただし…元来は女人禁制の寮内ですので、一般囚人への影響は考慮されています。具体的には、たはら第六寮内の一棟で最上階に我々の部屋が用意されます。これは、わたくしの研修派遣時の実態報告やその後の指導訪問での実績が考慮された結果です。一般囚人と同居しても全く問題はないどころか、場合によってはご褒美である。ただし、襲うようなお馬鹿さんは吸い取られて一瞬で行動不能となることをわたくしが知らしめましたので」
ほっほっほと高笑いするマリーさん。
ちなみに我々の格好ですが、敢えて他の囚人と同じです。
裾を絞った袴状のズボンに…おい待てと言いたくなる安全靴としか言いようのない靴。
靴下なんて現代のそれと変わらないじゃないですか。
ちなみに洗濯は寮の各階にある洗濯場で各自行うそうです。
で、お部屋。
夏の暑い時期なんかどうすんだろうと思っていました。
しかし、冷房が付いているそうです。
例の生体筋肉発電機、あれの応用型で一種のスターリングエンジンみたいな熱交換ピストンエンジンめいた機関が発電棟なる建物に置かれてまして、痴女種の発熱している排熱をここに導いて動かしてるそうです。
(痴女種は女官種と違って排熱しない訳じゃないんですよ。一応、熱力学の第三法則に支配されてますからね。で、莫大な利用不能熱を別空間に捨ててたんですけど、捨て先を工夫しまして。本当は痴女皇国内で利用するのが一番なんですけどね、うちは既に発電装置組んでますから、よりエコでクリーンでブラックボックス状態で運用したい上に大電力を必要としている監獄国で利用してもらうっかーと。ちなみに暖房はうちらの排熱を直接…と言うか現代のエアコンに似た空調回路を組んでますよ。あの辺、冬はそこそこ寒いですし)と、エマちゃんが教えてくれます。くれますけど。
はぁ…一体どうやったら、インドネシアからだと地球を三分の一周くらいの距離がある渥美半島や碧南や挙母とか土橋まで熱を持って行けるのでしょうか。
うん。エマちゃんなら出来るんだよね。
これで納得しておきます。
「冷房ごときで驚いていては身が持ちませんわよ?」
ええ。
板ガラスなんかどうやって作ってんですか!
確かあれ、フランスでやっと大規模量産化技術の目処がこの年代に成立するはずなんですけど…。
「痴女皇国の工場から納品。今後は監獄国港湾部の工場で生産予定だそうですわ」
「聖院時代から作れるには作れるとは聞いておりましたね」
「あ!忘れておりましたわ…一応、わたくしたちは寮内でまぐわい禁止…は建前です。実はこれを預かっておりまして」そーいえば、寮棟一階の事務所で入寮手続きをしていたマリーさんが、何やら書類を渡されていましたね…。
「これは、のるまでございます。と申しますのも、わたくしがかつて研修に伺った際、当たり前ですがごはんが問題になりまして、関係者協議の結果、まずは白直なら白直、黄直なら黄直の際に吸って囚人が翌日大丈夫かを観察しようとなりまして、就寝を見計らい片端からドレイン。で、吸い取り量の加減さえ間違わないなら大丈夫という結果ですねっ」
と、そこで話を区切られるマリーさん。
「特に素行優秀な者からは慰労を兼ねて直接致してくれないかとも言われましてね。一応、わたくしと直接致しますと最悪死ぬ事はご説明させて頂きました結果、至近距離でとなりまして」
つまり何ですか。その紙は吸い取りリスト…。
「わたくし以外は慣れておらないのと、ラドゥ殿下は厳密には痴女種ではありませんから、わたくしから供給致しますわ。あと、ベラ子陛下とたのちゃんは吸い過ぎるとまずいから至近吸引はなしでリモートドレイン。一番燃費が悪いベラ子陛下が収容数が一番多いたはら、わたくしが少し遠いよしご、たのちゃんは歩いて五分くらいかな、近くのたきがしらからごはんを調達する計画で参りましょう」と、痴女種特有の食糧調達計画を指示されます。
「それはそれとして寮生の食事調査も言付かっております。食券は預かっておりますので、まずは部屋に荷を解いてから寮の食堂にお邪魔致しましょう」という訳でかばんを部屋に入れて、まずはお食事に。
「鍵はこれで閉めてくださいませ」と、なんかこの時代には似つかわしくないシリンダー錠用の金属鍵を渡されます。しかも洋風の開きドアですよ、寮室の扉!
「寮生は囚人とは言え比較的自由に行動できます。ただ、寮外に出る場合一階の外出帳に記帳して寮監に外出札を渡してもらう事。あ、あそこの雑貨屋さんに行く場合は専用の外出帳に名前を書いて、三枡札と言われている専用の外出札を持って行きます。この札を渡されたら門番が一刻判という判を腕に押しますから、一時間以内に戻らないと作業報奨金を減らされたり、最悪、たはら工場の重罰牢に入れられて熱い熱い鋳物仕事を言い渡されたりしますわよ…あたくし達は特待生札を渡されていますので看守待遇ですけどね。つまり、外出自由…ま、たのちゃんが、たきがしらに吸いに行って貰う時はわたくしが同行いたしますが、口頭で構いませんから寮監に一言声をかけておいでになってくださいませ」
なんでも食費を下げるために、その雑貨屋さんのおにぎりや乾麺などで食事を済ませてしまう囚人もいて問題になっているとか。
「ここの食事が不味いまずいと言う舌が肥えすぎなのです!恐らく、今の世でここまで高待遇な囚人、私どもの罪人制度かこちらくらいだろうと申しますのに…ガレー船かバスチーユに送ったろかほんま」
マリーさん、ジーナ語。
それはともかく寮食堂。
流石に木の机ですが、白木風ですし妙に滑らかです。
(こうきんじゅしこーてぃんぐとやらを施しているとか。お盆も同じですわよ)
「食器は汁椀が流石に木のお椀で漆仕上げ、飯椀は瀬戸物。主菜皿は…アルミじゃないですか!」
「ですからあるみにうむが売れるのです。流石にこんな食堂に銀皿はあまりに不味いでしょ?」ぬぬぬ…この時代にボーキサイトの電気精錬、さすがに広められないですよね…。
「これ、ローマ帝国の錬金術師が見たら発狂しかねませんね…」皇配殿下がお皿をしげしげと眺めておられます。
さて、本日は肉定食と魚定食から選べる模様。
魚定食は…サバですね。醤油で頂きます。
あとほうれん草ともやしのお浸し、白菜の漬物がつきます。
ご飯は麦飯でお代わり自由…刑務所より待遇いいじゃないですか!え?お味噌汁も?
ちなみに本日の味噌汁の具はたまねぎ、わかめ、ネギ…ベラ子陛下と美男公がわかめ、大丈夫なんでしょうか…え?マリーさんも普通に食べてた。痴女種だから問題はないと。
なお味噌は土地柄、八丁味噌です。つまり赤だし風味。好き嫌いが多少分かれそうというか、関西の方は文句言いそうですね。
「お肉は豚肉野菜炒め。薄切りの技術があるのは凄いかも知れませんね」
「囚人という事で手早く食べられるようにしたのでしょうか」
「隠し味は消毒のためと思いますが生姜、と…あたくしの祖国のような果実系の甘めの味付けとは少し異なりますわね。汗をかく野郎仕事が多いから、ギリシャ料理と似た理屈で塩を摂らせる意図があるようですわ」
「熱帯の痴女宮で出すには難がある献立もありますが、ここまで野菜を出すのは見習いたいものもありますよね」などなど、食べながら品評。
なお、痴女宮の食堂を利用し続けていますと、お箸に慣れてきます。
ベラ子陛下は特別扱いをあまり好まないのと、騎士時代の習慣から女官食堂や罪人食堂のメニューチェックやマナー指導を兼ねて、割とまめに食堂に行く部類。
最近では独立した修学宮の学食を利用している美男公のところにも、私と一緒に行っていますよ。
「だいたい一揆の類や、果ては200年から300年ほど後までの間に各地で起きた反乱や革命の類、突き詰めれば食料不足に端を発しておるかと。更に言うなれば、我が国でもイェニチェリが特権を享受した挙句に民政革命に繋がる事件を起こしておりますしね。鯖挟国の陛下には、最適解かは別として、ゆくゆくは立憲君主制ですか、何らかの民政化を図り軟着陸も必要かも知れませんよとは伝えております」と、治世についての意見を披露される美男公。
「痴女皇国は反乱や一揆の可能性は…ないか…」
「我が国については有り得ません。きっぱり申し上げます。報告連絡相談なしに色々やらかすのは一部幹部が暴走した時だけです。そして暴走した場合に殴り倒す自己浄化機構は備わっておりますから。たのちゃんはよくご存知でしょ?黒い在庫品…」はい。あれの棚卸しについては、絶対にわたくし田野瀬が直接触らないようにと言い含められています。
で、大抵のものは引き出しを兼ねた木箱に入っておりますが、実物については初代様・クレーゼ様・雅美先輩・悦吏子ちゃんことエレンファーネ女官のいずれかが確認、私が記帳する流れが定められていますから。
あ、外道ちゃんもあれ触れるのか。
そうする理由は言わずもがな、あそこの在庫品に、理性を失うのと引き換えに金衣女聖とすら対等に渡り合えるまで強くなれる強化グッズが存在するからです。
そして、迂闊に触ると強くなるどころか精神汚染を来たして暴走してしまうというのは、現物に近寄るだけでよくわかりますから。
だから雅美さん、これ一度どうかなと言って黒ブラギ◯スをあたしに入れようとしないで下さいね!
「あー、あれねー…懲罰グッズ、あたしでも迂闊に触るなって言われてるから…たのちゃんはもう絶対に触っちゃダメですよ」保護者が必要な年齢ではない気がしますが、ベラ子陛下ですら簡単に手に取れない代物だというのは、現物を見た立場としては痛いほどよくわかりますので素直に従います。
「ちなみに玄奘さんなら普通に触れますね。あの方も本当に見違えるばかりに更生されたようですわね」
「本人は師匠がいいからだと謙遜されてますがね」そうです、今や歩く夏◯雅子の如き扱いを受けている玄奘さん、痴女種化していながら悟りを開いた講師として修学宮でも人気講師です。
ただ…痴女種、それも千人卒化していますので食事の必要性が避けて通れません…とりあえず限定者による高効率ドレインで何とか凌いでおられますがね。
さて、食後の問題。
先ほどのお食事は単に寮の生活を体験するためであって、私たちの本来の食事はアレをアレする必要があります。
痴女宮から離れた私たちは精製されたガソリンに該当するものを受け取る必要がありますが、それは歩く巨大精気備蓄基地たるベラ子陛下がおられますから無問題。
ただ、依頼された囚人からの吸い取り作業がありますので、まずは吸い取る時間帯について説明を受けます。
「黄直と白直という二交代制度で運用されている工場が多数なのですわ。一週間交代で朝六時半から十五時半までと、十六時から翌日午前一時までの作業に就いておられる方が多数。で、通いの方が主に就かれる昼勤や、鋳物工場のように三交代制の人が多いよしごは、時間がややこしいのであたくしが担当いたします。たはらとたきがしらは先ほど申しました通り、陛下とたのちゃんがリモートドレイン。仕事をしながらになりますから慎重にお願いいたしますわよ」
表を見ると、十八時頃と六時頃を指定されています。
あ、そうか、これから働く人から吸うとまずいからなのですね。
まぁ、睡眠時間実質ゼロでも対応可能な私たちです。ちゃんと時間を守れば大丈夫…かな?
「今回はらいん体験は最初の一日だけで、あとは各工務区棟を視察して回ったり、工場長様や幹部の方々との意見交換ですとか、設備投資に関するお話などが予定されております。かなり自由に動き回らせて頂けるように配慮されておりますわね」渡されたガリ版か何かの印刷で作られたパンフレット…しかも和装ですが製本されてますよ…や、案内書類を眺めながらマリーさんがのたまわれます。
「あ、工場長様…今から当国の財務企画部長の田野瀬にたきがしらを案内しようかと思っておりましたが…はぁ…けけけ喧嘩ですって? まーた何をやっているんだか…場所は2棟…洋馬車組立ですわね。警備員は到着済み、鎮圧…。了解。話を伺ってみますわ。とりあえず職区長様には私どもが来ると連絡願いますわ。…陛下、殿下、たのちゃん。とりあえず行ってみましょう。こうした揉め事の処理も罪人工場運営の参考に出来るかも知れませんわよ」
聞けば、こうしたトラブルが起きた際には積極的に行って原因や対処を取材、慣れて来たら事情聴取や仲裁にも関わっておられたと。
そりゃ普段から女官教育や生活態度指導をなさっておられる方ですし、騎士として荒事経験も多数なマリーさんです。
マリーさんの働きが認められて、比丘尼国の巫女さんの雇用拡充はもとより、当国の女官の派遣に繋がっていますから…うちもなかなかの金額の派遣費収入が以下略!
で、ベラ子陛下の聖環の転送機能をマリーさんが借りて、揃って件の工場へ。
巫女服姿の警備員がちゃっちゃと吸い取り鎮圧してから、周囲の囚人も含めて状況を調査している最中でした。
で、原因。
「水桶の水を汲む列に割り込まれたそうです」
「割り込んだ本人はまだ新人で、慣れぬ仕事に倒れそうになり、すまん悪いと水を飲みたがったと。で、悪いことに水筒も忘れて出勤…」
「で、先輩が怒って後ろに並べ!とやった訳ですか…」
「規律を守らない新人がまず悪いとは言えますね…」職区長なる、割と偉そうな方が、どうしたものかと考え込んでいます。
「班長、一六一四号、発言よろしいでしょうか」囚人の一人が手を上げます。
「一六一四号、どうぞ」
「二六五八号の割り込みは確かによろしくありません。ですが、倒れそうならとりあえず一八九二号や周囲が割り込みを許したあと体調確認。その後に水筒を忘れた件も含め、本人が素行を改善すべき点について先輩や上長が指導した方が無難ではなかったかと指摘いたします」
「一六一四号。文書にすることはできますか」
「はい、班長に追って提出いたします」
「班長。一五八三号、発言よろしいでしょうか」
「一五八三号、どうぞ」
「当工区は馬車枠組組立であり、回転台架が設置されているとは言えそれなりの重量物を移動させる工区であります。かねて同僚囚人から話が出ておりました水桶増設につきまして、夏季だけでも検討を頂きたく。列に並ぶ時間短縮につきましては水桶と蛇口の数から試算した数値を出せます」
「一五八三号、改善提案文にすることはできますか」
「はい、一六一四号他、同僚と合同での作成提出よろしいでしょうか」
「一五八三号、一六一四号、そしてみなさん。単なる暴力行為でない事は警備の方の調査でも理解いたしました。あえて今回は懲罰報告を控えたいと思いますが、これにはみなさんの改善提案の提出が必須です。その提案を元に始業前集会でお話をさせて頂きます。仲間の輪を強くし、よりよい働きやすい職場を作るためにも今回の件をみんなで改善してまいりましょう!」みなさんがおおーっという声を上げて賛成しています。
…なんか、ものすごく民主的というか、刑務所っぽくないんですが…。
「規律は大事ですが、単に規律で縛るだけではなくみんなで前向きに働くよう指導しているのですわ」
(ここは高品位の輸出品を製造しているため、特に真面目で優秀な方が集められていますの…ですから厳罰よりも就労意識を高める教育が重視される事が多いのですわ。今回の事件も、いわばルール違反を咎めたがために起きた事ですしね)
ちなみにこの工区棟、たはらの敷地の西北にあって、重要な製品を作る場所として代々指定されている場所だそうです。
そして倒れていた二人の当事者囚人を、職区長や班長付き添いで巫女さんが連行していきます。職区事務室で簡単に叱ってから復帰させるそうですが…。
「はい、次!」…なにをいきなりラインに入ってんですかマリーさん!
(穴埋めですわ!ここでノルマをこなしておかないと皆さん残業ですわよ!この工場の残業、予告なく黙って仕事が続くからみなさんに恐れられているのですわよ!まずは疲労で就労に支障を来たさないようにしてあげませんと!)溜まっていた馬車の架台…押して動くように車輪がついていますが、それに取り付いてガンガン楔を打ち込んでいきます。
釘だと緩んだり錆びる場所は防振樹脂を染み込ませた木組みでうまく固定、必要に応じて非鉄金属のネジで締め上げていくそうで…。
私たちがマリーさんの恐るべき早技と、他の囚人の一糸乱れぬ作業光景を見ていますと、さっきの喧嘩の当事者が戻って来ました。
「はい、たっちこうたいですわ!」
「マリー名誉職長!ありがとうございました!」二人が礼もそこそこに持ち位置に戻ります。…マリーさんの馴染みっぷりが怖いです…。
ちなみに職長というのは工場長のすぐ下くらいの方で、各工場職区を統括する立場であると。
「いやー、経験工区で良かったでっすわー」工場の方から差し出された木筒水筒の水を労働者の顔で飲み干しているマリーさん。もはや熟練ライン工の貫禄です。
「あ、この水桶ですが、実は水量が減ると氷水が補充される仕掛けですわよ」水はまだしも氷って…。
「ま、色々と技術が注ぎ込まれているという事で。それでは、職区長のところに挨拶をして帰らせて頂きましょう」で、ラインの傍の黄色の帯で示された歩行可能な場所をおっかなびっくりで通って、場内の二階にある管理室へ。
(鉄筋支柱とか江戸時代レベルで許される構造じゃないですよ!この工場で作ってるかどうか知りませんけど、こんな柱が作れるんなら、大砲とかレール作れません?)
(あ、そのれーるとやらは試作品があって、工場の中で重量のあるものを動かす台車に使われておりますわよ)やっぱりあるのか…。
(まーりーりー。聞いてるー。ほんとこれあたしで判断出来ないわよ…これ、下手したら何かの弾みで内燃機関発明してもおかしくないわよ…)
(まぁ、おかみ様には話はしとくよ。ほら、連邦社会なら当時の周辺国家や世界の情勢が富国強兵以外の選択肢を許さなかった訳じゃん。だけど比丘尼国の場合、無理に領土拡大やら大陸進出やらを果たさなくても国が回る訳なんだし。それに今の比丘尼国は連邦世界で言うと、江戸時代後期から明治の水準じゃん。その世代の日本が核兵器級の決戦軍事力を持ってる訳なんだから、うかつに他国が侵略しようものなら、攻めた国を逆に防衛名目で返り討ちにしかねないからな? その上で一種の鎖国制度を敷いて貿易や加工生産で立国していこうとしてるんだから、他国に対する文明化の見本になってもらえるなら産業革命に踏み切ってもいいんじゃないかな。内燃機関に匹敵するものは既に渡したり開発してるわけだし)
なるほど。まぁ、おかみ様や元伊勢朝廷が抑えるならありなのか…。
(イタリアとスペインについては、イタリアが教師役でスペイン植民地政策の結果と弊害を教えていますから。それにイギリスにも欧州支部がお説教を入れていますよ。あとはドイツ…つまり神聖ローマならびにハプスブルク家と葡萄酒国、つまりフランス。ここは連邦歴史ではそれなりに戦争の近代化に寄与する発明をいくつも成し遂げていますから、この二国を野放しにしない体制つくりは大事ですよ、たのちゃん)
(言ってはなんですが、西欧諸国の文明化に毒されて近代的軍備を成し遂げたがために話をこじらせた国が他に二つあるかと。鯖挟国はもちろんですが、モスクワ・キエフ大公国…ロシアという名になるのですかね。あの国が大砲や軍艦を手に入れて何をしたかを知りますと、鯖挟国を敢えて中東世界の近代化尖峰として、戦争抑止力にする提案も出来ますかと。連邦世界のインドとこちらの天竺、少々違う様にも見受けますので)
(なるほど。美男公の見立てでは鯖挟国に連邦世界でのインドポジションを期待したいと。なかなか上手く売り込むねぇ。いよっ美男子!…いや、アリはありだよ。ベラ子にたの、オリエント急行ってのあるだろ。あれの終着駅がどこだったか調べてみなよ…当時のコンスタンチノープルには、あれが目指す価値があったんだよ)
(ふむ、葡萄酒国から延々…ですか)
(アジア社会の入り口であり、欧州社会の終着地扱いだったんだよ。今でもイスタンブールはアンカラ差し置いて、トルコ最大の都市だろ? 鯖挟国の皇帝がそこまで読んでるかはともかく、連邦世界でのイスタンブールはオスマン帝国首都にふさわしい国際的大都市だったんだ。鯖挟国がその地位を望むなら支援はやぶさかじゃないし、実際してるけどな。ただ、国際社会を善導する義務はきっちり背負ってもらう必要はあるぜ。東方聖母教会計画の話に乗ったのも、その辺の役割分担を鯖挟国に期待したいからでもあるんだよ)
(痴女種が完全に人類を統治しては駄目なのでしょうか)
(ダメ。これは家族会の方針…というより、うーん、美男公に説明しにくいんだけど、連邦世界では今も月面に存在する技術開発企業があるんだけど、かつてその会社に、半分気が狂った頭のおかしい兵器開発者がいたと思ってくれ。そいつは敵の星の生物全てを滅ぼしたり、空を飛ぶ船の艦隊を全て余裕で壊す、人が乗らなくても動く小舟みたいなのを考えたんだよ。だけど、手持ち大砲みたいな大型兵器を小舟でそのまま扱うには無理がある。あと、重さも風もない世界で姿勢を変えるのに人の体を真似することを考えついてな。で、舟の形の他に人間の体に近い姿にもなる大きめの人形を考えたと思ってくれ。そして、それを制御する回路として政治犯や凶悪犯など、死んでも別に構わん奴から脳を抜き出したんだ。七人分。それを人形の中に埋め込んでから、その人間の脳がいくさをするときにどう考えどう動くのか、人形自体に学習させて行ったのさ。で、前期試作型三体。後期試作型三体、そして量産先行型三体に最終量産型四体。本当は無制限に動けるけど、人が乗ってない上に生存本能だけで生きてるような凶暴な連中の生き様を真似させたようなもんだから、暴れさせすぎるには危ないってんで、敢えて一刻の動作制限時間を設けたのよ)
(え、それって、クリスおじ様と出会った時の姿のクロスのおじさん…)
(そ。ベラ子は促成栽培の時に見て知ってるよな、あいつ。量産型MIDI04「ケルビム」、13番機だよ。…試作型もとんでもねぇ名前ついてんだよな…試作ファーストロットMIDI01ラケシス、アトローポス、クロト。セカンドロットMIDI02ノーナ、デキマ、モルタ。サードロットMIDI03ウルド、スクルド、ヴェルザンディ。全部運命の三女神じゃねぇかって文句言ったらよ、もとは本当に人の運命を支配するために作られたってんだからねぇ。で、そいつらと、進化型MIDIシリーズのM-IKLA20エオン、M-IKLA21カリバーン、M-IKLA22ミールブルン…これらの合議体が「現段階では可能な限り、人類は人類の方針により生存に向け進むべきである。痴女種も女官種も八尾萬神族種も運命の環の進行を補助する補完的存在である」と決めてんだよ。で、M-IKLA22がエマ子だっての知ってるよな。つまり、身体が変わったジーナかーさんとクリス父様も、もはやあたしやエマ子同様に世界や宇宙の水先案内人や主導者は出来ても、決して支配者ヅラは出来ないんだ。ベラ子はいまんとこ分からんけど、お前次第だよ。お前が望むならいずれはMIDIシリーズに編入される。だけど、MIDIシリーズ組に入ると、痴女種どころか神様の領域に両足突っ込むから慎重に考えてくれ。最低でもおかみ様や初代様と同列の責任、背負わされるからな)