-穴と雪と氷の国-嫁入り皇帝ものがたり・11.3
ゴーリキー記念市の中心地に建つという、ニジニ・ノヴゴロド駅。
このゴーリキーなる人物の何を記念したのでしょうか。
…実は、先帝エリザヴェータ様の時代。
どん底の暮らしを余儀なくされていた農奴の苦役生活を謳った戯曲を書いたことで当局に罰せられ幽閉された挙句、獄中で病死なさったとのこと…。
しかし、痴女皇国の介入前に没したものの、マルハレータ殿下他の手によってその戯曲、日の目を見ることになりました。
そしてその名も「どん底」との題名のついた戯曲、ボリショイ劇場で人気の演し物の一つともなったのです。
その、ゴーリキーの写実主義的な戯曲を始めとする農奴や労働者の苦楽を謡った小説や戯曲の功績を讃えて名付けられた町。
この町で3等車から降りる労働者たちがいる一方、乗り込んで更に東を目指す者たちもおります。
この労働者たちは、待遇カイゼンを前提として志願した者たち。
報償や労働待遇に合意し、それまでの農奴に代わって新しい開拓地を目指す事に頷いた者たちばかりなのです。
いわば、農奴の入れ替え。
そして、農奴ではなく労働者としての新しい…最低限度ではあるでしょうが、痴女皇国としての最低限度ですから、人として扱うという待遇に希望を見出した者たちです。
そう、この地を離れる者たちも、厳しい自然が待ち受けてはいるものの、そこに用意された新しい住まいや極力、快適を志向した暮らしの説明に惹かれてシベリアの奥地を目指すことを決めたのです。
今回のボストーク号は、こうした志願者たちを停まる駅ごとに入れ替えながら進む事になります。
そして、彼ら彼女らの前途を祝福すべく、我が娘アナスタシアが東方教会主教服姿で、労働者たちに祈りを捧げます。
で、出迎えの騎士や尼僧たち共々、これから旅立つ者とこの地に降り立った者たちの間で激励の挨拶を交わす声や、歓声…そして別れの涙声もする中、極東号は再び、東を目指して走り出すのです。
再び、車中の人となる私とペヨトルとアナスタシアですが、ここでちょっとした記念の儀式があるのです。
移住労働者代表の男女をまず、アナスタシアが男、ペヨトルが女という組み合わせで抱擁します。
そして、それが終わりますと、私が二人を両手で抱き、新しい生活の成功を祈るという塩梅。
これ、この先の駅ごとにやるそうです。
しかし、私たちにとっては何十組でも、この者たちにしてみれば下手をすると一生に一度。
抱擁の後で八端十字架をかざし、そなたらの前途に光あらんことをと告げるのも忘れません。
で、その儀式が済むと私たちは展望車内に入り、見送りを受けながらこのニジニ・ノヴゴロド駅を後にするのです。
しかしですね。
どうも、何かこう、煙臭いのです。
(おかしいですね、空調効いてるはずですけど…)
聞けば、この極東号を牽引する機関車、精気を節約するための、とある仕掛けがついとるそうです。
で、煙臭い理由、マリアリーゼ陛下にお尋ねしてみます。
(そう言えば、この列車、新品にもかかわらず、前の方の屋根が少し汚れてましたわね…)
(おかしい、蒸気機関車じゃないんだし…ちょっとりええに聞いてみるよ)
で、マリアリーゼ陛下と室見局長の言い合いらしき気配の後で、返ってきた心話の回答。
(あのさぁ、ちょっと技術的な話が絡むから分からんかもわかんないんだけどさ、少なくとも原因はわかった)
どんな原因なのでしょうか。
(りええの悪い趣味だ)
(冤罪よ冤罪!)
そこからの話、ある意味では驚愕でした。
精気を倹約するための猿人とかエンジンなる仕掛けのカラクリ、これを始動する際に猿人が冷えておるとですね、このように天を覆うかのごとき大量の黒い煙…更には燃え残った油に引火した場合には、炎すら噴き上げると。
https://x.com/725578cc/status/1791116952200769885
https://x.com/725578cc/status/1791119225157021924
(火事だけは、せめて山火事だけは!)
ええ、生まれ故郷でも起きてえっらい騒ぎになった事があるんです。
確かその時は、スイスからマイレーネ様が急遽お越しになられ、一撃で鎮火なさったので事なきを得たと思いますが、それにしても危ないには危ない話。
ペチカをちゃんと予熱しないと危ないどころじゃないのですよ?
(やっぱりね、ターボディーゼルの音がないとね、燃える男の赤い機関車ってふいんきが出ないのよね…)
(りええ、あんたいつから共産趣味者になったんだよ…意外に酒飲みなのは知ってるけど…)
(あたしは第二外国語にロシア語は選択してないし堪能でもないわいっ)
何の話なのでしょうか。
(あとさぁ、この先、カザン越えたらトンネル続くだろ…エンジン、切れるようになってるよな…)
(一応排気設備はつけてるけど…)
(切れ切れ切れ!)
ええ、危険なものはなるべく使わないようにして頂きたいのですが。
それはともかく、列車はどうやら、ボルガの流れに沿って時に右岸、時に左岸と移り変わりながら走っておる模様。
後ろを見ておりますと、なるべく直線に、そして山を削り穴を掘りして登り降りも減らしておる様子です。
(この高架橋の下の貨物線がね…なんせ場所によっちゃ木材運搬貨車、最大100両繋いで1万トンを運べる列車が走るから…)
どんなのでしょうか。
(多分、カザン中央駅でその姿を見ると思いますよ。あそこ、駅の西側のボルガ川に沿った河川港から木材を積み出すための貨物駅、すぐ横にあるので…)
で、ボルガ川に面した町である件のカザン。
実はこの町、鬼汗国によって発展した経緯があります。
更にはボルガの流れがカスピ海に繋がっておる関係で、猫絨毯国や鯖挟国の西の端との貿易の船も往来しておったとか。
つまり、あまり北方帝国らしくない町なのです。
で、室見様によれば、このカザンの北側の町はずれを通過していく近道線をゆく貨物列車がある一方、極東号を始めとしてカザンの街中にある駅に立ち寄る寄り道線が存在するようです。
そして、カザンの駅で別れてチェリャビンスクを目指す路線と、チェリャビンスクより少し北にあるスヴェルドロフスク市…またはエカテリーナ1世記念市を目指す極東号が辿る道のりの分岐点でもある、とお教えを頂きます。
(貨物列車は勾配緩和のための大深度トンネル中心の路線で、ウラル山脈の太いところを一気に抜けてチェリャビンスクを目指します。その一方で、エカテリンブルグ駅…スヴェルドロフスク市を目指す高速線は、ウラルの山々が少し険しい辺りを通る事になりますから…)
で、エカテリンブルグを通る理由。
かつての古代ルーシ国が、はるばるとこの地にまで来た海蛮国の交易者と毛皮と何がしかを物々交換していた土地の一つだったそうです。
つまり、エカテリンブルグから北、そして北東には毛皮…それも高価な毛皮になりそうな生き物の宝庫なのですよ。
ですので、トルコ石商会の支店も置かれ、狩猟者や養殖飼育員を増員する動きもあるとかで。
(ボルガの流れに沿って、カスピ海方面にまで来たバイキングもいたって言うからねぇ…)
それと、大事なものがあるようですよ、このカザン。
カスピ海で放し飼い養殖されているサメの卵、これを塩漬けにして瓶詰めする工場、このカザンに存在するそうです。
で、その黒ずんだ小粒の卵を塩漬けにして詰めた小瓶、おりしもカザンの町長を兼ねた聖母教会の司祭がいくつか届けてくれました。
降りる者乗る者の儀式の後で渡されたそれ、カザン駅を出発後に、トクダ様とコウダユウを含めて貴賓車の者で試しにひとつ、開けて食べてみることに。
(ふふふ、キャビアの売上で儲けてもらわないとね…)
(こればかりはこの北方の地の湖、それもある程度の大きさの湖で育ったチョウザメでないと美味なキャビアが採れぬと聞きましては…)
(ふふふふふ…)
(ふほほほほほ)
ええそうです、このカザンの港近くに駅があるとか、更にはカザン宮殿や聖母教会が至近にあるとか。
全てはこの、黒い宝石たるサメの卵の加工工場や貯蔵庫に関わっておるからだそうです。
(現状だとサメ漁船でチョウザメを捕獲してから、船内で仮死状態にして開腹してるんだっけ)
(そうそう。んで、卵を取り出した後は痴女種能力でサメを治療して放すんだよ)
(チンポネックスの水溶液に漬けてから放すとか誰が考えたのよ…)
(いいじゃんか、捕まえる前より元気になるんだし…)
で、そのサメ漁船の中で不純物を取り除いて塩漬け容器に漬け込まれた卵、カザン港の冷蔵倉庫なる倉に運ばれて数ヶ月、熟成された後に瓶詰めして出荷となるそうですけどね。
その薄く平たいガラス瓶容器の金属蓋、マリアリーゼ陛下に言われるがままに開封しますと、びっちりと綺麗に並んでいるのです。
(ピンセットで1粒1粒並べてんだよね…)
(恐ろしいことしてるわね…)
(日本でもキャビア製造してる業者はこれ、やってるそうだぞ…)
(お刺身にタンポポの花を載せたり、あんぱんにゴマを振りかけるより悲惨な労働の気もするわよ…)
(かっぱ巻きを地下で作らされるよりマシだろ…)
まぁ、ともかく。
その味は単純に申しますと、塩辛いぷちぷちした卵。
更に申しますと、漬け込む際に使う塩の質によっても味が変わってしまう模様。
しかし、そのぷちぷち感を保つためには新鮮なうちに塩漬けして、一定期間後に瓶詰め保存との工程を迅速に終える必要があるとのこと。
つまりは、加工職人という部類の者を必要とするのです。
(確かに珍しい味ではあるが…中原龍皇国の蚊の目玉の吸い物とやらもこうであるのかのう)
(家光さん…あれ、実際にはスープの具のエビの目玉らしいよ…)
(えええええ…余、じゃなくて俺にあれ献上した横濱支那料理街の会頭のジジイ、嘘ついたのかよ…甚右衛門!あれ飛び加藤の旦那の知り合いだろ!息子の家綱はまずいとしてもさ、信綱でも誰でもいいから幕府の奴捕まえて文句言ってもらってくれよ!俺信じたじゃんか!)
(上様…それ公式に幕府から言うと、死んだのは上様の替え玉で実は存命だってバレるじゃないですか…)
(だからってよ、まりや様に今、真実を聞いてしまったからには俺のハラは収まらねぇじゃん…比丘尼国戻ったら飯奢らせるから覚悟しろって言っといてくれよっ)
(上様、そんなだから滋光法師は破戒坊主じゃなくて破壊坊主って巷で言われる羽目になるんですよ…まぁ、傅大人…傅満洲のおっさんには僕が言っておきます…)
(ちなみに傅満洲のおっさんの一族、連邦世界の黄美娜さんのご先祖様で満州族の帮の一因だってのはここだけの話な)
(まりりの話がわけわかめなのだけど、まぁともかくキャビアが珍味なのは間違い無いんだけどね…)
ただこれ、これだけで食べるとかじゃなくて、お酒も欲しい代物です。
そして、これだけ食べると言うのもちょっと…という部類。
「きゃびあ丼とかいう食べ方らしいのですけど」
「確かに飯には合うよな」
「何かこう、もったいないような…」
ええ、ヤパンの人々が乗る以前に、痴女皇国関係者が乗る場合に備えて、隣の供奉車で飯、炊けるのです。
そして、日式の茶…番茶とやらを淹れてもらい。
「まぁ、下々の茶の飲み方だけどよ、茶の湯みてぇな堅苦しいのよりはな」
「要は、このおろしあで普段、紅茶を嗜むような飲み方と思うて頂ければ…」
この茶、一言で申しますと苦い、のです。
しかし、こうした飯の際には合うのですよね。
というか、この米の飯に甘い茶を合わせるのは逆にまずい。
私にはそう、思えるのです。
ついでにボルシチも運ばせて、軽い飯にしておきます。なにせこの後も、1時間から3時間おきにどこかに止まって人々を送り出すのですから…。
「あと、おそろしあは広いってんで、時の進みが場所で違うって聞いてんだけどさ…」と、不安げに申される徳田様。
そう…このシベリアの大地、場所によって日の出日の入りの時間が違うのです。
そして、時計がモスクワで合わせた時間のままですと、現地の時計と全く違う…ひいては、こちらは朝や夕方と思っていても、向こうは昼間とか夜という事が起きるのだそうですよ…。
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北方帝室鉄道・シベリア超特急ボストーク号1列車時刻表(夏季)
※時刻はモスクワ時間(現地時間)で表記
モスクワ
12:00発
ニジニ・ノヴゴロド(ゴーリキー)
13:50着 14:00発
カザン
16:00着 16:10発
スヴェルドロフスク(エカテリンブルグ)
20:30 21:00(22:30着 23:00発)
チュメニ
23:00着 23:10発(2:00着 2:10発)
オムスク(2日目)
3:00着 3:10発(6:00着 6:10発)
ノヴォシビルスク
6:00着 6:10発(9:00着 9:10発)
クラスノヤルスク
9:00着 9:10発(13:00着 13:10発)
イルクーツク
15:00着 15:30発(20:00着 20:30発)
ウランウデ
17:00着 17:10発(22:00着 22:10発)
チタ
20:00着 20:10発(1:00着 1:10発)
ハバロフスク(3日目)
6:00着 6:30発(13:00着 13:30発)
ウラジオストク
10:00着(17:00着)
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「こ、これだけ時間差があんのかよ…」
ええ、この列車の時間表を見た徳田様、絶句しておられます。
そして、ほぼ、これに近い道のりを逆にモスクワ、そしてサンクトペテルブルグまで旅したコウダユウですらも。
いえ、コウダユウは別の意味で驚いておりました。
それは、このボストーク号の速さに対して。
室見様にお聞きしたのですが、連邦世界のシベリア鉄道の2倍からの速さだそうです。
ほぼ、町と町の間を一直線に近い…ほぼ最短距離で結ぶ上に、人はおろか動物の立ち入りすら難しいであろう橋の上を通るか、さもなくば穴の中。
およそ、さまざまな障害を可能な限りはねのけて、時速200キロから250キロを維持して走れるように設計されたその道を突き進めば3日で着いてしまうのです。
2年以上をかけてこの遠大な大陸を越えてきたコウダユウにしてみれば、圧倒されてもおかしくはないでしょう。
しかし、惜しむらくはシベリアに対する壁といった体で立ちはだかるというウラル山脈。
ここを通るのが夜になると言う事ですね。
(もうちょっと北なら夜でもかなり明るいんですけどねぇ)
(白夜にはちょっと緯度が低いかな)
などと言う心話を流して来られる、お二方。
(ええとですね、次に停まるスヴェルドロフスク…エカテリンブルグ記念市の駅で、前の機関車を交換します。停車時間は30分ですけど、ここでも結構な人の入れ替えがあるはずです。あたしは機関車の入れ替え作業に付き合うので、まりり…マリアリーゼ陛下と一緒に、送り出しと迎え入れの儀式の方、よろしくお願いします…)




