ロイドとシュゼット
私は人生のほとんどを失ってしまった。
それくらい私の人生は婚約者の為にあったのだから。
起きて寝るまで彼の為に生きて、皆からも彼の為に全てをささげよ、と言われ、それを疑ったこともない。
しかし、今はそれも夢のごとく消え去ってしまった。
両親は婚約破棄の慰謝料を相手方に請求しながら、次の私の嫁ぎ先を探したりと大忙しだ。
それに対して、当の本人である私は放置され、暇も持て余している。
普通の女の子は何をすればいいのかしら?
ある時間は全て婚約者の為に。
習い事も、お茶会も、着飾ることも、全ては婚約者の為。
本当は好きかどうかも分からなかったくせに、皆から言われてその気になっていた自分…今は甘美なお茶会のお茶受けとなっているのだろう。
憂鬱な気持ちは地を這うようにズルズルと嫌な考えばかりを引き連れては更に重みを増す。
誰にも渡すことのない刺繍は以前の思い出を引き出し、以前友人だったご令嬢からオススメされたロマンスたっぷりの本は悪役と自分を重ねてより鬱となり、哲学書は自分の心を暴かれるようで開いた本をすぐに閉じた。
「シュゼット…あぁ、どうして君の名はシュゼットなのだろうか。」
庭の木からベランダに乗り移り、窓から不法侵入した男が一人、舞台役者の如く大袈裟な演技で私の名を呼び、私の前に膝をついて挨拶しはじめる。
許可なく触れた私の手の方に男の唇が触れた。
「…嘲笑いに来たの?」
顔は正面を向いたまま、見下すように男を見る。
「シュゼット、君に愛を囁きに私、ロイドは馳せ参じました。」
馬鹿馬鹿しい演技に乗るほど私の心は今寛容には慣れない。
「傷心の女は口説きやすいと思って?生憎、貴方のコレクションの中には入るつもりは無いの。」
婚約破棄されてほとんどの物を喪ってしまったとしても、私は自暴自棄にもなれず、プライドさえも捨てられなかった。
だから、こんなにも苦しいのだと思う。
「…元気そうでよかったよ。でも、少し痩せたね。」
演技をやめたロイドがシュゼットの頰に触れる。
その距離感の無さは流石と言うべきか、シュゼットはロイドの手を振り切るように首を思いっきり逸らした。
「今から幼馴染面しても駄目よ。もう貴方は幼馴染と言えないくらい私のそばに近寄らなかったじゃない。」
そう、ロイドはシュゼットと幼馴染で、幼い頃は結構仲が良かった。
シュゼットも親しい友人だと思っていたのに、シュゼットが婚約してからというもの、逃げるかのように距離を置かれたのだ。
確かに婚約者がいる身で今までのように仲良くしようと思わなかったが、そこまで避けられるのはシュゼットにとってもショックだった。
そして、ロイドが数々の浮名を流す頃には、ロイドはシュゼットの知らないロイドになっていた。
「…そりゃあ、好きな人が他の男を見つめている姿が辛かったからね。」
「嘘つき。何度その言葉で女性を口説いたのかしら?愛の囁きは十八番でしょう?」
「手厳しいね。」
「結局、私もその辺の女と一緒ってこと。一瞬でも貴方は友人だから口説かない、また友人に戻れるって喜びそうになった自分が馬鹿みたい。」
優男の顔がどんどん歪もうともシュゼットは言葉を辞めない。
八つ当たりだとは分かっているけれど、シュゼットは喚き散らしたくてしょうがなかったのだ。
結局、あの時自分は物分かりの良い婚約者を演じることしかできなかったあの時からずっと。
本当はロイドの前ではなく、元婚約者の前で、捨てないでと喚いて縋り付きたかった。
「そうだね、私は嘘をつき過ぎた。もし、この愛が証明できるのであれば、毒さえ飲み込むよ。」
「あら、残念ね。私は貴方が死んだ後、侯爵の後妻になるの。まぁ、毒を飲まないでいても、以前の様に貴方が去って行けば運命は変わらないわ。だからほっといてよ。」
侯爵の後妻の件については、両親が話しているのをたまたま聞いてしまった。
親子ほど違う侯爵の後妻、それがシュゼットの今の価値だと両親の口から出てきた時、頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
皆が同じくらいの歳の人と子を作り、家庭を作り上げていく中、私はもう既にある侯爵家の中に入って歯車として生きていく人生しかない。
元婚約者もロイドも自由に愛を囁き、愛する人を側に置いているというのに、私はただの道具として側に置かれ生きていくのだ。
「ならば、この手を取り、全てを捨ててついてきてくれないか?」
「嫌よ。どうせ貴方は途中で私を見捨てるわ。」
数々の浮名は始まりがあり、終わりがあったからこそ積み上げられてきたもの。
ロイドの奔放さは嫌でも目に、耳に入ってきた。
「困ったね…遠い国には約束した男女がお互いの指を切って交換する誓いがあるらしい。僕の指、いる?」
「いらない。」
「どうしたらいいものか…全ては日頃の行いの所為だろうけど…」
「そうね。」
シュゼットが顔を逸らしたままでいると、ロイドは無防備になった首筋を撫でる。
その撫で方に男性を一切知らないシュゼットは鳥肌を立たせた。
「ずっと…この首筋と耳を飾る他の男色の宝石が憎くてしょうがなかった…」
慣れた手つきで上へと這い上がっていくロイドの指がシュゼットの耳たぶに触れた時、微かに奥歯が擦れる音が聞こえた。
「それならもう大丈夫。もう二度と飾ることはないし、とっとと売っ払おうかしら。その方が元婚約者も喜ぶわ。」
シュゼットの脳裏に元婚約者が浮かぶ。
誰よりもキラキラと眩しく見えていた彼は今も少し光り輝いていて、自分の未練がましさに胸が詰まる。
最後に一言だけでも優しく名前を呼んで欲しかった。
そう思うと目に涙が滲んだ。
今頃は自分の希望とは違う意味で笑顔にしているのだろう。
「…今でも君の中にいる男が許せないな。君が望むなら投げつけて来ようか?」
「それはいいわね。もしそれが出来たのなら貴方を信じるわ。」
魔がさした、そうとしか言いようが無かった。
シュゼットは不気味な笑みを浮かべる。
自分を捨てて幸せになる元婚約者とそれを嘲笑う人間たちへの憎しみがシュゼットの心に復讐したい、一矢報いたい、という気持ちが過ったのだ。
そして目の前にいる推定不誠実な男、今更になって現れた元友人の本心を探るにも丁度いい、と。
「分かった。宝石はどこ?」
「ここよ。」
シュゼットは傍にあった小さな宝石箱を手に取る。
小さくても一際豪華で細かい細工の施された宝箱は、いつでも中身にあるそれを眺められるようにと、そばに置いていた。
婚約破棄された時から開けていなかった宝箱にはいつものように美しく婚約者の瞳の色に輝く宝石たちが鎮座している。
例え義務感からの贈り物でも、これを付けて隣に立てるだけで嬉しくて誇らしかった。
その宝石たちをロイドは無造作に掴み取る。
一瞬怯んだ心を落ち着かせ、例え盗まれただけでも清々するとシュゼットは自分に思い込ませた。
「行ってくるよ、シュゼット。君に幸福と安寧を。」
ロイドの唇がシュゼットの頰を掠める。
これで自分の心とも決別できたなら…
シュゼットは無言でロイドと宝石を見送る。
全てを失ったシュゼットが唯一、友情を取り戻せる機会を台無しにしてしまった後悔に震えたのは、見送った直後のことだった。
いくらベッドに横たわり、目を閉じても眠れぬ時間を幾ばくか過ごしたある時、窓をコツンと叩く音にシュゼットは素早く身を起こしす。
シュゼットはすぐに駆け寄り、窓を開ける。
「眠れなかったの?」
「ええ。」
ロイドは飄々とシュゼットに話しかけるが、暗くてよく見えない中でも感じる違和感にシュゼットは手を伸ばした。
「少し…やられてしまった…」
ロイドの頰に触れるシュゼットの手に腫れ上がる熱い体温が伝わる。
女好きのする甘いマスクは見事に台無しだ。
「馬鹿ね、本当、馬鹿。柄にもないくせに…」
シュゼットの知るロイドは優しくて、優し過ぎて、争いを好むような人柄ではなかった。
どちらかというと文学少年でいつも穏やかで微笑んでいた人。
そんなロイドとは真逆に見える状況なのに、シュゼットは昔のロイドを思い出して懐かしくて、何故か涙が出た。
「でも、安心して。君はもう捨てられた女じゃない。数々の浮名を流してきた不誠実男が密かに想いを寄せていた初恋の人だ。」
シュゼットの思い出のロイドの笑顔と今のロイドの笑顔が被り、シュゼットは変わらないものがあったことを知る。
月明かりに照らされたロイドの顔は暗闇の中で白く浮かび、シュゼットには僅かに輝いて見えた。
「…少し準備させて。」
シュゼットはそう言ってロイドから離れ、小さめのトランクに一番地味なドレス一枚と宝石をありったけ入れる。
その光景にロイドは不思議そうに見つめた。
「シュゼット?」
ロイドから名前を呼ばれたシュゼットが振り返り、トランクを締めながらロイドを見つめて微笑む。
「何もかも捨てて、と言ったのは貴方でしょう?」
「僕はただ、信じてもらえるならそれで…」
「なら、嘘なの?」
「嘘じゃない!…でも、君はいいのか?本当に…」
「いいの。事は両親の耳に入る前に起こした方がいいでしょう?」
幼い頃、悪戯に笑ったようにシュゼットは笑う。
ロイドもそのシュゼットの笑みに力が抜けたように笑った。
「ありがとう。愛してる。ずっと前から君が好きだった…」
「…私はまだ分からないわ。」
「それでいい。手を取ってくれる、それだけでいい…」
荷造りの終わったシュゼットをロイドは抱き締める。
「私は悲劇は嫌よ。」
「僕も嫌だ。」
手を繋ぎ、シュゼットとロイドは笑顔で駆け出す。
まるで童心に返ったように。
これから社交界の噂の的になるだろう二人の出奔を月だけが静かに見守っていた。