モールス!
ネタバレになるなーと言うことで、改題しました
「ほら、簡単だろ?」
そんなことを言いながらわたしの顔を覗き込むのは、サム。……二つ年上のサミュエル・ノゲル先輩。
男だというのにいつもいい匂いをさせていて、鼻のいい獣人のわたしには一種の拷問だ。
百メートル先にいても先輩がどこにいるのかわかってしまう。
……これは呪い。
「どう?」
……なんてまつ毛バシバシの目で覗き込まれては、俯くしかない。
手元にはモールス符号の解読表。
トンとツーでアルファベットや数字を表せてしまうという。
先輩は目をキラキラさせながらモールスの成り立ちやどれだけすごいかを語ってくれているけど、その半分も耳に入らない。
一つは周りの目のせいで。そしてもう一つはわたしの心のせいで。
面白いものを見せるよ、と言われてやってきたのは先輩の住む男子寮のロビーだった。
男子寮は女子禁制なので、面会は全て管理人の部屋から見渡せるロビーで行われる。
当然ながら、わたしと先輩だけということはなくて、そこには十人くらいの寮生がいた。……わたしがここにきてからは倍ぐらいに増えている。
その全ての目がわたしと先輩に向いている……と思うのは、わたしの気のせいではないだろう。
時々漏れ聞こえてくる声にも、わたしと先輩をからかう内容が含まれているから。
……こんな時、耳の良い獣人でなくてよかったと思う。いや、今も普通の人よりは耳がいいのだけれど。
「……こら、聞いてるか。ミン」
「は、はいっ!」
わたしを、ミュリエルではなくミンと呼ぶのは先輩だけだ。
呼ばれるたびに心臓がおかしくなる。
……本当に呪いのようだ。
「じゃあ、これは?」
不意に先輩が手元のペンで机を叩いた。
トトツーツーツートトツー
自分の鼓動よりも早いんじゃないかというテンポで流れるようなそれは、全てがつながっているようにしか聞こえない。
そんな符号はあっただろうかと符号表に目をやると、周りから囃し立てるように口笛が吹かれた。
気がつけば遠回りに見ていたはずの寮生がかなり近くにいて、わたしの手元を覗き込んでいる。
「やるなあお前」
「このキザ野郎」
なんて言いながら、べしべし頭やら背中やらを叩かれている先輩は、でも表情を変えることなくわたしの方を見つめている。
これは、わたしが何か言わないとおさまらない?
「あ、あのっ」
ようやく絞り出した声は周りの喧騒にかき消されてしまうかと思ったけれど、途端に周りが静まり返った。
それが逆に怖くなって、続く言葉を飲み込んでしまう。
先輩の目が怖い。
いつもなら気分良く酔いしれるいい匂いも、しない。
自分の心臓のドキドキだけが世界の全部みたいで。
飛び出しそうになる心臓をおさえるように、グッと胸の前で拳を握る。
……飲まれそう。
沈黙が痛い。さっきみたいにだれか無駄口を叩いてくれればいいのに。
でも、きっと視線は逸らしちゃダメで。
じっと先輩を見ながら、このからからに乾いた口を開く。
「わから、ないので、お、しえて」
「もちろん」
最後まで言い切る前に先輩は遮って、周りの緊張がどっと解ける。
なんだよー、なんて言いながら、でも見物人たちは立ち去らない。
先輩は、にっこりと笑いながら、わたしの手を握る。
……えっと。
「じゃあ今日からミンもクラブの一員ってことで」
「……はい?」
「よろしくな。活動は毎日夕食後。迎えにいくから」
先輩の言葉が上滑りしていく。
……なんだ、クラブの勧誘だったんだ。
先輩が入ってる無線クラブは新人がいなくて先輩一人だけって言ってた。
新人を入れないと、部室と屋上のアンテナ取り上げられるって。
だから、誘われただけなんだね。
胸がつきりと痛んだ。
そりゃそうだよね、そうでなきゃわざわざ男子寮になんて呼び出したりしない。
わたしはただの後輩だもの。
あーあ、とか周りで言ってるのが聞こえる。
いたたまれない。
とっとと帰って、毛布かぶって隠れたい。
急に呼び出されて期待してた自分が痛すぎる。
「じゃあ……帰りますね」
なるべく先輩を見ないようにして、立ち上がる。
でも、背をむけようとしたら肩を掴まれた。
お願いだから帰らせてほしい。
周りの人たちがまた静かになっていく。
……お願いだから放っておいてほしい。
「ダメだよ。まだ帰さない」
「……クラブ活動には明日から参加します」
だから帰らせて、と思っても、先輩の腕を解けない。
「まずは入部届け書いてもらわないと。部室に案内するよ」
先輩は本当にクラブのことしか考えてないんだ。
それが、いつもの先輩らしくもあり、憎らしくもあるところで。
何を言っても離れてくれなさそうな先輩の様子に、わたしの心の涙はすっかり乾いてしまった。
勘違いしたのはわたし。
期待したのもわたし。
先輩は悪くない。
ぱっと切り替えて、先輩の方を振り向いた。いつもの笑顔を心がけて。
「わかりました。じゃあ行きます」
そう答えたのに、なぜか先輩はとても不機嫌そうに眉根を寄せる。
どうして?
クラブ員が増えるのは嬉しいことじゃないの?
周りがまたざわざわし始める。
どうしたらよかったのだろう。
「……ミン」
どうして、怒ったみたいに呼ぶの?
いつものいい匂いが、刺々しくなる。
苛立ちと不安と、悲しみの匂い。
どうしてだろう。
泣きたいのはわたしの方なのに。
「サム。お前、何やってんの。女なんか……」
聞きなれた声、嗅ぎ慣れた匂い。
でも顔を向けることができない。先輩の目がわたしを捉えているから。
呆れたような言葉は先輩に向けてのものだ。わたしに向けられたことなんかない。
「……こんなところで何やってる、ミュリエル」
……ほら、やっぱり。
「こういう時は見て見ぬ振りするもんだろ、兄貴ってのは」
結構近くからヤジが飛ぶ。
兄は、出来損ないのわたしには冷たい。
今も冷え冷えとした視線が刺さってるのがよくわかる。
わかるだけに、そっちを見たくない。
「サミュエル、離せ」
「先輩は黙っててください。クラブ内の問題ですから。……ミュリエル、部室に案内するよ」
「は、はい」
兄がいるときだけ、先輩はわたしをミュリエルと呼ぶ。それがなんだか寂しい。
不機嫌な目つきでわたしを見据えたまま、先輩はわたしの手首を掴んで引く。
釣られて立ち上がると、ようやく視線が外れた。
「じゃあ、失礼します。ヴィラール先輩」
「がっつくなよー、サム」
「無理強いすんじゃねーぞ」
がっしりと握られた手首とは反対の手にモールス符号表を持たされた。ロビーを出る頃には、集っていた人たちは廊下にまで溢れていて、不機嫌な先輩に連行されるわたしになぜか同情的な言葉をかけてくる。
先輩は部室に着くまで終始だんまりで、居心地の悪いわたしは胃が痛くなった。
部室は男子寮にほど近い、小高い場所にあった。
本当は裏山のてっぺんに欲しかったそうだけど、そちらは天文部が占領しているらしい。
天文部は部員も多くて、先輩一人じゃ太刀打ちできなかったと先日聞いた。
「……あの」
部室についても先輩の機嫌は治らない。
むしろ悪くなったように見える。手首も離してもらえない。力強く握られて引っ張られて、そろそろ痛いです。
「ミン……ミュリエルは……」
わざわざ言い直されたことがひどく辛い。
もう、ミンとは呼んでもらえないのだろうか。わたしが怒らせてしまったから……。
「あの……お邪魔なら」
「邪魔なわけない!」
帰る、と口にするより早く、先輩に遮られた。
だって、そんなに怒ってるの、わたしのせい、ですよね?
「ああ、君のせいなんかじゃない。別に怒ってなんかいないから」
うつむいたわたしを、先輩は両肩に手を置いて引き寄せた。解放された手首が痛い。
「怒ってたのは……あいつらに対してだ。先輩も……」
「どう、して?」
先輩の言う先輩は、兄のことだろう。
兄は完璧な人だ。完璧な銀狼人。俊足で獰猛で勇敢な、我が家の鑑みたいな人。
翻って、わたしは中途半端だ。
茶色の毛も、折れた耳も、気弱な性格も、誰に似たのかと言われるくらい、誰にも似ていない。
兄も父も妹も、わたしを駄犬と呼ぶ。
何にもなれない、臆病者。
なのに。
「君をないがしろにする」
先輩はいつもわたしを甘やかす。
わたしにはそんな価値、ないのに。
「だって……仕方ない、です」
「……歯痒いよ」
先輩の言いたいことがわからないのは、きっとわたしが馬鹿だからだろう。
武門の家柄だからと放り込まれた兵学校でも、わたしは落ちこぼれだ。
「君には君の、いいところがあるのに」
あるのだろうか。
もしあるなら、わたしでもいつか先輩の役に立てるようになれるだろうか。
◇◇◇◇
それから先輩は、約束通りに毎夕食後に迎えに来た。
女子寮はロビーどころか敷地内男子立ち入り禁止だから、先輩は門の前で待っている。
わたしは、食事もそこそこに飛び出していく。
夜の外出は、部活動に限り門限がない。女子の場合はきちんと寮まで送り届けるのが条件だそうだけれど。
毎日届けを出すわたしに寮母はあきれ顔だったけれど、紳士的な先輩のおかげでトラブルはない。
ただ、あまりゆっくりしてると、同じ寮の子たちが先輩を困らせる。だから食事の時間は競争だ。
「ミン」
あれから、変わらずわたしをミンと呼んでくれるのが嬉しい。
女子寮から部室まで、夜だからと手を引かれる。
すぐ近くから香るいい匂いにやっぱりドキドキする。
部室に入ると、手際よく準備を始める先輩。わたしも慣れてきたから先輩の手伝いをする。
無線機の電源を入れると、さっそく音が聞こえてくる。
今日聞こえているのは、大陸の端にある町の電波だと先輩は教えてくれた。
聞いたことのない言語だけど、陽気な調子なのは伝わってくる。
遠くに住む人とのおしゃべりが先輩は好きらしい。
わたしが先輩から教わっているのはもっぱらモールスだ。
あれから先輩と練習して、ごくゆっくりなら聞き取れるようになった。とはいえ一文字ずつでないと混乱する。一文字目を考えてる間に続く二文字目を聞き落としてしまうから。
先輩ぐらいになると、流れるような音楽みたいな音を聞きながら書き取れるらしい。
あんなスピードのモールス、わたしに聞き取れるようになる日なんかこない気がするけれど。
「今日は数字を覚えようか」
「はい」
数字は五つの音を組み合わせる。
一応法則があって、アルファベットを覚えるよりは難しくない。
「聞き取るのはできそう?」
「はい。でも、打つのは難しそう、です」
そう。
聞き取るばかりじゃなくて、いずれはわたしも打てるように頑張らないと。
先輩に釣られて入ったクラブだけれど、楽しげに異国の言葉で喋っている先輩がちょっと羨ましくなって、わたしもいずれは混じりたいと思うようになった。
異国の言葉はなかなか覚えられないけど、モールスなら交信できるんじゃないかと思っている。
「数字は省略することもできるんだよ」
こんな風に、と先輩は手近にあった電鍵……モールス信号を打つための装置を操作する。
「本来ならこう打つのを」
トトトトト
ツーツーツーツート
「こう省略できる」
トトトトト
ツート
「えっと、9がエヌ?」
「そう。これもルールがあるんだけどね。その他にも、こう言うのもある。取れる?」
ツートツーツー
ツーツーツー
トトツー
「YOU」
「そう。よく取れたね」
そう言いながら、続けて先輩はモールスを打つ。ゆっくりと。
トトツー
「え、U?」
「そう。音が同じだろ?」
言われてみれば、確かにそうだ。
少ない文字数で効率的にやりとりできるように考えた人がいたのかな。
「それとか、ゼロをOに置き換えるとかな」
ゼロはツーツーツーツーツー。Oはツーツーツー。三つの音で済む。
「すごいですね」
「先人の知恵だよな」
そう言いながら、先輩は電鍵でモールスを打つ。流れるような音の中に、以前聞いたことのある音があった気がした。
「そういえば先輩」
「ん?」
「あの時……なんて打ってたんですか?」
モールスについて熱く語ってくれたあの日。
先輩が打ったモールスはそんなに長くなかった。
先輩の反応がなくなって、顔を上げると……先輩は口元に手を当てたまま、フリーズしている。
えっと、わたし、そんな変なこと言った?
「あれは……」
ちらり、と先輩の目がわたしを見て、そらされた。
「……聞き取れたら、教えてあげる」
そう言って、先輩は電鍵を鳴らす。
トト
ツーツーツー
トトツー
前と変わらないスピードで打たれたモールス符号は、聞き慣れたせいなのか、そんな感じに分かれて聞こえた。
一文字目はわかる。「I」だ。
その次は、さっき使った「O」。
最後もさっき使った「U」。
IOU?
さっき教わった短縮形だとしたら、最後のUはYOUだよね。
でも、真ん中のOがわからない。
短縮形ならゼロだけど、何を意味してるんだろう。
「わからない?」
そっと覗き込んでくる先輩はどことなく寂しげで、読み取れない自分が嫌になる。
「あの……ゼロって何かの略ですか?」
「そう、だね」
視線を逸らした先輩は答えてくれたものの歯切れが悪い。
わたしもいろいろ思い出しながら唸る。
ゼロには無のイメージもある。空っぽ、とか、無心、とか。白とか、無色透明。
いろいろ頭をひねったけれど、やっぱり思いつけない。
「わかりません……」
わからないことが申し訳なくて、しょんぼりとうなだれると、頭を撫でられた。へにょっと折れた耳も優しく撫でられる。
先輩の手、好き。
うなだれたまま、しばらく目を瞑ってうっとりしていたら、先輩のいい匂いがどんどん濃くなっていく。
「……っ」
息をのむ音が聞こえて目を開けると、すぐ近くに先輩の顔があって……真っ赤だった。
「せんぱっ……」
「反則だろ、それ」
あまりに近すぎる先輩の顔に目を瞑ると……ふに、と柔らかいものが当たった。
そのままふわりと抱きしめられた。
何が、起きてるの。
びっくりして目を見開くと、お日様色で視界が埋め尽くされている。これ、先輩の髪の色……。
こんな至近距離から匂う先輩の濃い香りに頭の芯が痺れていく。
背中に回された先輩の力強い腕に。
密着して伝わってくる先輩の熱に。
何も考えられなくなっていく。
「せんぱ、い」
「こんないい匂いまでさせて……俺をどうしたいの」
そんなのわかんない。
先輩は肩口に顔を埋めてしきりに擦り付けている。
それさえもわたしを狂わせていく。
「す、き」
「ミンっ」
名を呼ばれて、抱きしめられて。
深く口付けられたわたしは、そのまま気を失ってしまった。
◇◇◇◇
あれから、変わらず先輩は夕食後にやってくる。
二人で手を繋ぎながら部室に向かうのも、周りに冷やかされるのも、だいぶ慣れた……と思う。
以前と違うのは、わたしと先輩の距離。
指を互いに絡めてゆっくりと歩く。
ゼロの読み方は、もう知っている。
「IOU」は先輩がくれた、最短の愛の言葉。
だからわたしもIOU2と返す。
I love you tooと。