戦いの後
「危ない所を助けて頂いて、ありがとうございます」
これ以上が無いくらい深々と、アスハは頭を下げる。キッカは気を失っており、アスハに抱き支えられていた。
アスハとキッカの後ろには、槍で串刺しにされた餓鬼が横たわってる。槍を餓鬼へと突き刺したであろうオズヌと名乗った男は、その穂先が到底届くと思えない場所にいた。あの位置から槍を投げつけることで、餓鬼を串刺しにしたのだろう。アスハは、オズヌへと恐れを抱くとともに憧れも感じていた。
「当然のことをしたまでよ!無事で何よりだ。顔を上げよ」
その業の業の持ちであるオズヌは、口角をあげながら近づいてくる。そして、右手を差し出した。その手は、アスハへと握手を求めていた。
餓鬼からの奇襲にアスハだけでは、対処の仕様がなかった。まして、意識を失っているキッカを抱えていようものなら、二人の命が危機に晒されたも同然である。アスハは、物言わぬ屍となった餓鬼に、その背中を引き裂かれることを覚悟していた。しかし、それをオズヌに救われたのだ。オズヌが現れなかったらと思うと背筋の凍る思いがする。
この見知らぬ男に感謝しなければならないとアスハは思う。その小さな手で、差し出された手を握り返した。
オズヌの手は分厚く、節くれだっており、力強さを感じさせるものだった。アスハが手を握った先にいるオズヌは、服の上からでもはっきりと分かるほどに筋骨隆々であり、その所作も無駄な動きがなく洗練されているように見える。背丈の方も、六尺はあろうかという程に大きい。精悍な顔つきと相俟って、戦いを生業にしているであろうことは想像に難くなかった。
「それにしても…、随分と酷くやられたものだな…」
餓鬼へと投擲した槍を拾いあげ、それを背中に担ぐとオズヌは村を見渡していた。殆どの家々が、倒壊している。凄惨な光景を目の当たりにしたオズヌの表情には、悔しさの色が滲んでいた。
「チクサ村が、餓鬼の大群に襲われていることを聞きつけてな。遅くなってしまって、申し訳ない…。このような事態を引き起こさぬように、鬼を退治するのが拙者の役目でな。もう少し、拙者が早く到着していれば…。このようなことにならずに済んだのに…」
オズヌは、アスハに向かって頭を下げていた。その唇は、固く結ばれている。しかし、アスハとしては、オズヌが助けに来ることなど想像もしていなかった。同時に、いつ村が餓鬼の襲撃に合うかなど誰にも分かりもしないのに、オズヌが到着の遅くなったことを気に病む必要はないとも思っている。
「自分たちを、助けて頂けただけで十分です」
アスハは、頻りに頭を上げるようにと促すが、オズヌの折られた背筋が伸びることはなかった。
例え自分に責任がなかったとしても、オズヌという男は、鬼によって危険にさらされた人に頭を下げずにはいられないらしい。キッカを危険の矢面に立たせ、自分たちは屋敷の中に身を潜めてばかりいた村の大人たちに比べて、何と漢気に溢れているのだろうとアスハは感嘆する。未だ、きっちりと背筋を垂直に折り曲げているオズヌの姿が、尊いものに思えた。
それにしても、オズヌは、鬼を退治する役目を負っているらしい。白装束の上に鈴懸を羽織り、結袈裟を纏ったその服装をこの辺りで目にすることはない。何かのお役目を背負っているからこその、珍しい服装なのだろうかと疑問に思える。その佇まいから、戦いに身を置く者と予想されたが、まさか、鬼退治を生業にしている者がいるとは、アスハには思いも依らぬことであった。
「頭を上げて下さい…。僕と姉さまは、オズヌさまに救われましたから。それだけで、幸運というものです。それに今は、一刻も早く姉さまを横にしてあげたいのですが…」
鬼退治の役目を負ったオズヌには助けられるべくして、助けられたのだろう。しかし、如何にオズヌが鬼と戦うことを生業としていても、全てを救えるとは限らない。こちらが感謝こそすれ、オズヌが詫びる必要などないのである。アスハは、再度オズヌに頭を上げるように促す。そして、気を失っているキッカへと目を向けた。
傷ついたキッカは、倒れかけた木のように身体を固くしてアスハにもたれ掛かっていた。身体が痛むのか、時折、苦しげに顔を歪めている。
「やや、これは引き止めてしまって済まなかった。その詫びと言っては何だが、その娘を拙者に診せて貰えないだろうか?こう言っては何だが、拙者も法術を齧っているのだから、役に立つこともあろう。どれ、あそこの屋敷まで運ぼうぞ」
法術と聞いても、何のことかさっぱり分からないアスハである。治療をしてくれるのだろうと思い、キッカを屋敷に寝かせようと歩みだした。しかし、腕力のないアスハでは、キッカを引きずって移動させることが精一杯であり、その足取りは覚束なかい。アスハは、懸命にキッカを移動させているものの、その足は痛々しげに地を這っている。その様子を見ていたオズヌは、アスハの横へとやってきた。
「失礼致す」
オズヌは、アスハの肩へと手を置き、一旦止まるようにと促す。そして、アスハからキッカの身体を譲り受けると、その肩と膝を持って赤子を扱うかのように、丁寧に担ぎ上げた。
初対面のよく知らぬ男が姉の身体に触れたことで、一瞬顔を顰めかけたアスハであるが、その慈しむような表情と大木のようにどっしりとした身体でキッカを包み込むオズヌの姿を見ると溜飲を下げる。その役目を自分が担うことができない無念さこそあるが、自分がキッカを担ぐよりも遥かにマシであると自分を納得させたのだ。
そして、オズヌはキッカを屋敷の中に担ぎ込んだ。屋敷の中は、依然として村から脅威が去ったことによる歓声に沸いている。先刻まで、村人たちの顔は絶望に染まっていたのに、現在は笑顔に溢れて、口々に喜びを露わにしていた。
村が脅威から解放されたのはキッカのおかげだというのに、そのキッカが傷ついて倒れているのにも関わらず、キッカのことを気に留めている者はいない。
「……誰のおかげだよ…」
アスハには、それが不満だった。父は他の皆と肩を抱き合って喜んでいるし、母の姿は見当たらない。あれほど恭しい態度を見せていた長に至っては、何かに手を合わせていて、こちらを見向きもしない。
「誰も、姉のことを気にしてくれないことが不満か?」
オズヌが気遣うように、アスハへと声をかけるが、その表情は沈んだままだ。アスハにとって、オズヌの言うことは正鵠を射ていた。しかし、それを口に出すことは憚られる。歓喜に湧く皆に水を指すつもりはない。しかし、それでもキッカを労ってくれと思ってしまうのだった。アスハの手がキッカへと触れる。
「生きて窮地を脱したのだ。他人を気にかける余裕はないのだろう。生の喜びへと浸りきり、他者まで目の届かぬことも仕方あるまい…。それに、お主が心配していることで、この娘も救われるていることよ。ところで、他の大人たちは随分と元気なようだが、何故、この娘だけがこれ程傷ついているのだ?」
「それは十分に分かるんだけども―――」
納得は出来ないものの、オズヌの言い分は最もなことであるし、反論を挟む余地もない。その辺りは有耶無耶にして、誰が身を盾にして村を救ったのか、アスハはキッカのことをオズヌに説明した。
「そうか、この娘はお主の姉であったか…。それにしても、この娘が村を救ったと申すか!?それに牛頭と馬頭とな!?それを打ち倒すとは…」
オズヌは開いた口が塞がらず、信じられないという驚愕の表情を浮かべていた。オズヌの抱きかかえた村娘は、戦いに身を置くことには程遠いと思えるほどに、あどけない顔をしていた。幼さを僅かに残したこの姿は可憐だと言っても過言ではない。さりとて、嘘を言っているとも思えぬ程に、アスハの顔は真剣であった。
騒ぎ続ける村人たちを避け、屋敷の奥の部屋へとキッカを担ぎ込むと、そこに横たわらせた。オズヌがキッカの腹へと手を当て、思案顔を浮かべる。キッカの腹は、膨らんでは萎むのを規則正しく繰り返している。
その横では、アスハが心配そうにキッカの顔を覗き込んでいた。
「ふむ…。息は正常である。命に別状はない。此の様子なら臓腑も大事なかろう。これなら…」
オズヌの手が、キッカの額へと触れる。
「若草の息吹を吹かせ、傷を癒やし給え」
新芽を育み豊穣を運んでくるような暖かさを持った風が、オズヌの手から吹き出しキッカを包み込んでいく。風が吹き抜けると、キッカの手足に見られた擦り傷は塞がり、青痣は消え失せ、瑞々しい肌が艶やかさを放つ美しい肌へと変化していた。キッカの顔も、心なしか赤みを取り戻したように見える。
「このまま寝かせておけば、時期に目を覚ますであろう」
痛々しさを感じさせていたキッカの身体は、元通りに戻っている。その様態が快方へと向かったことは、アスハからもはっきりと分かることであった。
「姉さま…、良かった…。重ね重ね、ありがとうございます」
再度、アスハはオズヌに向かって深々と頭を下げた。オズヌには、感謝してもしきれないだろう。アスハの頬を、一筋の雫が伝っていく。オズヌの言うように、いずれ目を覚ますだろう。アスハにとって、それは本当に喜ばしいことであった。
「気にする必要はない。これもまた、拙者の役目なれば。しかし、この娘からそれ以外の気を感じられたのだが、何かあるのか?」
キッカの中に宿る飯綱の気配を、オズヌは感じ取ったようである。ただの村娘が餓鬼だけでなく、牛頭や馬頭をまとめて撃退するなど、まるで御伽話しの一幕であり、そこに何かあると思うのは必然であろう。それに、神や鬼などについて何某か知っていそうなオズヌなら、それに勘付くのも当然と言うものだ。
アスハは、キッカが飯綱と結ひを得てたことでその力を振るえることをオズヌには告げずにいた。それを話すことで、キッカが更なる危険に身を晒すことになる予感がしたからである。しかし、このことをオズヌへと告げた方が、キッカのためになるとも思えるのである。
神妙な面持ちをしたアスハには、オズヌの質問に答えることができなかった。アスハは逡巡する。
二人の間に、沈黙が流れていく。
「話したくないのならば、黙っていればよい。アスハは、姉の様子を見ているがいい。どれ、拙者は村の大人たちとしばし話をしてこよう」
オズヌが席を立ち、部屋を後にする。一人残されたアスハは、両の手を重ね、姉の手を握りしめていた。時折苦しげに顔を歪ませていたキッカは、今は穏やかな寝息を立てている。
「今度は僕が、僕が姉さまを守るんだ…」
キッカの寝顔を見つめながら、アスハは奥歯を噛みしめる。自分に姉を守る力がないことを恨めしく思い、そのための力が欲しいと願った。アスハの予感とも確信ともとれる本能的な勘は、いずれまた危機が訪れるという警鐘を鳴らしている。それを乗り切るための力が欲しいと、切実な思いを胸に抱くのだった。
部屋には、キッカの寝息が木霊していた。